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6.切断者 下

 肩から、そして胸の位置から、反り返る湾曲の刃がそびえていた。それはまるで獣の牙のような形で構えられ、さらに男の両腕には、右腕と同様の鎌が備えられている。

 そんな姿の魔人に、誰もが近づけずにいた。

「どうした、怖いのか。どうした、俺の実力不足を期待してたんじゃないのか」

 禍々しいまでの姿に、ホークさえもその引き金に躊躇する。

 動揺のために引き金を弾いてしまうのではないか。そうすれば一番最初に目を付けられて……。

 骨の髄から震えが来る。

 まるで冷水をかけられたかのような静寂の中で、まるでふざけ半分で騒いでいた所を激昂されたような沈黙の中で。

 ただ畏怖しか抱けぬ四人に、また”無駄なもの”だと蔑むべき援軍が一人、単身で現れた。

「そうさ、怖いよ――死ぬかも知れねえからなぁっ!」

 疾風が如き切迫。

 次いで放たれる閃光のような一撃。

 漆黒の刀身は細く、やや反るその刃はだがそれ以上は曲がらず、折れず、よく斬れた――のは、やはり”まとも”な敵が相手の場合である。

 火花が散る。

 受け止めるのは、鎌でできた牙などではなく、反射的に構えられた右腕の刃だった。

 共に漆塗りのような黒きの刃。

 共に素材が不詳の、されど盲信するほどの頑強さのある武器。

 魔人が唸る。

 噛み締めた奥歯が、ぴきりと鳴った。

「怖いか、誰よりも死に踏み込んだ貴様がッ!」

「怖えけど、動かなきゃどうにもならねえだろうがっ!」

「こ、の――怖がりがァッ!」

 ――弱者による、一方的な攻撃。

 魔人が唯一保っていた、どこか他人ごとである客観性を引き千切ったのは、それだった。

 腕を振り薙ぎ払い、ジャンを弾く。さらなる左腕の追撃は下方から振り上げられ、両手で構えた刀は無防備に頭上高く巻き上げられた。

 魔人が踏み込む。

 ジャンの位置は、狡猾にも射程圏内――その牙の中にあった。

「――タァッ!」

 閃光が魔人を穿つ。

 瞬時にしてジャンの眼前から消え失せたのは、人狼による一筋の閃光が彼を吹き飛ばしたからであり――周囲への警戒が怠ったのは、その怒りのお陰であった。

 が、

「素直に喰らうか、そんな程度ものッ!」

 またその、怒りの極地ゆえに、怯ませたはずの攻撃は彼の小さな障害としかたりえなかった。

 刃に弾かれた閃光が屈折して空へと伸びる。

 ぽつり、と頬に落ちた雨粒は、その頭上の雲行きが怪しいどころか既に雨を降らしはじめてしまった天気は、もはや気にならなくなっていた。

 大地を抉る足は、それゆえに閃光の勢いを殺す。やがてそれが完全に途絶えて停止すると、間髪おかずに魔人は駆け出した。

 本来ならそこから魔人の攻撃が始まるはずだった。それを許してしまうのは、単純に近接戦闘の要因が足りないから。クラリスにしても、細やかな軌道がそう簡単ではないために、仲間の追撃の直後に、さらに追撃を選択することは難しい。

