腰巾着(親衛隊)の伯爵令嬢に婚約破棄の伝言を託したのが、王太子の間違いだった
「おまえはクラリッサの腰巾着だったな」
王太子レオンハルト・ヴァルデンブルクは、伯爵令嬢ミリア・エーレンフェルトを王宮の自室に呼び出し、そう言った。
レオンハルトの隣には、見慣れない美しい女が立っていた。
ミリアが執事に連れられ入室し、王太子がかけた一言目が「腰巾着」だった。その言いようにむっとしたが、相手は敬愛する公爵令嬢クラリッサ・レーヴェンハイトの婚約者の王太子だ。失礼はできない。
「クラリッサ様とは懇意にさせていただいております」
レオンハルトは鼻で笑った。
「『懇意』とはよく言ったものだ。未来の王太子妃に媚びを売っているだけだろう?」
「私はクラリッサ様の気高さと品位に憧れてお慕いしているだけですわ」
ミリアはさすがに頭にきて言い返した。
「気高さ……? 高慢さの間違いではないのか?」
レオンハルトがそう言うと、隣にいた女性が手で口を覆った。
——笑っている……? でも目がまったく笑っていないわ。
ミリアには何かその女の様子が気になり、そして気に障った。
「ご用件は何でしょう?」
ミリアは早くこの場を去りたいと考えていた。
「婚約を破棄すると伝えろ」
レオンハルトの言葉にミリアは耳を疑った。
「は? 何か聞き間違いをしたかもしれません。もう一度よろしいですか?」
「聞き間違えなどではない。クラリッサに婚約を破棄すると伝えろ、と言ったのだ。それだけ伝えれば、もうおまえはあの高慢な女に媚びを売る必要もなくなる」
ミリアはレオンハルトの意図をはっきりと理解はしたが、納得はしていなかった。
「理由をお伺いしてもよいですか?」
レオンハルトは面倒そうに答える。
「もともと父上が決めた婚約だ。だが、あいつが王太子妃、そして未来の王妃に相応しいとは言えん」
「国王陛下のご判断が間違っていたと仰るのですか?」
「ああ、その通りだ」
「ではどなたが未来の王妃に相応しいというのですか?」
「そうだな。例えば、聖女リュシア・フローレンスなんかが相応しいだろう」
そう言って、レオンハルトは隣の女を見て微笑んだ。
「あら、殿下ったら」
女も微笑み返す。
つまり、この女がリュシアだということだ。
聖女リュシア・フローレンス——世間では慈愛に満ち、奇跡の治癒を施す聖女として人気を集めている。
「そのリュシア様が、クラリッサ様より王太子妃に相応しいとお考えになる理由は何ですか?」
「そんな簡単なこともわからんのか? まあ、あいつの腰巾着をするくらいだからわかるはずもないか」
レオンハルトは嘲るような、あるいは哀れむような視線をミリアに向けた。
「あの高慢な女とは違い、リュシアは人を慈しみ、民を思いやる心がある」
「クラリッサ様だって、とてもお優しい方ですわ。民を想うお心もございます」
自分が侮辱を受けるだけならまだしも、クラリッサが侮辱されることが許せず、ミリアは強い口調で言った。
しかし、レオンハルトの耳には届いていないようだった。
「それに……」
再びレオンハルトはリュシアに視線を送る。
「俺は真実の愛を見つけてしまったのだ」
ミリアはあまりのことに開いた口が塞がらなかった。
「……婚約を破棄されるのであれば、ご自身でお伝えしたらよいのでは? なぜ私に?」
「ふん……。直接顔を合わせたら、いちいち抵抗されるであろう。あの女は強情だしな」
なんて情けない男……。自分で伝えるのが怖くて、私のように弱そうな人間に面倒を押し付けようとしているのだ。
「承知いたしました。ですが、一つだけはっきりお伝えしておきます。たとえクラリッサ様が王太子妃でないとしても、私はクラリッサ様から離れるつもりはございません。私はあの方の肩書きではなく、お人柄をお慕いしておりますので」
そう言い残して、ミリアは王宮を後にした。
※
腹を立てて王宮を後にしたものの、ミリアは王太子の婚約破棄を、クラリッサにどう伝えるべきか悩んでいた。
——できるだけクラリッサ様を傷つけないように伝えたい。
