8.温情
淡く白みがかかった甲冑姿は、だが既に所々を赤く染めていた。
近寄らずとも鼻腔に突き刺さる鮮血の匂いを理解しながら、ウィルソンはどうしようもなくイラついた。
この国の誰かがヤツの犠牲になっただろうから、ではない。
残業が終わってさて帰ろうという時に、徹夜コースの仕事を目の前に叩きつけられたような気分である。これはもはや、筆舌に尽くしがたい。
「てめえらに接触する理由は何一つとしてねえんだよ……なあ、三女のリザさんよぉ!」
「なっ……き、貴様……なぜ」
「さぁな」
狼狽する魔人を前にして、ウィルソンは肩をすくめる。
手にした鞭を右手に持ち替えてから、指先に集中させた魔力を武器に伝達させる。
彼女が即座に動き――それを上回る、瞬時にして抜き払う一閃。
空気を切り裂いて快音を鳴らす鞭は、さらに地面を弾いた。その接地点に一瞬だけ魔方陣が出現したかと思うと、魔人が理解するよりも早く、魔術は発動する。
地表を高速で疾走する閃光。
リザと呼ばれた魔人が反応するよりも早く、それは彼女の足を縛り上げ――さらに蛇が絡みつくかのように、全身をがんじがらめにしていく。
「なッ――くッそ、人間如きが舐めるなァッ!」
女の咆哮。
そして瞬時に甲冑が眩く輝きはじめる。ウィルソンが次の瞬間に感じたのは、暑くなり始めるこの季節におよそ感じるはずのない、息も凍えるほどの寒さだった。
大地が白く染まるのは、霜ではなく既に氷を張っているからだった。木々が凍りつき、大気中の水分さえもが氷結して空気中に舞う。
突き刺さるような寒さの中で、だが凍りつくのは何もそれらばかりではなかった。
彼女の身体を拘束して、さらに甲冑の上からでも肉体に深く食い込むようなそれは、既に動きを止めている。魔力の塊でもあるそれは、誰が見ても明らかなまでに結氷していた。
全身に力を込め、肉体を解放する。
音も立てずに閃光は霧散して――。
「貴様、私のことを知っていながら、なぜその程度の技を出しやがった!」
明らかに侮辱をされた。
それに対して怒りする彼女に、ウィルソンは肩をすくめた。
「その程度の敵だと判断したまでだ」
わかりやすい挑発は、だが既に感情が沸点を超えている彼女にとって、程良く効果をもたらした。
そうして寒さを通り越して肌を焼き尽くすかの程に冷え切った大気の中、その呼気すらも霧のように視界を覆う。喉は乾燥して凍りつくその中で、寒風が彼女の右腕を包むように巻き起こった。
腕を振り払えば、肘先から飲み込むような氷刃が指先からさらに長く伸びて、出現する。
鞭は継ぎ目を凍らされて使いものにならない。
瞼が凍りついて、眼球が乾く。
だがウィルソンは肉体を保護することなく、魔力を余すことなく全てを戦闘用へとまわしていった。
「お前は三女だが、八番目に生まれた雑魚だ」
下から数えれば四番目。
だが既に二名が失せているために、現存する兄弟の中では下から三番目、というところだろうか。
末弟が死に、
「……貴様、三男坊をどこへやったッ!?」
単純計算で彼女よりはるかに実力を上回る兄は、
「食っちまった」
既にウィルソンの手によって消滅していた。
「なるほど、貴様は殺す。いっぺん死ねェッ!」
――死角となる背後から、急速に何かが接近する。
魔術を紡ぎ、空気がほぼ停滞しているがゆえによくわかるその肉薄するものに対して真空波を叩きこむ。
頭上からは二つに裂かれた図太い氷柱が落下して地面に落ち……。
「――そういうわけか」
彼女が敢えて近接戦闘を匂わせた意味を、ウィルソンが理解した。
そうするのも束の間。