 だから――不意に脇から斬撃が迸る。

 魔人にとって、それはおよそ予想外……考え付きもしない、無謀な行動だった。

 反射的な反撃。まず右腕で刃を受けた魔人は、さらに無防備に開く懐に左拳を突き刺した。

 刃は、まるで溶けたバターでも裂くようにジャンの腹を――切り裂け無い。

 その寸前に飛び込んできた紅い影が、その強靭な鱗を以て青年を護っていたのだ。

「貴様が指示を出しているのか」

 魔人の問いかけを無視、切り捨てて背後へと回りこむ。

 そのすぐ後に大口を開けたクラリスが、その口腔から溢れ出す火炎を魔人に浴びせて――蹴り飛ばされ、回転しながら地面に叩きつけられた。

 鎌で炎を切り裂き、暴れる魔人の横腹に傷ひとつ付けられぬ一撃を与える。

 乾いた金属音を鳴らし、魔人は大げさなほどに腕を振り払ってジャンへと向き直った。

「炎が怖えのか、熱が恐ろしいのか?」

 ジャンの疑問は、だが彼がそうしたように答えが返ってこない。

「虐げられてたんだろ? 雑魚と思ってるヤツとしか戦わねえのも、お前が――」

「黙れェっッ!」

 だが構わず放たれた挑発、侮蔑の意味を持つ言葉に、魔人はジャンの頭上から刃を振り下ろす。

 閃いた斬撃が、一度受け、流す。即座に流れるような足さばきで回りこみ、さらに脇に一撃。

 刃による切創は作れずとも、その傍若無人な腕力が魔人を僅かに動かす。だが怯まずに反撃する刃は、真正面で斬撃を閃かせたジャンへと落とされる。

 二本で対の、二対の牙が如き刃。

変則転移シフト・チェンジ!」

 だがその刃は空を斬り裂く。

 瞬時にして位置関係を逆転させた両者は、両者ともが背中合わせで入れ替わったのだ。

 そうしてジャンは前に転がるようにして魔人から離れ、魔人は大きな動作で振り返る。

 向き直った刹那、魔人に襲いかかるのは地面から不意に突出する無数の槍。針山が如く現れたそれは、瞬時にして彼を串刺し、蜂の巣にするはずだったが――どれもが半ばで折れ、肌に傷を付けることすらかなわない。

「鬱陶しいッ!」

「手も足もでねェ証拠だな!」

 ホークの嘲笑と共に、飛来した弾丸が脇腹で爆ぜる。

 魔人は勢い良く地面を弾くと、すぐさま後退。一気にジャンらと距離をとった。

 ――雨は徐々にその勢いを強めていたようで、気がつけば雨粒だけだった空色も、今では全身が濡れそぼつ程の量になっていた。

「でかいのが来るな」

 ジャンが告げる。

 その言葉に、魔人が後退した理由を理解して四人が頷いた。

「奴は炎が弱い。あいつ自身の肉体的な弱点じゃなくて、多分精神的なやつだ」

「なんで分かったの?」

 傍らのクラリスからの問いに、簡潔に説明する。

「単なる直感だけど……まあ、あれです。炎とか爆発は、全部切り裂いて逃げてたでしょう? だから、苦手なのかなぁ、と」

 面倒だから省いた理由の中には、スティール・ヒートの存在がある。

 恐らくヤツが魔人の中でも頭角を表していて、また近衛兵の中でも総隊長と言える者なのかもしれない。

 だとしたら、無論として目の前の魔人はソレより格下。虐げられていた可能性が高く、そこにヒートの能力まほうが関わっていた確率が高い。

 もっとも、目的はここで終了。

 後は怒りによってあらわになる隙を狙えれば良いのだが……。

「ったく、しんどいなァ」

 ホークから漏れた言葉に、ジャンは心底同意する。

 怒ればある程度は無茶苦茶な動きに出ると思っていた。だが魔人はどうにもそう変わらず、そうして攻撃範囲ばかりを広げていく。

 厄介な敵だ。

 ここで仕留めなければ、次で勝てる気がしない。

 いや、ここで終わらせられねば、こちらが終わるのだろうが。


 侮りがたし。

 感情とは裏腹に、脳裏によぎった言葉はそれだった。

 それは狙撃手に対してか、吸血鬼に対してか、人狼、竜人……考えても、畏怖たる、警戒たる意識は芽生えない。場当たり的な対応で全てが済む連中は、遠方で控える魔術師とて同様だった。

