婚約破棄の夜、私の契約者(古代竜)が『我の花嫁を傷つけた罪、どう贖う?』と降臨しました
「君との婚約は、本日をもって破棄とする」
王太子ルヴェルの声が、夜会の広間に響き渡った。
私は特に驚かなかった。
この日が来ることは、ずっと前から分かっていたから。
「理由をお聞きしても?」
形式的に尋ねると、ルヴェルは嘲るように笑った。
「理由? 決まっているだろう。魔力測定で『皆無』と判定された令嬢など、王家の恥だ。それに──」
彼の視線が、傍らに控える少女へと向けられる。
淡い金髪に、無垢な瞳。『聖女』シャルラ。
「私には、真に愛する人ができた。聖女の加護を持つ彼女こそ、未来の王妃に相応しい」
シャルラが控えめに、けれど確かな勝利の色を滲ませて微笑む。
周囲の貴族たちがざわめいた。同情、嘲笑、好奇──様々な視線が私に突き刺さる。
「そう、ですか」
私は静かに頷いた。
怒りは、ない。
悲しみも、ない。
ただ、長い長い義務から解放される安堵だけがあった。
「では、婚約の証である指輪をお返しします」
指から外した指輪を差し出す。ルヴェルは露骨に顔をしかめた。
「……それだけか? 泣きも喚きもしないのか」
「何を期待されていたのですか?」
「ふん。やはり感情のない人形のような女だ。魔力だけでなく、心まで空っぽとは」
嘲りの言葉。けれど私の心は凪いでいた。
違う。空っぽなのではない。
私の全ては、十年前のあの夜に──。
不意に、胸元の髪飾りが熱を持った。
銀色に輝く、鱗のような細工。幼い頃から肌身離さず着けていた、私の唯一の宝物。
『望むとき、呼べ』
遠い記憶の中で、低く優しい声が響く。
あの夜。
森で瀕死の竜を見つけた、八歳の私。
怯えることもなく駆け寄り、持てる全ての魔力を注ぎ込んだ。
『なぜ助けた。我は竜だぞ』
『だって、苦しそうだったから』
『……愚かな子だ。お前は全ての魔力を失った。これから先、無能と蔑まれるぞ』
『いいの。あなたが生きてくれたら』
あの時、彼は何とも言えない表情で私を見つめた。
そして銀の鱗を一枚、私の手に握らせた。
『この鱗を持つ者は、我の契約者だ。お前が望むとき、必ず迎えに行く。──約束だ』
それから十年。
私は「魔力のない令嬢」として蔑まれ続けた。
政略のために王太子の婚約者にされ、愛のない日々を過ごした。
でも、辛くはなかった。
いつか迎えに来てくれる。
その約束だけを、胸に抱いて生きてきた。
「フィーネ嬢」
シャルラの甘い声が、私の回想を断ち切った。
「可哀想に。魔力がないって、どんな気持ちなのかしら? 私には想像もできないわ」
周囲から忍び笑いが漏れる。
シャルラは同情を装いながら、明確な侮辱を重ねた。
「でも安心して。あなたがいなくなっても、私がルヴェル様をお支えするから。──ああ、そういえば」
彼女の瞳が、意地悪く細められる。
「その古臭い髪飾り、まだ着けているのね。みすぼらしいから外したら? 王宮に相応しくないわ」
その言葉に、私の中で何かが弾けた。
怒りではない。
決意だ。
「……そうですね」
私は静かに微笑んだ。
「もう、王宮に相応しくある必要はありませんから」
髪飾りに触れる。銀の鱗が、私の指先で淡く光った。
「約束を、果たしてもらえますか」
囁きは、誰にも聞こえないほど小さく。
けれど、届いた。
その瞬間──夜会の天井が、砕け散った。
悲鳴が上がる。
シャンデリアが落ち、貴族たちが逃げ惑う。
けれど私は動かなかった。
降り注ぐ硝子の破片が、私に届く前に全て弾かれたから。
見えない力に守られている。
彼の、力に。
「遅くなった」
低く、深く、けれどどこか優しい声。
天井の穴から降り立ったのは、銀の髪を持つ美丈夫だった。
長身に、整いすぎた顔立ち。
そして──金色に燃える、竜の瞳。