既に四方八方、逃げ道など無いほどに出現した氷柱の軍勢は、頭上から雨あられと降り注ぎ始めていた。いくら大魔導師を自称し、またその事実を知るものは限られているにしても、それが真実であるウィルソンであっても――彼には死角は存在するし、そしてその状況は致命的なまでに行動が遅れた為のミスだと言えただろう。
ゆえに次の瞬間。
リザの目には、たしかに撒き散らされる血飛沫が空気に触れた瞬間に凍りつくのを、氷柱が喉を貫き胸を、四肢を、さらに全身を穿つのを見た。
だがいつの時も、主観的な情報が正しいとは限らない。
彼女にとっての死角から鋭い何かが飛来する。
それを認識した瞬間、目の前のウィルソンの姿は跡形もなく消え去っていた。
「な――あァ?!」
蒸気を上げる鋼鉄の鞭。その先端は下手な剣撃よりも鋭い斬撃たる柔軟過ぎる攻撃は、容易に彼女の背中を切り裂いた。
素材さえ不明な装甲が深く抉れる。リザは小さな悲鳴を押し殺してのけぞり、だが仕返しとばかりに触れた瞬間に、再び鞭を凍結させた。
だがそれよりも早く、ウィルソンが掲げた手の先、その虚空に魔方陣が出現する。その輪が回転しながら膨張、そして内部に細やかな紋様や魔法文字を刻み――間髪おかず、それは発動した。
詠唱や、発話、その魔術を作動させるための理論は全て切り捨て。およそ常識はずれ――というよりは、極めて理想的な意思のみによる発現。
故にその術自体は、リザが知覚するよりも早く彼女に襲いかかっていた。
彼女の背は、ごく単純に爆ぜたのだ。
火炎が猛威をふるい、瞬間的に大気の数十倍の高熱を彼女の背に出現させる。
もはや悲鳴を上げる暇もなくリザは吹き飛び――付近の大木に正面から叩きつけられ、その芯まで凍りついた幹を叩き割った。その半ばからへし折れた大木は、されど大きく傾いた所で動きを静止する。
樹と向かい合ったままの形から、踵を返して振り返る。
眼前には、ウィルソンが即座に紡いだ爆炎が火球となって襲いかかっていた。
息をつく間もない攻撃。
決して容赦など無い火炎。
全身を襲う灼熱感。
ヒリヒリと肌を焼く不快な感覚を覚えながら――だが、心が底冷えしていくのを感じた。
その業火へと手を突き出したのは、偶然か、否か――。
「――凍てつけ」
指先に業火が触れる。
その刹那、周囲の氷を溶かしていた時間が巻き戻ったかのように、周囲が吹雪、再びその体の芯をも凍りつかせるような寒波が波動となって彼女を中心に辺りへと広がった。
炎が消え失せる。
鎮火し、その虚空に煙だけが上がっていた。
「未だ、”この程度”だと思っているわけ?」
冷え切った言葉を受けて、ウィルソンは薄く笑う。
「”その程度”で調子乗られてもなぁ」
「本気を出せ。殺すぞ。兄者を殺したのだろう!?」
「食ったっつってんだろうが」
「それを殺したと、言うんだよッ!」
リザは叫び、高く飛び上がる。
弧を描く優雅な跳躍はものの見事に的となっていたが――虚空を蹴り飛ばす所作の直後、確かな何かを足蹴にしたように、彼女は直角度で急降下を果たした。
氷を出現させて足場にしたのだ。
既に彼女の能力が凍りつかせるだけのものではなくなっていることを、ウィルソンは認識する。
眼前へと迫る彼女は、さらに瞬時にしてウィルソンの頭部を貫通する形で氷柱を出現させた。
だがそれと同時に、彼の姿が霧散する。
触れるまで偽物だと気付けぬその魔術は、彼女が親愛する三男坊さえも引っかかった技であるのを、だがリザは知る由もなかった。
ウィルソンがどのタイミングで入れ替わったのかを認識する余地はない。なぜならば、彼は一歩たりとも己の足で移動していないからである。
だから一度見失えば、次発見するのは彼が行動を起こしてからだった。
周囲は木々が鬱蒼とする森。やや進めば、ちょっとした下り坂になる山の中腹。そして周囲は、殺風景なまでに白く染まり、陽の光が反射して眩い空間だった。