 ならば誰だ。

 あの、見透かしたような口を利く男か。

 あの、加わっただけで息もつけぬ攻防を繰り返した男か。

 口惜くやしい。

 人間如きに。

 ヒートに傷ひとつ付けられなかった程度の男が。

「……赦さん!」

 垂らした両腕、その手の甲から伸びる刃が反転した。

 大地に突き刺さるその刃は瞬く間に地面の中に吸い込まれるように消え失せて――。

 男を囲う鉄格子のように、巨大な刃が八方の大地から天空めがけて突き上げられた。

 かと思うと、それは鈍重で重圧感あふれる動きで垂直に倒れ始めて……。

「は、速い!?」

 クラリスの悲鳴が、同時に男たちを行動させる。

 落下する刃の位置を見極め、それぞれ辛うじてあらわになる隙間へと身体を滑り込ませた。

 衝撃が大地を揺るがす。斬撃が地面を斬り裂く。

 砂煙はあがらず、代わりに巻き上がった水しぶきが周囲を覆いつくした刹那、ジャンは喉が裂けんばかりの声で叫んでいた。

「ウラド! ハンスさんと一緒に空に飛べ!」

 身体が反射的に、右に向けた顔とは逆方向へと動く。

 僅かに屈むと、即座に高く飛び上がる。隣接した、刃に区切られる空間に飛び込むと、そこに残されたホークがジャンの侵入を理解した。

 着地と同時に、彼を脇腹を抱きかかえ、

「クラリスさん! 飛べ!」

 声に出して、僅か数瞬。

 頭上に動く影を捉えた刹那、ジャンは先程と同様に大地を蹴り飛ばし、刃の峰へと飛び乗った。

 ホーク同様に彼女を抱きしめ、さらに峰を蹴り飛ばして全力、全速力で天空へと身を投げる。

 すぐ近くで、背中にコウモリの羽根を生やしたウラドが、ハンスを羽交い絞めにする形で浮遊していた。

 煙を突き破り、遙か眼下に収める高度。

 にわかに刃が動き、大地と並行になるのを確認した。

空中ここはみんなに任せた」

「ジョネス……わかってたの?」

 これからこの八つの鎌が高速回転するはずだと。

 初めて見る技であるそれを、まさかただ落とされただけで、その過程で理解したなどと。

 ジャンは応えること無く、抱えた二名をウラドへと投げる。

 握りっぱなしだった刀に力を込めて、胸いっぱいに息を吸い込んだ。

 魔力が集中する。

 頭の中で、既に幾度も繰り返された詠唱が魔術の発動を準備してくれている。

 やがて口を開き、殺害するべき本命であるイヴへ、そのとばっちりとなるマリーへと刃が襲いかかる瞬間、紡いだ。

「変則転移っ!」

 無防備である宙空に浮遊していた彼が、突如として地面に直立した格好へと移行した。

 その違和感に思わず転倒しそうになるが、

「ジャ……卿!? な、なぜ――」

 背後から聞こえる、悲鳴じみた声。動揺混じりの問いかけに、ジャンはせめて格好ばかりはつけておこうと立ち直る。

 風が凪ぐ。

 刃が肉薄する、その緊張感が心臓に突き刺さる。

 あふれる殺気が己の死を幾度も脳裏で再現し、その度に噛み締めた唇がついに千切れて血液が溢れ出た。

 腕が慄える。

 強化して抑えこむ。

 足が震える。

 地面に突き刺して誤魔化した。

「おれがどこに居ても変わらない? ふざけんな――」

 言葉を遮るように、凄まじい衝撃が剣を介して腕に伝わる。けたたましいまでの接触音が頭の中に響き渡った。

 両腕が吹き飛びそうになるような、その斬撃が障害物を透過して己を切り裂いたかのような、どうしようもないほどに抗えぬ破壊力に、だがジャンは全身全霊を込めて耐え凌いだ。

