68. まだ、戻れるから
夕暮れが、空き地をゆっくりと沈めていく。
赤は薄れ、代わりに濃紺が滲みはじめていた。
風が、さっきよりも少しだけ冷たい。
誰も、すぐには動かなかった。
レイン君は、少し離れた木の根元にへたり込んでいた。
怪我はない。ただ、立ち上がれないでいるようだった。
サーペントさんの視線が、一度だけ彼に向けられる。
カノンちゃんは、私の袖を掴んだまま俯いていた。
その視線は、ずっとエアリーの方に向いている。
そしてエアリーは、少し離れた場所に立っていた。
翼を半分だけ開いたまま、こちらを見ない。
――もう、同じ場所にいない。
そんな感じがした。
「エアリー……!」
カノンちゃんが、小さく呼ぶ。
そして、一歩だけ、前に出た。
その瞬間だった。
『来ないで』
短い声。
強くもなく、冷たくもなく。
ただ、それ以上近づかせないための、線を引く声だった。
カノンちゃんの足が、止まる。
『……もう、あなたは大丈夫だから』
エアリーは、こちらを見ないまま言った。
『あとは、あなたの好きな場所にいればいい』
その言葉は、突き放しているようで――でも、どこか静かだった。
カノンちゃんは、何も言わなかった。
ただ、唇を噛んで、俯いた。
私は、気づけば――
『……エアリーさん』
彼女の名を、呼んでいた。
『レイン君を殺そうとした。貴方がしたことは、許せないけれど』
『…………』
彼女は振り向かない。何も答えない。
『……でも。それでも』
それでも、私は言わなきゃいけない気がした。
『……ありがとう』
その言葉に、エアリーの肩が、ほんのわずかに揺れた。
うまく言葉にならない。矛盾していることは分かっていた。
人間を襲った相手に、お礼を言うなど。
それでも彼女は、確かに……
『カノンちゃんを……守ってくれた』
風が吹いた。
エアリーの翼の先が、かすかに揺れる。
少しの沈黙のあと――
『……違う』
ぽつりと、彼女が呟いた。
ゆっくりと、エアリーが振り返る。
藍色の瞳が、まっすぐに私を見た。
『人間を殺そうとした相手に。……礼を言うのはおかしいでしょ』
視線がレイン君に向く。
彼女の瞳には、迷いがなかった。
『……でもね。わたしからも、一つ。あなたに』
もう一度、彼女の瞳が私に戻る。
ほんの少しだけ、目が細くなる。
『あんな風に、迷いもなく、魔物を庇う人間を……わたしは、知らなかった』
風が、私たちの間を通り抜ける。
『……もし、もっと早くに』
エアリーは、少しだけ視線を落とした。
『あなたみたいな人間を、知っていれば……』
そこで言葉が途切れる。
ほんの一瞬だけ――迷ったように。
翼の中の、緑色の鱗に、そっと触れた。
それは、気づかれないくらいの、小さな仕草だった。
『……わたしも、変わってたのかな』
そして彼女は……小さく、そう言った。
エアリーは、再び背中を向ける。
もう自分は、相容れない所まで、来てしまっているようにと。
『……行きなよ』
短い一言だった。
『エアリー……!』
カノンちゃんが涙声で呼び掛ける。
だが、エアリーは振り返らなかった。
『早く、行きなよ。カノンを連れて、安全なところへ』
『わたしと違って、その子は――まだ、戻れるから』
その声に、もう迷いはない。
『……行きましょう、メイちゃん。今は、カノンさんの保護と、レイン君の救助が優先です』
背後から、サーペントさんが声を掛ける。
『……うん』
私は、頷いた。
カノンちゃんの桃色の翼を、そっと握る。
もう、二度と、離さないように。
歩き出す前に、私はレイン君のそばにしゃがんだ。
「……お父さんが、探してたよ。早く帰ろ」
レイン君は、ぼんやりとした目で私を見た。
それからゆっくりと頷いて、立ち上がった。
足がまだ震えている。でも、歩けそうだった。
それを見て、私も立ち上がり、カノンちゃんと一緒に歩き出した。
「…………」
途中、振り返りたかった。
でも。振り返ってしまったら、駄目なような気がした。
それでも、少しだけ。
ほんの一瞬だけ、後ろを見た。
夕暮れは、もうほとんど夜に変わっていた。
風が、草を揺らしている。
――そこには、もう、誰もいなかった。
カノンちゃんの翼が、私の手をぎゅっと握り返してくる。
私は、前を向いた。
◆ ◆ ◆
夜の空を、わたしはひとり飛んでいた。
冷え始めた風が、頬を撫でては通り過ぎていく。
(……変わってたのかもね)
自分で言った言葉が、頭の中に残っていた。
あの時、あの少女のような人間がいれば。
わたしは、また違った選択をしていたのだろうか。
翼を畳んで、ゆっくりと地面に降りた。
わたしは草の上に、静かに座り込む。
翼の中から、緑色の鱗を取り出した。
小さな欠片。ところどころ、色が褪せている。
(…………)
声にならない。いつも、声にならない。
風が吹いて、夜の草がザワザワと揺れる。
人間はいつも、怯えるか、敵対するかのどちらかだった。
共存だの友好だのと口では言いながら、魔物の顔を見た瞬間に怯えて、それを隠すように攻撃する。そういう人間を、何人も見てきた。
だから、あの少女……メイのことが、なおさら分からなかった。
あんなに震えていたのに、自ら飛び出した。
泣きながら、それでもカノンの盾になり、引かなかった。
一緒に殺して、と言った時の目が、嘘ではなかった。
(……どうして。ああいう人間も、いるというの?)