一度落ち着く。
否応なしに、己の呼吸すらも目立つ静寂を意識せざるを得なかった。
そしてそこから、自然と己の中に芽生えた違和感を覚えていた。
――あの男は己より遙かに腕のたつ兄者を殺害した。
ならば単純計算で、それ以下の兄弟よりも実力は上のはずである。もっとも、そんなことは認めたくもないのだが。
霜柱ですらない氷上を踏みしめ、細く息を吐く。
蒸れた鉄仮面内が酷く不快だったが、気にする余裕はない。
何が目的だ、と思う。
そして、先程から「食った」を強調する意味を理解しようとするが、食人ですらこの世界では否定的な観念が多いのにもかかわらず、魔人をも食すというその悪趣味さは、理解の範疇をとうに通り越していた。
――ならば私も喰らうつもりなのだろうか。
であったら、もしそうなら。
なぜ、敢えて傷付けてしまうような、抵抗する手段を残すのだろうか。
なぜ、まだ私を生かしているのだろうか。
疑問が募り、そしてウィルソンに対する不気味さが増していく。
あの余裕。
そして事実として、既に全力を尽くす魔法を発動させているのにも関わらず、本来ならば瞬時に足が地面と共に凍りついて動けなくなるのに――容易に移動を繰り返し、リザを翻弄する実力を持っている。
「くそッ!」
考えれば考えるほど、感情が負へと向かう。
ここで負けたらどうする。
戦闘のみを生きがいにし、この強さだけを誇りにしてきた一族にとって、身内以外との戦闘での敗北は万死に値する。
むしろ、負け犬として戻った場合、そこには死よりも残酷な処置が待っていて――。
「人間、如きがッ!」
己の全方位に図太く鋭い氷柱を出現させる。
それと同時に、大地から無数の円錐状の氷柱を天目掛けて隆起させた。
「うおっ」
どこからともなく”落下”してきたウィルソンは、そんな驚愕を表現する声を漏らすが、表情ばかりまで装うことはしていなかった。
落ちてきたウィルソンは、そのまま着地する。
轟と大気を食らって唸る炎はない。だがウィルソンの周囲の景色は歪み、そして氷という氷は尽くがとろけて溶けた。地面がぐずぐずにぬかるむ。
彼自身が発する高温が、それを可能としているのだと気づいたのは、さらに彼女が纏う氷柱の全てを射出し、その全てが蒸発したのを見てからだった。
「発熱」
初めて術を口で紡ぐ。
ウィルソンがそうして振り上げた足で勢い良く地面を叩いた瞬間、そこを中心に真紅の輝きを放つ魔方陣が周囲に広がった。
巨大な陣は、彼女の魔法の効果が及ぶ全てに伸び――呼気すら凍りつく寒さは一転、まるで真逆の灼熱が、高温の水蒸気に飲まれたリザに襲いかかった。
もはやリザの魔法は通用しない。
すべてを出し切るまでもなく、ウィルソンの魔術はリザの魔法を上回っていた。
――陽気は戻り、穏やかな日差しが周囲に降り注ぐ。
全てがまるで元に戻った山中。
ウィルソンは、うつぶせに倒れたリザを見下ろした。
「言っただろうが、てめえらに接触する理由は何一つとしてないってな」
――なぜ殺さない。そう問いかけようとした所で、疑問は先読みされていたようだった。
「アイツが望む限り、オレはてめえらに抗い続ける。だが、もうオレの出来る下準備は終わったんだよ。てめえらがアイツを狙うならまだしも、オレを狙っても意味はないと思うぜ?」
「意味が、わからない。何の話だ」
「……まあいい、好きにしろ。オレはお前を殺さない」
捨て台詞じみたそれを彼女に投げて、ウィルソンは踵を返した。
リザに背を向け、歩き出す。
何にしろ、これ以上ここに留まる理由など無いのだから転移魔術を発動させても良かったが、
「ま、待て!」
言うだけ言って逃げるのは、もうゴメンだった。
それが仮に敵だとしても。