そうは思うものの、王太子の言葉をそのまま伝えてしまえば、繊細なクラリッサが心を痛めてしまうかもしれない。
ミリアはクラリッサに伝える前に、同じくクラリッサと懇意にしている侯爵令嬢ヴィオレッタ・グランヴェールに相談しようと、グランヴェール侯爵家を訪ねた。
「あら、ミリア、血相変えてどうされたの?」
「ああ、ヴィオレッタ様」
ミリアは先ほどレオンハルトから受けた屈辱を思い出し、悔しさで涙を流し、ヴィオレッタにしがみついた。
「どうしたの、ミリア?」
ヴィオレッタも狼狽えながら、ミリアを抱き寄せる。
「王太子殿下が、クラリッサ様と婚約破棄をするって仰ったんです」
「はっ?」
普段は冷静なヴィオレッタなのだが、このとき、見たこともないような鬼のような形相を見せ、ミリアも一瞬背筋が凍った。
「どういうことなの?」
「あ、あの……高貴なクラリッサ様が王太子妃や未来の王妃に相応しくないというのです」
「何ですって? クラリッサ様以上に王妃に相応しい者などいるわけがないではないの」
「それが……聖女リュシア様のほうが相応しい、と」
「は? クラリッサ様は聖女様以上に聖女様ではないですか」
ヴィオレッタがすごむので、ミリアが恐縮する。
「私ではなく、王太子殿下が、そう仰ったのです。私もヴィオレッタ様と同じ気持ちです」
「そもそも国王陛下がお決めになった縁談ではありませんか」
「そうなんです。王太子殿下は国王陛下に逆らうおつもりです」
「何ですって!? 国王陛下のことまで貶めようとされているのですか?」
「私のこともクラリッサ様の腰巾着なんだろうって」
「私たちクラリッサ親衛隊を『腰巾着』と!?」
「腰巾着なのだから伝言しておけって言われまして。自分で直接クラリッサ様に伝えるのが怖いようで……」
「なんて男なの……」
「ヴィオレッタ様、私、クラリッサ様を傷つけたくないのです。どうやってお伝えすればよいでしょうか?」
「ミリア、心配は無用です。私に任せなさい。クラリッサ親衛隊隊長の私がクラリッサ様にお伝えします」
「えっ……?」
ミリアは顔を上げて、ヴィオレッタを見た。
その顔には強い決意の色が浮かんでいた。
※
ヴィオレッタは、ミリアと別れるとまっすぐレーヴェンハイト公爵家に向かった。
公爵家の屋敷の門に、別の馬車が止まったところだった。
——王家の馬車……? まさかレオンハルト殿下が考えを変えて、直接婚約破棄を伝えに来たのかしら。
ヴィオレッタは自分の馬車を降り、王家の馬車に猛然と歩いて行った。その顔は鬼の形相に変わっていた。
——クラリッサ様を傷つけることは絶対に許さない!
ところが、馬車から降りてきたのは王太子レオンハルトではなく、別の優男——第二王子ユリウスだった。
拍子抜けしたヴィオレッタは慌てて微笑みを作る。
「あら、ユリウス殿下、ごきげんよう」
ヴィオレッタの微笑みは怒りで歪み、引き攣ってしまっていた。
「おや、ヴィオレッタ嬢、どうかされましたか? ずいぶんと……お怒りですか? 僕が何かしましたでしょうか?」
「いえ、ユリウス殿下に対して、というわけではないのですが……。まさかユリウス殿下もあの件ですか……?」
「あの件……と言いますと?」
「レオンハルト殿下の件です」
「ああ……ご存じでしたか。そうなんです。兄上が婚約者のクラリッサ様のことも公爵家のこともあまり気遣わないので、私が王家を代表してたびたび訪問させていただいているのです。両家の結びつきは王国にとって最重要事項ですので……」
「ではレオンハルト殿下は、王国に叛旗を翻そうとされているということですね?」
「はい?」
「私はレオンハルト殿下からの伝言を持ってここに伺ったのです。レーヴェンハイト公爵家との縁談を決めた国王陛下を愚かであると断じ、叛逆の第一歩としてクラリッサ様との婚約破棄を伝えるよう言われてここに来たのです」
「何ですって?」
「クラリッサ様ではなく、聖女リュシア様との婚約を決めたそうですよ。聖教会の後ろ盾を得て、国王陛下の地位を簒奪するおつもりのようです」
穏やかだったユリウスの表情が急変し、深刻なものになった。
「それは本当ですか?」