「イグナーツ……」
十年前と変わらない。いや、人の姿を取っているのに、あの時より遥かに美しい。
彼は真っ直ぐに私の元へ歩み寄ると、跪いた。
王太子の前で。貴族たちの前で。
古代竜が、一人の令嬢の前に膝をついた。
「待たせた。我の花嫁」
ざわめきが、悲鳴に変わる。
「りゅ、竜……!?」
「古代竜イグナーツ! 伝説の……!」
「なぜ、あの娘の前に……!?」
混乱する貴族たちの中、ルヴェルが蒼白な顔で叫んだ。
「待て! その女は、私の婚約者──」
「元、だろう」
イグナーツの声が、広間の温度を数度下げた。
「たった今、お前が捨てた。違うか」
「そ、それは……」
「我はこの十年、ずっと見ていた」
イグナーツがゆっくりと立ち上がる。
その瞳が、冷たくルヴェルを射抜いた。
「フィーネが蔑まれるのを。嘲笑われるのを。冷遇されるのを」
一歩、前に出る。
ルヴェルが怯えて後退る。
「彼女がどれほど耐えてきたか、お前は知らないだろう。知ろうともしなかっただろう」
「ま、待ってくれ……! 私は知らなかったんだ! 彼女に魔力がないのは事実で──」
「ない?」
イグナーツが、初めて笑った。
それは氷のように冷たく、残酷な笑みだった。
「馬鹿が。彼女の魔力は『ない』のではない。我に預けられているだけだ」
広間が、凍りついた。
「十年前、瀕死の我を救うために、彼女は全ての魔力を差し出した。見返りも求めず、ただ我を助けたいという一心で」
イグナーツが振り返り、私を見つめる。
その瞳が、一瞬だけ優しく揺れた。
「その魔力の量を、教えてやろうか」
彼が指を鳴らすと、私の身体が淡く光り始めた。
「……え?」
自分でも驚くほどの、眩い輝き。
それは広間全体を照らし、夜を昼に変えるほどだった。
「聖女の加護? 笑わせる」
イグナーツの声が、嘲りを含む。
「この娘の魔力は、歴代の聖女を全て足し合わせても及ばない。我が千年生きて、初めて出会った規格外だ」
悲鳴のような囁きが広がる。
シャルラが、信じられないという顔で私を見つめていた。
「嘘よ……! だって、この人は『魔力皆無』って……!」
「測定器が壊れていたのだろう。あるいは──」
イグナーツが、冷たい視線をシャルラに向ける。
「意図的に、結果を偽装したか」
シャルラの顔が、一瞬で蒼白になった。
「なっ……! 私は何も……!」
「嘘は通じぬぞ、小娘」
イグナーツが一歩踏み出す。
シャルラが悲鳴を上げて後退った。
「竜の目は全てを見通す。お前が測定の日に何をしたか、我は知っている」
「や、やめて……!」
「十年前。幼いフィーネの測定器に、細工をしたな。『魔力皆無』と表示されるように」
広間がどよめく。
ルヴェルが、信じられないという顔でシャルラを見た。
「シャルラ……? それは、本当か……?」
「ち、違う! 信じて、ルヴェル様! 私は──」
「彼女だけではない」
イグナーツの言葉が、シャルラの弁明を断ち切る。
「『聖女の加護』とやらも偽物だ。光属性の魔道具を体内に埋め込み、加護があるように見せかけていただけ」
シャルラの顔から、全ての血の気が引いた。
「そん、な……どうして……」
「言っただろう。竜の目は、全てを見通す」
イグナーツが私の傍らに戻り、その手を取った。
大きく、温かい手。
「さて」
彼の声が、広間に響く。
「我が花嫁を十年に渡り蔑み、傷つけ、挙句の果てに捨てた罪──どう償うつもりだ?」
誰も、何も言えなかった。
「……答えられぬか。まあいい」
イグナーツが、私を抱き上げた。
「きゃっ……!」
「帰るぞ、フィーネ。こんな場所に、お前はもう用はない」
「で、でも……」
「案ずるな。お前の家族には既に話をつけてある。ヴェルトハイム伯爵家は我の庇護下に入る。誰も、お前を責める者はいない」
私は彼の胸に顔を埋めた。