 背後ではジャンの影に隠れ、また必死に彼を支えようとするイヴが呼気を荒げる。

 踏み込む足が地面を削り、強制的に後退させていく。

 既に幾度も光輪を弾きだして限界を突破した肉体でも、高速度で襲いかかってくる刃の激突を、止めることはかなわなかった。

上空そら地上ここ、あんたは今、どこに行きたい!?」

 脅すわけでも、強要するわけでもない言葉。

 頼ってくれとも、信頼してくれとも言わない。

 ただ気にくわないのは、ここまでしても未だ絶望してくれている彼女の存在だ。

 刃が弾かれ、また鎌に激突。弾かれ、力任せに抑えこむ。

 地面がぬかるみ、いつ転倒してもおかしくはない状況で。

 繰り返し、高速度での連撃となる激突に予定以上の疲弊が、肉体を加速度的に困窮させた。

「け、卿が――」

 既に一周はしただろうか。

 とはいえ、その速度は広範囲で外周が長距離であろうとも、一周するのに一分とかからぬはずである。

 そろそろホークたちが落下してくる頃合いか。

 そう考えた瞬間、全ての水分を蒸発させる程の爆発が巻き起こった。

 魔方陣の輝きが視界に入る。そうして切り上げるように刃の角度を変えた鎌は、ジャンの腕を勢い良く弾いて、再び空を斬り裂くように上空へと収束した。

「くっ……」

 腕が痺れ、剣を下ろしたまま硬直する。

 だがその視線は、何が起こるのか、何を起こすのか、その終始を注視していた。


 ざあざあと、ついに豪雨と成り得る強き降雨の中。

「気概は知れた。中々に腕が立つこともな」

 技術はないが、単純な身体能力は割合に高い。

 自身の格好に自覚が無いのか――既にジャンは跪いているというのに、目付きだけは鋭く魔人を睨んでいた。

 つぶやく魔人は、次いで己の八つの刃で落ちてくる様子もない五人へと照準する。

 右腕を空中に突き上げ、まず初めに――苛立たしい発砲が目立った狙撃手へ。

 巨大な刃が唸るように小刻みに振動し……発射。

 引き金を引くように拳を握った瞬間、その刃は突如として大地から引きぬかれて虚空を貫いた。

「くっそ、が――気に喰わん!」

 叫んだのはウラドだった。

 己が掴み支えている四人を投げ出し、穿たれるホークの前に流れるような軌道で移動する。

「貴様か。まあいい、消滅きえろ」

 さらに二本が強く地面に刺さったかと思うと、己で締め付けていた拘束を解き放ち、大気を切り裂いて、今度は脇目もふらずにウラドへと集中した。

 既に四人は宙空から大地へ。高度としては目もくらむほどの高さだったが――どうにかなる。それよりも……と考える四名は、やはりその頭上の吸血鬼と、いつ襲ってくるか分からぬ刃に意識を傾けていた。

「咆哮迫撃!」

 口腔から吐き出した閃光が一振りの鎌を弾いたが――咄嗟の魔法、そこには余す事無く発揮されるべきだった魔力が足りず、威力が減少してしまっていた。

 軌道が逸れるだけに終わり、やや傾いた鎌はウラドの首を刈り取る形から、腹部から真っ二つにする程度の位置に。

「この程度で、私がッ!」

 交わる刃。

 裂かれる肉体。

 まるで手応えなど無く、そうされる事が当たり前のようにまず身体が横に切り裂かれ、さらにもう一本が縦に裂いた。

 ダメ押しとばかりに最後の一本が回転しながら胸を穿ち――。

 ぼとり、と泥水の中に右腕が落ちた。

 音を立てて吸血鬼の肉塊が地面に沈む。

 残った五本の内四本が、それぞれ着地に成功、失敗する四名へ。

 一本がイヴを照準する。

「今は勝たせん。勝たせるわけがない。事実、貴様らは勝てんだろう、この俺に」

 男が吼える。

 されどそこに、驕りなど欠片も存在しないことを、敵対している全ての者は知っていた。

「今は殺さん。殺せるが、そういった時ではない。ただひとえに――そう、単純に」

 男の鉄仮面が外れてさえいれば見えただろう、その醜悪な笑みを、ジャンは想像する。

「絶望してもらおう」

 一本の刃の照準が僅かにずれる。

 それはごく正確に、ジャン・スティールの心臓を狙っていた。

 ――言葉が、最後の台詞が、それで誰に向けられていたものかを理解する。

 その、酷く鼻腔に突き刺さる生臭い趣味の悪さに、ジャンの全身が粟立った。

 全身全霊を込めた嫌悪感を知覚した瞬間。

 ジャンの身体は意思に反して――否、意思にごく従順なまでに、駆け出していた。

 肉体強化も限界に近い。だが己の死よりも何よりも、目の前のそれを許してはいけない。

 剣を振り払い、水を弾き、飛来する雨粒を弾丸が如く全身に受けながら、魔人との距離を一気に縮めた。

 予期していたかのように、背を見せていた刃が閃く。

 同時に四本の巨大な刃が頭上から落ちてきたのだ。

「ヒートごときにビビってた野郎が、調子にのんじゃねえっ!」

 その男の名を出したのは彼にとって挑発他ならなかったが、魔人にとってその男の名が禁句たり得ていたのは、およそ予想の範疇だった。

 炎熱が苦手ならば、およそジャンが知るかぎり最高峰の使い手が大の苦手であって然るべし。

 血の繋がりがあるなら尚更で、その繋がりが因縁となっているなら尚僥倖。

 沸騰した血液が怒りをあらわし、紅潮している顔はされど鉄仮面に収まっている。

 怒りが並んだ刃の飛来を不規則にさせ、まず初めに落ちた刃は、地面を弾いて避けたジャンが、その一瞬前にまで存在していた空間を切り裂いた。

 大地にたまる水が飛沫を上げる。

 降雨に濁った視界が、ゆえに他の五感を鋭くさせる。

 殺気が肩口を抉った。首を刎ねた。胸を貫いた。

 神経が痛いほどに集中する。

 ジャンは剣を払いながら深く屈んで横に飛び込む。瞬間、大地が、またうんざりするほど激震した。

 さらに横から飛来する刃をひとまず刀身で受けて、屈み、流す。

 前方に斬撃を払い、感じた手応えのまま身体を捻って刃の側面へ逃げる。

 全ての攻撃が終了、回避した刹那。

 魔人の姿はちょうど目の前にあったが――彼へと迫った最後の一本は、既にその背中に肉薄していた。

侮辱なめすぎだァッ!」

 耳元で響き渡る叫喚。

 脇に立つ燕尾服姿の男は、彼の背に対して分厚い鋼鉄の壁を出現させた。

 さらにジャンの脇腹を蹴り飛ばし――間もなく、壁を貫いた刃が魔人の腹に突き刺さった。

 その頑強すぎる甲冑すらも貫き、

「貴様の方だッ!」

 体内に差し込まれた鎌が、また右手の甲から出現した。

 落とした腰をひねり、また横に一閃。その鎌は巨大というほどではなく、肩口を過ぎる程度の長さだが――眼の前に居る、つくづく癪に障った伊達男を斬り裂くには十分過ぎる射程だった。