「はい、間違いございません」
「……実は僕も兄上の最近の態度を不審に思っていたのです。レーヴェンハイト公爵家にはまったく訪問せず、聖教会に足繁く通って、聖女様と密会されているのも知っておりました。クラリッサ嬢のようにすてきな方を放っておいて何をしているかと思えば、そんな野心を抱いていたとは……」
クラリッサを「すてきな」というユリウスの言葉に反応し、ヴィオレッタの顔が綻ぶ。
「あら、ユリウス殿下もクラリッサ親衛隊に入りますか?」
「はい?」
「その話はまた今度ゆっくりいたしましょう。それよりも、レオンハルト殿下の思うようにさせてはなりません。これは王国の危機です」
ユリウスは頷く。
「ヴィオレッタ嬢、ありがとうございます。あとは僕に任せてください」
二人が話し込んでいるところに、屋敷の方から一人の人物がやってきた。
温厚そうな笑みを浮かべて近づいてきたその人物は、クラリッサの父、アルブレヒト・レーヴェンハイト公爵だった。
「ユリウス殿下にヴィオレッタではないですか。クラリッサに御用でしたら、ぜひお入りください」
「レーヴェンハイト公爵、実は重大な王国の危機であることが分かりまして……」
ユリウスが真剣な眼差しで話すのを目にして、アルブレヒトの表情も少し硬くなった。
「何があったのですか?」
「実は……僕の愚兄、レオンハルトが、父の国王を侮辱し、聖女を擁する聖教会と手を組み、反乱を起こすようです。そのため、現王家と縁の深い公爵家とは手を切り、クラリッサ様との婚約を破棄するとのことで……」
アルブレヒトの顔がみるみる険しくなっていった。
「何という横暴……。そんな輩にうちの娘はやれません。こちらから婚約を破棄させていただこう」
「愚兄がご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。王家は決して公爵家を裏切るようなことはいたしません」
ユリウスが宥めるようにアルブレヒトに告げる。
「そうしていただけると助かります」
アルブレヒトは少しだけ表情を柔らかくした。
ユリウスへの信頼は厚いようだった。
「これから僕は証拠を集めて、国王と対処を協議いたします。このことは内密にお願いいたします」
ユリウスの目には強い意志の火が燃えていた。
※
その日、王宮は騒然としていた。
王太子レオンハルトの自室に、国王フリードリヒと第二王子ユリウスが近衛兵を引き連れてやってきていた。
レオンハルトはその様子を見て、驚いて言った。
「父上……ユリウスも……これは何ごとですか?」
レオンハルトの隣には聖女リュシアもおり、フリードリヒはそちらを一瞥し、再びレオンハルトに向き直った。
「レーヴェンハイト公爵家から、クラリッサ嬢との婚約を破棄すると通知があった」
「はい? それは俺のほうから……」
フリードリヒはレオンハルトの言葉を遮って続ける。
「その女とずいぶん親しいようだな」
フリードリヒの視線はリュシアを捉えていた。
「ああ、はい。ご報告が遅くなりましたが、この聖女リュシアと婚約することに決めました。俺は真実の愛を……」
「黙れ!!」
フリードリヒが怒鳴った。
レオンハルトだけでなく、ユリウスや近衛兵も怯むような迫力だった。
「聖教会と手を組み、国王である私を退け、この地位を簒奪しようとしていたことはすべてわかっておるのだ」
「……はい?」
レオンハルトは何を言っているのかまったくわからないというような顔をする。
「しらばっくれることはできんぞ」
ユリウスが手に持っていた書簡を見せる。
「あっ……」
リュシアが小さく叫んだ。
「これは先ほど聖教会で押収した書簡です。兄上からリュシア様に宛てられたものです。愛の言葉とともに、『父の古く愚かな考え方にはついていけない』『俺が国王になったら君のための王国に作りかえる』『聖教会への支援も約束する』などと綴られています」
ユリウスが落ち着いた声で淡々と説明した。
「私への侮辱、叛逆の意思、聖教会との癒着がはっきりと示されているではないか!」
「いえ……そんなつもりでは……」