わたしには、分からなかった。
鱗を、翼の中にそっとしまおうとした。
――その時。
空気が、変わった。
ドオォォン……!
地鳴りの音。
そして、大きな気配が……背後に現れた。
振り向くつもりはなかった。
振り返らなくても……分かったから。
『……来ると思ってた』
わたしは言った。
自分でも、声が思ったより落ち着いているのが分かった。
『ああ』
低い声だった。
地の底から這い上がってくるような、重い声。
黒竜が、空き地の端に降り立っていた。
夜の闇に溶け込むような純黒の鱗。その水色の瞳だけが、冷たく光っていた。
わたしはゆっくり立ち上がる。逃げる気はない。
『俺を、騙そうとしたな』
黒竜は言った。
怒鳴らない。声を荒らげていない。
『うん』
否定しなかった。
彼の喉がグルルと小さく鳴った。
『なぜだ?』
『カノンは、関係ない。あの子は親人派。最初から、あなたの仲間じゃない』
『ああ、それは――』
『最初から分かっていた』
黒竜は静かに言った。
『だから試したんだ。それでも俺に従うかどうか』
『……そんなこと、あの子が従う義理はない』
少しだけ、怒りが湧き上がった。
声が、少しだけ強くなる。
『あの子は、あなたの道具じゃない』
『俺も、そんな風には思ってねえよ』
黒竜は、淡々と返した。
『仲間かどうかを、確かめたかっただけだ。反人派として、共に戦えるかどうかを』
『…………』
『その答えは出た。あの小娘は使えない。それだけだ』
風が吹いた。
わたしは翼の中の鱗を、ぎゅっと握りしめた。
『……なら、わたしは』
『エアリー』
黒竜が、こちらに一歩だけ近づく。
『お前は俺を騙した』
『……だったら、殺せばいい』
覚悟していた。
しかし黒竜は、何も言わなかった。
ただ、その水色の目で、じっとわたしを見ていた。
沈黙が続いた。
夜の虫の声だけが、周囲に満ちていた。
『……それ。まだ持ってんのか』
彼は、唐突に話題を変えた。
その目は、わたしの持つ小さな鱗に向いていた。
『うん』
『……そうか』
『……別に、あなたの為じゃ、ないから』
『……あれも全部、人間のせいだ』
やがて黒竜が、ぽつりと言った。
その言葉に胸が詰まる。
彼の肩が、わずかに揺れた。
『だからエアリー。俺は、裏切りは嫌いだ。……お前もよく知ってるだろ』
黒竜は、一歩、さらに近づく。
『お前は、小さな魔物ひとりの身を案じて、俺を裏切った』
鼓動が、少しだけ速くなった。
『だが、人間に付いたわけじゃない』
『…………』
その言葉は、肯定でも否定でもない。
ただの事実確認。
『だから――』
アルカイトが、わたしのすぐ前で止まる。
巨大な影が、わたしに覆いかぶさる。
『お前を殺す理由はない』
息が、止まりかけた。
だが、次の言葉がそれを許さない。
『だが、お前を生かしておく理由もない』
黒竜は淡々と言い放つ。
『だから――生かすか殺すかは、俺が決める』
冷たい現実。
この竜からは、初めから逃げ場などなかった。
『……なら。どう、するの』
自分でも、なぜ聞いたのか分からない。
執行者に、自分の処遇をどうするかなど。
わたしは、鱗をそっとしまった。
答えはない。今日も、鱗は何も言ってくれなかった。
風が吹き、草が揺れる。
『…………』
黒竜は、答えない。
ただ、ゆっくりと翼を広げた。
次の瞬間。
ドォォン……!
轟音とともに、黒い影が動いた。
視界が、闇に塗り潰される。
風が爆ぜる。
衝撃が、全てを掻き消した。
――そして、
林の中の夜は、静かに深まっていった。