 また、ラウドの首が血飛沫……にも似た闇を噴出する。

「他人の言葉を返すんじゃないッ! 阿呆が!」

 まるで何事もなかったように放つ吸血鬼の攻撃は、極めて単純な殴打だった。

 拳撃が魔人の顔面に食らいつく。

 その不意気味の攻撃に大きくよろけ――顔面へと落とされたジャンの斬撃が、魔人を地面に叩きつけた。

 飛沫を上げ、魔人が地面に這いつくばる。

 それとほぼ同時に、精根尽き果てた青年は膝から地面に崩れ落ちた。

「くっ、はははははは――この程度か!」

 全身を打つ雨の中、魔人はその重低音な笑いを響かせる。

 ゆっくりと立ち上がる男は、そうして四つん這いになるジャンの首筋を刃で触れた。

「使えぬ雑魚の命を守り、それ故に好機を逃す! もっとも、好機など何一つとして存在しなかったが――」

「ありすぎて、迷ったくらいだぜ?」

 溢れる言葉は、這いつくばる青年の口から漏れたものだった。

「てめえがなんと言おうと、おれ達に怒り心頭して一発入れられたのは事実なんだよ。殺すつもりもねえくせに、何してやがる。その”取るに足らねえおれたち”に、何が目的で近づきやがった」

 身体を支える筋力すら、もはや曖昧だ。

 腕が震え、脚が震え、今にもぬかるんだ地面に沈みそうになるのを気力だけで持ちこたえる。

「末弟の尻拭いに貴様らの実力を見に来ただけだ。結果として、キリは油断と実戦不足が相まって貴様らに敗北したわけだ。言い訳などせん、実力不足だと言える」

 高い戦闘能力を持っていたとしても、それを使いこなせなければ意味が無い。

 その後者をも含めて、実力というものなのだ。

「まあいい、目的は未達成だが……今日は退こう」

「なんだと……?」

「帰ると言っている。阿呆が、言葉すら理解できぬようになったか」

「貴君、本当に何が目的なのだ」

「易々と教えるわけがないだろうが」

 振り薙ぐ拳が、油断していた吸血鬼の顔面を殴り飛ばす。

 思わず地面に倒れ込んだラウドを見下ろしながら、魔人は鼻で笑った。

「一つだけ、伝えておこうか」

 男の言葉に、ジャンへと歩み寄っていたイヴの足が止まる。

 魔人の顔は、確かに彼女へと向いていた。

「……あまり信用しすぎるな」

「な、何を――」

「これは俺自身の言葉だ。貴方の立場ではもう助かるまい。だが……いや、いい。話が噛み合わなそうだ」

 伝えたい、気づいてもらいたい”ある事”と、最初の一言で彼女が連想してしまった者とがあまりにも違いすぎる。

 この状況で、彼女に対しての純粋な好意をこれ以上あらわにすることはできないし、あまりに確定的すぎる情報は口にできない。

 魔人はやりきれないように嘆息してから、

「できれば俺の手で、苦しまずに逝かせてやりたかった。貴方の選んだ道は、これから何よりも険しくなるはずだ」

「……構わぬ。これが私の選んだ道だ」

 全てに迷惑をかけて、全てが血生臭くなってしまう道。

 犠牲になるのは自分以外。

 守られるのは自分のみ。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい未来だ。傲慢にも程があり、またそれを傲慢と形容するにはあまりにも純粋なまでに邪悪。

 そしてもはや、後戻りも、全ての修復もかなわない。

 いばらを通り越して修羅。焼け焦げ、歩く度に骨まで溶ける業火を浴びる道である。

 魔人はどこか寂しげに頷いた後、ゆっくりと地面の中に沈んでいった。

 ――残されたのは傷つき倒れた戦士たち。

 全身を打ち付ける豪雨は、身体の芯までを冷やしていった。

 決定的なまでに打ち込まれた敗北の味を、その雨が流してくれることはなかった――。

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