「私が貴様に敗北したことを、この時点で知らぬものはない」
つまり兄弟はこの世界に誰が来たか、あの扉をくぐった瞬間に知覚できるということになる。
「貴様を殺すまで、帰れない」
敗北を帳消しに出来るのは、己を負かした敵を殺害すること。
「オレはまだ死ねないな。やり残したことがありすぎる」
この短期間でいろいろなことをやってきたが、旧友の次に優先事項として上がっているのは相棒の事である。
その次は、趣味となっていた十本の武器の収集。
さらには世界を旅してもみたいし、だがたまにはゆっくりとしてみたい。
ここ最近は働きっぱなしだ。まともに休んだのは、既に数ヶ月前というところだろうか。
「ああ……死ねねえよ」
反芻するように耽るウィルソンの肩を掴んで現実に呼び起こしたのは、立つことすら辛そうなリザだった。
掴まれた部位が冷える。
凄まじい熱に晒された彼女に残された力は、今やその程度のものだった。
「殺すんだよッ!」
――敗因は、極めて単純なものであるのを、だがリザは知らない。
ウィルソンは嘆息し、そうしてくるりと反転。
足を払えば、リザの視界は天地が逆転した。直後に身体にのしかかる衝撃。自分が地面に叩きつけられたのを認識するのは、それよりやや後だった。
「経験が足りねえんだよ」
「ならば、殺せ!」
「――ったくよぉ、てめえってヤツは!」
傍若無人な口ぶりのリザへと、唐突に怒りが湧いた。
立ち上がろうとする彼女の腹を、踏み下ろして下敷きにする。
短く漏れた悲鳴を無視し、ウィルソンは告げる。
「てめえは戦いの中で生きてきたんだろうがよ! なのに殺せだと!? ふざけんじゃねえぞ、この野郎――勝てない敵だったら諦めて殺してもらうのか? てめえの血筋は、力は、”その程度”のモンなのか! だったらてめえ」
頭の中が沸騰する。
気に食わない。どれだけ殺すだのなんだのと喚いてきたほうが、微笑んで返せたはずなのに。
上肢を倒し、仮面の前に顔を下ろす。
怒りを押さえ込んだ声で、勝手にしろと口にした。
「そこらの岩に頭打ちつけて死んじまえ」
「き、さ――」
「殺す価値もねえな、今のてめえは」
――抗いようがないからと、それはどうしようもない実力差だからと、諦めてその地位に留まろうとする彼女らの一族もだ。
なぜそこに座り続けるのか。
そこに居ることに、本当に価値があるのか。
少なくともその血から逸脱しようとしていたのは、あるいはその本来持ちうる野心を滾らせているのは、長兄に、彼女が信愛する三男坊もそうだった。
そして彼女の弟に当たる末弟でさえも、誰よりも上回ろうと、上に行こうと、上に行けなければ他の方面で高みへ登ろうとしていた。
だから利用されるのだと、吐き捨ててやるのは容易だったが、だがそれと同時に彼女は新たな道を見つける間もなく今立っている足場を失うことになる。
ウィルソンには関係のない事だったが――。
「勝手にしろ」
その言葉を繰り返したのは、ウィルソンの温情だった。
また、この魔人はこれまでの連中のようなゲスではないと、ただそう信じたかっただけかもしれない。
踵を返す。
彼女に背を向ける。
歩き出す――が、その歩調は極めてゆっくりで、穏やかだった。
本来ならば歩く必要など無い距離を数分歩いて暫くしてから、その背後から、まるで消しきれぬ気配をぷんぷんに振りまいて尾行するリザの存在に気づいて、ウィルソンは薄く微笑んだ。
転移のための魔方陣が展開されて、それが大げさに広がり、彼女の足元まで及ぶが――ウィルソンがそこまでリザに肩入れする理由を、彼自身、よく分からずに居た。
そうしてそこに、利害すら一致しない、むしろ互いに害でしかない珍妙なコンビが人知れず結成されていた。