2.病欠
「ジャン・スティール、ですか。いや、行動まで把握しているわけではないので……しかし」
クラリス。
それは傭兵組合『ブラックオイル』でここ最近、突如として名を上げ始めた者の名である。
そしてその美貌や強さから話題に尽きない人物でもある。
だがそうそう有名でもない彼女を門兵が知っていたのは、奇跡的であった。
「貴方のような方の”一時的な”入隊でしたら、他にも相応しいものを紹介できますが」
もっとも、彼にその権限はないし、そもそも外部の人間が一時的とは言え騎士団に入団できるかさえもわからない。
上肢を白金のプレートアーマー、腰にはスカートのような前垂れを、足は腿まで伸びる脚甲を装備する女性は、城の前にまで来て声を荒らげていた。
そして目立つのは真っ赤な鱗に包まれた右腕。
蒼い髪を凛と揺らし、首を振る。
「あー、いいや。彼が居なきゃ、ここに来た意味もないし」
「しかし、ジャン・スティールの所属する自由騎士団は――」
今の状態ではあまりにも脆弱で、どうせその竜人族としての圧倒的な実力を持て余しているのならば、第一騎士団のほうが丁度いいはずなのだが。
口にしようとした所で、クラリスは睨む。その鋭い視線に、心臓までが貫かれたように思わず言葉に詰まった。
「あんたが何を知ってるか知らないけどね、彼について勝手に口訊くなら本当に怒るよ」
噂によれば、その右腕の鱗はかつては純白だったらしい。
今でこそ朱色だが、その朱は果たして何の赤なのだろうか――というが、やはりそれは噂でしか無い。
しかし噂しか知らぬ男にとって、彼女が顔の前にまで持ち上げた右腕は、明らかな敵意と殺意を持っているようにしか見えなかった。
もっとも実際、殺意ばかりは抑えきれなかったのだが。
抜き身の刃に相当する殺気を男の喉元に突きつけてから、踵を返す。
やれ、どこへ行こうか。
ホークも来ているらしいから、そうそう見つからないはずもないのだろうが。
途方に暮れるわけでもなく、彼女は見物ついでに街を散策することに決めた。
酷い頭痛を覚えながら、そして懐かしい嘔吐を繰り返してから、彼は真っ青な顔で酸っぱい匂いが鼻腔に突き刺さる息を吐き出した。
極度の疲労から来る諸症状。倦怠感に偏頭痛、発熱、吐き気、目眩、鼻汁、鼻づまり、咽頭痛、喉元過ぎても忘れられない醜悪な嘔吐物の匂い。
本来ならばその一部の症状が出ていれば十分なのだろうが、今ではそれが怒涛となって押し寄せている。
「最後に寝たのは?」
リビングでは、その紅い眼をやや薄めてジャンを見る少女が、そう声をかけた。
「さっき」
黒髪を掻き上げるように翻し、嘆息。
「何時間?」
「気持ち悪くって眠れなくて、二時間くらい」
「その前は」
「お、一昨日、かな。感覚ないから良くわかんないですけど」
家主であるテポンは、まるで出かけている間に飼い犬が家の中を荒らし回ったような――諦めるような、だがどこか微笑ましい複雑な笑いを漏らした。
「今日休めば?」
「私からの提案も同じようなものだ」
穴を穿ったような暗い瞳が彼をにらみ、真横から口を挟む。
ジャンは背中の魔方陣を微弱に発動させて肉体を強化してやってから、最悪な気分とは裏腹に活気づいた身体で、隣の護衛対象へと顔を向けた。
「ならユーリアさんのところに行ってきてくれ」
「それは断る」
即断即決するイヴに肩をすくめてから、今度は目の前の小柄な少女。だが今年から同期の同僚である、新米の騎士へ視線を移す。
「今日仕事でしたっけ」
「騎士は仕事が無い日は訓練だけど? 君くらいだけど、そんなのも免除されるか、勝手に自分を潰す勢いで訓練するのは」
「くそ、予定もない無職をどう護衛すればいいんだよ。篭城すれば一番じゃないのか?」
「卿の言葉の節々から悪意を感じる」
「節々どころか悪意ど真ん中だけどねこれ」
「……ちょっとトイレ行ってくる」
もはや胃液しか出ないのに、一体何に対して拒絶反応を見せているのだろうか。
瘴気を垂れ流すにしても、もはやイヴはすっかりこの世界の匂いが染み付いている。瘴気など、毛程も感じないのだから、やはりこの吐き気は単なる体調不良だろうか。
今にも倒れてしまいそうな足取りでジャンはゆっくりと席を外し、その一歩目で盛大にすっ転んだ。
私室の天井を茫然自失と見つめていた所で我に返ったジャンは、そこで自分が本当に倒れてしまったのだと気がついた。
《テポン様なら、もうお出かけになりましたよ》
ノイズ混じりの丁寧な口調は、額の濡れタオルを取り替えながらそう告げた。
腹の上には適度な重さを感じさせてくれる、丸くなって眠る猫。
そうして視界に入らぬ、もう何ヶ月も使ってない机の上で読書に没頭するのは、紫の肌を持つ魔人の姫。
妙なまでに静かなのは、己に対する配慮か、あるいは元々騒がしい連中ではないからか。
「仕事熱心だな」
《スティール様に言われるとなると、いつ過労死してもおかしくはありませんね》
「……おれって、仕事っていう仕事はしてないんですよねー」
仕事という自覚がないだけかもしれない。
本当に致命的なまでに、騎士になっても行動は変わっていないのだ。
訓練に明け暮れ、そこで敵が現れて勝手に突っ走って……。そして訓練でさえも、既に実力は頭打ち。
これから、恐らく人生で最も強い敵が現れるかもしれないというのに、こんな不十分なままでそれを臨まなければならない。
今までが、意外と――と言うとまるで余裕があるようだが――なんとかなったから甘く見ていたが、キリとの戦闘で思い知らされた。
敵うわけがない。
壁にすらなれない己は、だけれど自由騎士団という身に余るほどの過大評価を得て、期待と、それに決して応えることのできない事を知っている自分とで押しつぶされようとしていた。
そしてここに来ての、イヴの護衛。
ヒートはジャンを精神的に潰そうとしているのだろうか。だとしたら、これほどまで実力に差がある青年を、なぜ?
