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70. 深夜の廊下で

第三章、終わりです。


 カノンちゃんが眠りにつくのを見届けてから、私はそっと部屋を出た。

 彼女もずっと張り詰めていて、疲れていたのだろう。

 緊張から解放されたように、すぐに眠りに落ちてしまった。


 廊下を歩く。

 特に目的は無かった。外に出て、夜風に当たろうとしていた。

 すると階段前、二階のラウンジで、壁に背を預けるようにしてサーペントさんがとぐろを巻いていた。


「……眠れないのですか、メイちゃん」

「ヘビさんも」

「ワタシは蛇なので……大丈夫ですよ」


 何が大丈夫なのだろう、と思った。

 でも、いつもの彼の答え方だった。


 私はその隣の壁に背を預けて、床に座り込む。

 しばらく、ふたりとも黙っていた。廊下は静かで、遠くで夜の風が窓を揺らす音だけがした。


「……ヘビさん」


 私は口を開く。

 聞こうと思っていた。ずっと、胸の奥に引っかかっていたことを。


「ええ」

「あの時さ」


 声が、少し引っかかった。でも続けた。


「私が、カノンちゃんの前に立った時。……本当に、やるつもりだったの?」


 沈黙。

 サーペントさんは何も言わなかった。フードの奥の深紫の目が、廊下の床をじっと見ていた。


「『アナタごと処理する』って……言ってた」

「…………」

「あれ、本気だった……?」


 問い返しても、彼はすぐには答えなかった。長い沈黙。宿の廊下に満ちる静寂の中で、私は膝を抱えたまま、ただ答えを待っていた。

 やがて、サーペントさんは静かに言った。


「……ええ、本気でした」


 それだけだった。言い訳も、釈明も、「ですが」の一言も、なかった。


「…………そっか」


 私は答えた。悲しいのか、怒りたいのか、自分でも分からなかった。ただ、胸の奥が重くなる感覚がした。


「ユキちゃんの命令だから?」

「それも、あります」

「それも……?」

「……カノンさんが人間を殺せば、人と魔物の戦争が再び起きる可能性がありました。その火種を摘むことが、ワタシの役目です」


 彼はゆっくりと一度、シュルリと舌を出した。


「……それなら」


 私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 その言葉に——一つ、矛盾があったから。


「人を殺す魔物を止める筈のヘビさんが……どうして、私を殺そうとしたの?」


 廊下が、静まり返った。

 サーペントさんは、しばらく黙っていた。フードの奥で、深紫の目がゆっくりと動く。それから、静かに口を開いた。


「……ワタシの目的は、人と魔物の平和を守ることです。カノンさんがレイン君を殺す前に、止めなければならなかった」

「……うん」

「ですが同時に……魔王(ミゼル)様から、命じられていました。やむを得ない場合は、ワタシに、『魔王としての判断』を委ねると」

「やむを得ない場合……」

「アナタが盾になった時、ワタシには選択肢がなくなっていました。カノンさんを排除する、ひいては『人と魔物の平和を守る』という大きな目的のためには、……アナタ個人も、除くしかなかった」


 除く。

 穏やかな声で言われた、穏やかではない言葉だった。


「そんなの……」


 そんなの、おかしい。

 人と魔物の平和のために、人間である私を殺す。

 言葉にすると、明らかに矛盾していた。でも——


(……あ)


 言い掛けて、私は、ふと気づいた。


(そうだ。もう、私は……)


 オルト村と一緒に、死んだことになっている。

 この世界に、メアリー・フェリシアはもういない。戸籍も、記録も、全部消えている。クレイグが大会で「殺された、人間の村の住人」と言ったのも、そういうことだ。

 だから——私が死んでも、世界は、気付かないんだ。


(……なんだ。そういう、ことか)