レオンハルトは言い訳を試みようとするが、言い淀む。
書いた内容は事実ではあった。
しかしその書簡が父王の目に触れ、叛逆の意思と取られるとは思ってもおらず、そんな意図もまったくなかった。ただ、リュシアに格好つけたかっただけだった。国王を批判することで賢く見せたかっただけだった。
リュシアがすっと席を立ち、退室しようとする。
「捕まえろ」
フリードリヒが近衛兵に指示をすると、そのうちの一人がリュシアの腕を掴んだ。
「離して! 私はこの人とは何の関係もないし、婚約もいたしません」
リュシアがそう喚いた。
「リュ、リュシア……?」
レオンハルトは目を丸くして狼狽えた。その表情には、国王に叛逆の意思を問われたとき以上に驚きの色があった。
「俺たちは真実の愛を見つけたんじゃなかったのか……?」
「あなたのように肩書きだけで高慢で愚かで、自分で女を振ることもできない臆病な男を、どこの物好きが愛するというのですか。
せっかくうまく利用できると思ったのに……」
「な、何を言っているんだ……リュシア……」
「そもそも、力をつけている聖教会が王家よりも権威を振りかざすようになってきたために、王家と貴族は結束する必要があるのだ。中でも、貴族たちの信望が厚いレーヴェンハイト公爵家とな。
それをよりによって、聖教会を増長させて叛逆を起こそうとは、絶対におまえは許さんぞ!」
フリードリヒの目には息子に対する慈悲は微塵もなく、怒りの火だけが燃え上がっていた。
レオンハルトはその日のうちに廃嫡となり、鞭打ちの刑の上、鞭の痛みで気絶した後に王宮の地下牢に放り込まれた。
そして王太子の位は第二王子ユリウスへと移された。
リュシアも聖女の称号を剥奪され、王都を追放。聖教会にも王家からの監査が入ることとなった。
※
「まさか、叛逆者と婚約していただなんて、信じられないわ」
クラリッサが言った。
レーヴェンハイト公爵家の屋敷で開かれたお茶会には、ヴィオレッタ、ミリア、そして王太子ユリウスが招かれていた。
「でもよかったですわ。クラリッサ様があの男と結婚する前に悪事が明るみに出て、婚約破棄できたのですもの」
ミリアが上機嫌に言う。
「本当にあなたたちのおかげですわ。ありがとうね。『腰巾着』なんて揶揄されたようですけれど、とんでもない。あなたたちは私の大切な友人ですわ」
クラリッサが小さく頭を下げた。
「もったいないお言葉ですわ。親衛隊として当然のことをしたまでです」
ヴィオレッタも満足そうに小さく笑みを浮かべて言った。
「もう、ヴィオレッタったら。親衛隊なんて恥ずかしいからやめて」
そう言いながら、クラリッサが微笑む。
ヴィオレッタもミリアもその美しい微笑みを見て恍惚とする。
「クラリッサ様が嫌だと仰っても親衛隊は永遠に続けますわ」
ヴィオレッタがそう言うと、ミリアも頷く。
「私たちはクラリッサ様の笑顔を必ず守り続けます」
そこにユリウスが口を開いた。
「僕も親衛隊の末端に入れていただくことになりましたので、よろしくお願いします」
ユリウスの言葉に、クラリッサが目を見開く。
「もう……。ユリウス殿下までからかわないでください」
クラリッサがまた笑うが、ユリウスは真剣な顔をする。
「いえ、からかってなどおりません。兄上の手前、ずっと遠慮しておりましたが、ずっとクラリッサ様のことをすてきな方だと思っておりました」
「えっ……」
クラリッサが顔を赤らめる。
決められた婚約に従うしかないと考えていたクラリッサは、レオンハルト以外の男について考えないようにしていた。けれど、そのしがらみがなくなった今、ユリウスのことを想うと胸の辺りが高鳴るのを感じた。
「親衛隊では末端ですけれど、どうやらユリウス殿下にはクラリッサ様の笑顔を生み出す力があるようですわね」
ミリアがユリウスに言った。
「そうね。ユリウス殿下なら、親衛隊としても婚約を認められるわ」
ヴィオレッタも同意する。
クラリッサとユリウスは恥ずかしそうに見つめ合い、微笑み合うのだった。
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