ならば逆に考えよう。
イヴを精神的に追い詰めようとしているのだろうか。
何も出来ぬ己を、守ろうとして散っていく者たちを前にして……。
「ああ、そういうことか」
掠れるような声で呟く言葉を、恐らくタスクは聞き取れたのだろうが、それの意を言及しなかった。
――攻め切れないなら、守られているものが自分の意志で殺されに来るように意図する。
なるほど、考えてみればゲスいやり方だ。とても信じられないし、信じたくないし、今はとても正常な判断力があるわけではないから、ひとまず保留にしておこう。
背を向けるイヴを一瞥して、細く息を吐く。
もっともこれは考えうる最悪のケース。
現実は、そう容易く予想通りに行ってくれるほど甘くはない――今はそう信じたい。
「なあタスクさん、そういえば」
《なんです?》
彼女がただの希望にすがっていることを忘れていた。
そして一人勝手に、その希望が確かなものになっていることを、今思い出した。
「ウィル……ウィルソン・ウェイバー」
旧友にして親友にして戦友。
《はい》
「あいつ、生きてますよ」
どうしようもない確信。
今動いているのがあいつでないならば、もはや生まれ変わりか双子の兄か弟としか考えられない。
《……だから言っているじゃないですか、主人は死んでなどいない、と》
どこの筋の情報だ、だとか、なんでそんな事を断言できるんだ、とか言う追求はない。
ただ冷静に受け流すような口ぶりで、だけど彼女の頬は無意識のうちに吊り上がっていた。
《私を捨てるような最低な男を、主人に選んだ覚えなどないですし》
そして、とタスクが付け加えたのは、ジャンにとっても予想外だった。
《勝手に考えて勝手に一人で全てを背負い込んでしまうような友人を見捨てるよう、造られてもいません》
安堵もつかの間、彼女は自身の主人と同等に近い思いで、ジャンを見つめていた。
《これからの戦いは、自己満足ですか? やらなければならない事ですか?》
命を賭けるに値するものなのか、それとも命を賭けざるを得ないだけなのか。
まったく的を射た質問に、ジャンは言葉を失った。
――言ってしまえば、強いられていた。
それがすべきで、やらなければならない事で、自分にしかできないことだと思っていた。
自分が先に着いて敵が相手をしてくれるだけ。そうしっかりと理解していたのにもかかわらず、自分が数多の修羅場をくぐり抜けたという事実が、変な使命感を刻み込んでいた。
《意地じゃ、ないんでしょうね。本当に知らない、知らないからそこにあっても気づかないし、何に使うか分からない。教えてもらっても、自分から使うという発想がない。今まで勝手にやってきて、そして一人で出来るようになるまで強くならなくてはいけなかったから》
全くもってその通りなもので、ジャンが口を出す余地が一切なくなった。
だが沈黙したままだとまるで責められているような、いわれのない圧迫感を覚えるので、しどろもどろに口を開く。
「そ、そんな事言っても、仕方が無いでしょう」
《そう。過去をいくら遡っても仕方がない。ですが、学ぶ所がないわけでもないでしょう?》
「……誰かを頼れ、と」
《誰かじゃない、誰もを、ですよ》
「おれ、そんなに友達が――」
と言葉を区切ったのは、不意に扉を叩く音がしたからであり、
「ジャンくん、ホークさん達がお見舞いにきたわよ」
その向こうから、お手伝いさんがそう告げていた。
「三日三晩鍛えた肉体が、三日三晩寝こむことによって弱体化するとなると、すごいな、時間が無駄になっている」
ラウド・ヴァンピールはわざとらしい驚愕の表情を浮かべて、腕組みをしたままジャンを見下ろしていた。
傍らでは、漏斗を片手に酒瓶を持つホークの姿がある。
「ほっとけよ……」
――先程の言葉を覆すように現れた三人。
彼ら二人の他には、眼を輝かせていつ声をだそうかとタイミングを伺う、蒼い髪を揺らして寝台に身を乗り出す女性。
それを微笑ましく見守るタスクと眼があって、ジャンは気まずく視線を逸した。
これほど立派な友人が居て、友達が少ないなど随分な言い草だと責められたような気分と共に、彼らを同時に侮辱してしまったかのような罪悪感が襲ってくるのだ。