温かい。安心する。
「……ありがとう」
「礼を言うのは我の方だ」
イグナーツが、私の髪を優しく撫でる。
「十年も待たせた。これからは、二度と離さない」
その言葉に、胸が熱くなった。
私たちが去った後のことは、後から伝え聞いた。
シャルラの偽装は徹底的に暴かれ、詐欺罪で投獄された。
「聖女」の加護が偽物だと分かった瞬間、彼女を持ち上げていた貴族たちは蜘蛛の子を散らすように離れていったという。
ルヴェルは、婚約破棄の責任を問われ、王位継承権を剥奪された。
古代竜の契約者を──つまり実質的な竜の庇護を受ける存在を──自ら手放した愚行は、王家にとって致命的な損失だったらしい。
そして、ヴェルトハイム伯爵家は竜の庇護を得て繁栄し、私の父は宮廷での地位を大きく上げた。
全ては、私が望んだわけではない。
イグナーツが勝手にやったことだ。
「お前を傷つけた者は、相応の報いを受けるべきだ」
彼はそう言って、一切の妥協を許さなかった。
けれど──正直に言えば、少しだけ胸がすく思いがした。
十年間、ずっと我慢してきたから。
イグナーツの住処は、人里離れた山の頂にあった。
古代の遺跡を改装した屋敷は、外観からは想像できないほど快適で、私は何不自由なく暮らしている。
「フィーネ」
ある日の午後。
庭で本を読んでいた私に、イグナーツが声をかけた。
彼は相変わらず人の姿をしている。私がその方が話しやすいと言ったら、以来ずっとこの姿を保ってくれているのだ。
「どうしたの?」
「いや……」
イグナーツが、珍しく言い淀む。
「お前は、後悔していないか」
「何を?」
「あの夜、我を呼んだことを。我の元に来たことを」
私は本を閉じ、彼を見上げた。
「後悔なんて、するわけないでしょう」
「……本当に?」
「本当に」
立ち上がり、彼の前に立つ。
「私ね、ずっと待っていたの。いつかあなたが迎えに来てくれる日を」
「……」
「辛いことも、悲しいこともあった。でも、約束があったから耐えられた。あなたがいてくれるって、信じていたから」
イグナーツの金色の瞳が、揺れる。
「フィーネ」
「だから──」
私は微笑んだ。
「迎えに来てくれて、ありがとう。私を選んでくれて、ありがとう」
イグナーツが、私を抱きしめた。
強く、強く。壊れそうなほど。
「……我は、お前に出会えて幸せだ」
耳元で囁かれた言葉に、目頭が熱くなる。
「お前がいなければ、我はあの夜死んでいた。お前が魔力をくれなければ、今の我はない」
「それは……」
「だから、これからの千年も、万年も、お前と共に生きたい」
イグナーツが身を離し、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「フィーネ・ヴェルトハイム。我と、契約を結んでくれるか。主従ではなく──伴侶として」
その言葉に、胸が震えた。
「……はい」
涙が溢れる。
けれど、悲しいのではない。
「喜んで」
イグナーツが微笑む。
氷のように冷たかった表情が、春の陽だまりのように温かく溶けていた。
「ありがとう」
彼の唇が、そっと私の額に触れる。
「我の花嫁」
その呼び名が、こんなにも嬉しいなんて。
私は彼の胸に顔を埋め、幸福を噛み締めた。
これから先、どんな日々が待っているのか分からない。
でも、この人と一緒なら、きっと大丈夫。
──そう思えることが、何より幸せだった。
お読みいただきありがとうございました。
「魔力がない」と蔑まれた令嬢が、実は古代竜に全てを預けていた──という設定でお送りしました。
十年越しの約束が果たされる瞬間を楽しんでいただけたなら幸いです。
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よろしくお願いいたします。