 心の奥で、妙に納得した。

 不思議と、腹は立たなかった。ただ静かに、納得できた。


「……分かった」


 私は言った。


「え……?」


 サーペントさんが、少しだけ意外そうな声を出した。珍しい反応だった。


「全部じゃないけど……なんとなく、分かった気がする」

「…………」

「ヘビさんは、全体としての共存のために動いてる。だから、邪魔になるものは——たとえ私でも、殺す覚悟があるんだね」


 悲しかった。けど、涙は出なかった。


「……怒っていないのですか」


 少しして、彼が聞いてくる。


「怒ってないわけじゃないと思う」


 あいまいな表現。でも、それが正直な気持ちだった。

 責めたい。怒りたい。でも、いざこうして隣に座って話してみると、不思議と、そういう気持ちは薄まっていて――


「……ヘビさんって、ふたりいるよね」


 私は独り言みたいに言った。


「行商のヘビさんと……魔王の工作員のベリミアさん」

「…………」

「どっちが本当のヘビさん、とかじゃなくてさ。ただ……両方ともヘビさんなんだなって、改めて分かった」


 サーペントさんは答えなかった。

 ただ、フードの奥で、ほんのわずかだけ目を伏せる。その仕草が、何かを言いたくて言えないような顔に見えた。


「……あの時ヘビさんが本気だったのは、人と魔物の共存を本気で思ってくれているからでしょ。ユキちゃんの命令だからじゃなくて、ヘビさん自身が、そう思ってるから」

「…………」

「だから、怒ったりはしないよ。むしろ、嬉しいんだと思う。……ただ」


 私は少しだけ間を置いた。


 ただ——怖かった。

 あの時の、逃げ場のない目。穏やかな声なのに、どこにも逃げ場のない、あの圧迫感。あれは、私がよく知っている「ヘビさん」ではなかったから。


「……怖かったよ。正直に言うと」


「……ええ。そうでしょうね」


 サーペントさんは、静かに言った。

 彼の尻尾が、ぽんと私の頭に優しく置かれる。


「それが……正しい感覚だと思います」


 それから、彼はもう一度だけ視線を私に向けた。


「ワタシはベリミア。本当のヘビさんは、……魔王様の工作員の方です。それを忘れないでいてください。ただ……」


 そこで、少しだけ間があった。


「アナタを傷つけたいとは、思っておりません。今も、これからも」


 それだけだった。

 大きな言葉ではなかった。でも、その一言には、取り繕った部分が一切なかった。


「……うん」


 私は、ぽつりとつぶやいた。


「そんなの、分かってるよ。……何年、ヘビさんと一緒にいると思ってんの」


  ◆  ◆  ◆


「……ヘビさん。カノンちゃんが話してくれたんだけど」


 しばらくして、私は話題を変えた。


「はい」

「エアリーが、いつも緑色の竜の鱗を持ち歩いてたって」


 その言葉に、サーペントさんの尻尾がピタリと止まる。


「緑色の竜?」

「うん。エアリーにとって大切そうな、友達のものだったみたい」

「…………」


 彼は何も言わなかった。

 ただ、フードの奥の深紫色の目が、静かに細くなっていた。


「……あの黒竜と、繋がってると思う?」

「どうでしょうね」


 サーペントさんは、いつも通りの声で答えた。


「ですが……手掛かりにはなります」


 廊下は静かだった。

 遠くで、夜の風が窓を揺らす音がした。


「……ヘビさん。緑色の竜って、見たことある?」


 私が尋ねると、彼はしばらく黙っていた。


「ええ。竜は個体が少ないとはいえ、珍しいものでもございません」


 彼はシュルリと舌を出した。


「それに、竜と一口に言っても……ドラゴンにドレイク、ワイバーン。それに竜人(ドラゴニュート)であっても、竜の鱗を持ちます。特定は難しいでしょう」

「じゃあ、何もできないのかな……?」

「竜というのは、単独で縄張りを持つ種です。広域を根城にしていることが多く、同じ場所に複数が集まることは少ない。ですが――」


 私の手に、そっと尻尾が添えられる。


「……竜の里であれば、話は別です」


 サーペントさんは、静かに続けた。


「竜の里。ドラス郡。エリノア国の東端に位置する、竜種が多く住まう山岳地帯です」

「……竜の里」

「そこならば、緑色の竜について知る者がいるかもしれません。もしくは、あの黒竜との繋がりを辿れるかもしれない」


 私は膝を抱えたまま、少しだけ考えた。


「行ける?」

「ええ、行けます。ただし……危険な場所です」


 彼の声が、わずかに低くなった。


「竜は従属を好まない種族です。エリノア国への帰属も、最後まで否定的でした。……それに竜は、気性の荒い者も多い。無警戒に踏み込めば……命に関わります」

「分かった」


 サーペントさんが目を丸くする。


「分かった、とは」

「危険だって分かった上で、行きたい」


 私がそう言うと、サーペントさんはしばらくの間、何も言わなかった。

 やがて、はぁと小さく溜め息をついた。


「……魔王城への帰還と報告、カノンさんの護送の手続きが先です。それが済んだ後に、あらためて判断しましょう」

「うん」

「もう遅いです。今夜は休んでください、メイちゃん」

「うん。お休み、ヘビさん」

「ええ。おやすみなさい」


 私は立ち上がって、部屋に戻ろうとした。

 ドアノブに手を掛けたところで、ふと振り返った。


「……ヘビさん。エアリーは、大丈夫だと思う?」


 サーペントさんは、少しの間目を伏せた。


「……分かりません」


 正直な答えだった。


「ですが、あれだけの魔物です。……そう簡単に、どうにかなるとは思いません」


 思わない、という言い方だった。

 彼のよく使う、断定ではない。……でも、それが彼の本心だと分かった。


「……そうだね」


 私は頷いて、部屋に戻った。

 カノンちゃんは静かに眠っていた。桃色の翼が、規則的に上下している。


(……エアリー)


 心の中で呼んでみた。返事は、来なかった。


 明日、またヘビさんに話を聞こう。

 緑色の竜のことを、もっと調べよう。あの黒竜の正体に、もっと近づこう。

 私は布団をかぶって、目を閉じた。



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