今すぐ土下座してしまいたい気分だったが、騒がしくなったこの場で、途端に気だるさが格段に悪化してしまっていた。
「しかし、なぁ」
と言って、ホークは笑いながら女の頭を幾度も手のひらで叩いてみせた。
「こいつまで眼ェかけられるとなると、アレか? どんなに強くても、お前と接点がないと選ばれないのか?」
「”あいつ”に訊けよ……」
「ジョネス! 久々にあったらぐったりしてるね!」
「一旦出なおしてくれれば治りますよ」
「無理よ、久々に会って、積もる話がもう大渓谷が埋まるほどあるんだから」
「ねえこれ、おれの状態どんな風に見えます?」
「ん? なんか死体みたい」
そう言った所で、思い出したようにウラドが指を鳴らす。
「ああそういえば、私はこれでも魔術師としても高名なのでね。おっと、そこの御仁にはさすがに負けますが」
振り返る先、一歩引いて場を静観するタスクを一瞥するウラドに、彼女は控えめに首を振った。
《これは主人のくださった魔術ですし、破壊するためのものしかありません》
「おやおや……ジャン・スティール、貴君を少し恨んでもいいかな」
「なんでだよ」
「魅力的な女性を持て余しているようで気に喰わんのだ」
「ひとえに、人徳かな」
なんでもないように言ってみれば、なんでもないようにウラドが激昂を飲み下すように嘆息して、それを周囲が苦笑する。
そして結局、ウラドが何か思いついたような発言は、荒波に飲まれてかき消されてしまった。
どこにでもあるような平穏。
ため息が出るほど安らかな空間で、弛緩する心が、彼らから与えられる活力を余す事無く吸収していた。
ウラドは知らないが、他ニ名は自分のために動いてくれた、もうかけがえのない戦友だ。
またタスクを見ると、彼女は小さく頷く。
背中を押されたように、言葉は口を衝いて出た。
「なあ、みんな」
まだ敵も居ない。
戦うことが決定しているわけでもない。
だけど、
「どうした」
「なんだというのだね」
男たちは、まるでその言葉を待っていたかのようにニヤニヤと薄ら笑いを浮かべていた。
「おれに力を貸すか、おれと共に戦うか、選ばせてやるよ」
ジャン・スティールは自由騎士団。
その決定権は国王にも等しい。だがその人として与えられている権利は一般人そのもので、ゆえにそのセリフは、権力を持ったと勘違いしている阿呆そのものである。
そんなバカみたいな言葉に苦笑しながらも、
「どう違うんだよ」
茶化されて、生真面目な顔をしていたジャンも破顔しかける。
「おれの援助をするか、おれの隣に並ぶか」
「悪いな、オレァ狙撃銃使うけど、それで突撃するタイプなもんで」
「そうさな、私は積極的に前線で敵を陥れることを得意としているものだから」
「あたしとしては陰で支えるほうが格好いいから好きなんだけど、ほら、特攻タイプだし?」
――だから選ぶ余地が無い。
口をそろえて彼らは言った。
「並んでやるよ」
「癪に障るから一歩前に出るがな」
「ジョネスの敵、居なくなっちゃうかもね」
選ばせてやるも、選んでくださいも、彼らには通用しない。
既に立ち位置は決まっていて、ジャンが振り絞って願ったその結果は、彼らにとってただの確認作業に違いなかったのだから。
ジャンは嘆息して、狸寝入りするタマの頭を撫でながら、上肢を起こす。
体勢を座位に直してから、大きく大きく、まだ酸っぱい匂いのするため息を吐いた。
「ありがとう」
まるで引っ込み思案な子が、親に送り出されたような気恥ずかしさを覚える。
まったく、これが不必要な信頼関係の向上であれば良いのだが。
「さて、ならこれからさっさと訓練に――」
行こうか、という所で、クラリスが足を引っ張って寝台の上を滑らせる。勢い良くその場に横たわるジャンへと、タスクは手際よく布団をかけた。
「完治するまでじっとしてろ!」
「筋肉バカが!」
そんな怒声は、鼓膜を突き破るように頭の中に反響して――彼らと確かに繋がった。そんな安堵もあって、青年の意識はゆっくりと穏やかに、久方ぶりの安眠へと沈んでいった。