67. 命を賭けた選択
(人間……)
目の前にいるのは……人間。
人間の少女が、カノンの盾となっている。
人間は殺すべき敵。だけど……
今、わたしがあいつを殺せば――蛇は、間違いなくカノンを殺す。
翼の中には、くすんだ緑色の、小さな鱗があった。
(……リア)
心の中で呟いた。
リア。わたしは、どうすればいい……。
答えは、還ってこなかった。
◆ ◆ ◆
長い膠着が崩れたのは、ローミアさんが一歩、前に出た瞬間だった。
『ベル~。少しだけ下がろっか』
ローミアさんが、静かに言った。
『……どういうことです?』
『ちょっとでいいからさあ。メイちゃんと話をさせてあげようよ』
サーペントさんの目が、細くなる。
一瞬の沈黙。
『メイちゃんが、人質に取られる可能性は?』
『この子たちが、そんな関係に見える?』
『……分かりました。ですが――』
すると彼は、静かにシュルリと私に尻尾を一巻きした。
きっと、私が捕らえられるのを護るつもりなのだろう。
『ひっ……!』
その様子を見て、カノンちゃんが短く声を挙げた。
巨大な蛇に、メイが捕らえられている。
『もう、融通が利かないなあ。ベル』
ローミアさんが息を吐き、私に視線を向ける。
『仕方ない。じゃあ、メイちゃん。その子と話して』
私は頷いて、カノンちゃんに真っ直ぐと視線を向ける。
カノンちゃんは、木の幹にもたれたまま動かなかった。
翼を畳んで、怯える目でサーペントさんを見て、ただじっとしている。
「カノンちゃん……」
人語だった。
彼女の緑色の目が、ゆっくりとこちらに向く。
今まで見たことのない、酷く、疲れ果てた目をしていた。
「……メイ」
掠れた声だった。
「元気だった……?」
とっさに出た言葉だった。
蛇に巻かれた状況で、そんなことを聞くのか、と自分でも思う。
でも、それ以外に何を言えばいいか、分からなかった。
カノンちゃんの目が、大きく揺れる。
「ううん……元気じゃ、ないよ……」
そう言った瞬間、彼女の目から、涙が溢れた。
「村が、なくなって。みんなも……いなくなって」
翼が震えている。
「どうすればいいのか、分からなくて……。そうしたら、あいつ、が来て……」
声が震えている。
あの明るくて優しかったカノンちゃんの声が、今は全然違って聞こえた。
「カノンちゃん」
私はもう一度、彼女の名前を呼んだ。
「私も、元気じゃないよ。……みんな、いなくなって。何一つ、残ってないと思って」
「でもね……違ったんだよ。……生きてた。カノンちゃんが……生きててくれた」
「……メイ」
「だからね、カノンちゃん。私は……迎えに来たんだよ。一緒に、村に帰ろ」
その言葉を聞いた瞬間、カノンちゃんは顔を覆って泣き崩れた。
声を殺して、肩を震わせて。翼でそれを隠して。
私は彼女の背中に手を置いた。
何も言えなかった。ただ、その場にいることしかできなかった。
◆ ◆ ◆
『もう、いいでしょうか』
サーペントさんが優しく私を開放し、再び前に出た。
彼の瞳は穏やかだった。怒りも焦りもない。
何を考えているのか、分からない。
それが一番、怖かった。
『……ヘビさん』
私は声を掛ける。……嫌な予感がした。
カノンちゃんは、ただ泣き崩れている。
サーペントさんの目が、冷たく彼女を見下ろした。
『——待って』
ずるずると彼女に歩み寄るサーペントさん。
彼の太い胴体に、私は腕ごとすがりついた。
鱗の感触。冷たくて……幼い頃から、ずっと知っている感触だった。
『何でしょうか』
『ヘビ、さん……』
声が震えた。
止めたくて、でも、止まらなくて。
『お願い。カノンちゃんを……殺さないで』
『…………』
『カノンちゃんは、私の友達なんだよ。家族みたいな子なんだよ。村のみんなと一緒に……私が、守りたかった子のひとりなんだよ』
涙が、止まらない。
『それなのに。目の前で、殺されるなんて……そんなの、見たくない』
サーペントさんは動かなかった。
『ですがこの子は、人を殺そうとしましたよ』
『……何か、きっと理由がある。だから、それでもカノンちゃんを殺さなきゃいけないなら――』
私は、彼の胴体にぎゅっと額を押しつけた。
『——その時は、私も一緒に殺して』
空き地が、しんと静まり返った。
ローミアさんが、低く息を吐く。
サーペントさんは、少しの間、目を閉じた。
その胴体が、私の腕の中でほんのわずかに、震えた気がした。
『…………』
彼は、何も言わなかった。
ただ、その長い首が、静かに持ち上がった。
カノンちゃんへ——向かっていく。
『やめて!!』
私は叫んだ。でも、腕に力が入らなかった。
サーペントさんが、――ゆっくりと牙をのぞかせた。
……その時。
ビュン……!!
風が、横から叩きつけた。
ドオォォン……!!
鋭い風の奔流……鎌鼬。
サーペントさんの首が、大きく弾き飛ばされた。
私も、その衝撃で振り落とされる。
『…………っ』
ゴロゴロと地面に転がる。受け身が取れず、膝と掌で砂を掻いた。
顔を上げると——深い緑色の影が、サーペントさんとカノンちゃんの間に降り立っていた。
エアリー・レイン。
彼女の翼が、大きく開かれていた。
まるで、防壁のように。
サーペントさんに向けて、鋭い爪を構えながら、エアリーは静かに言った。
『……待ってよ』
その声は、低かった。
静かな彼女の物言いの中に、感情が、薄く滲んでいた。
サーペントさんは、弾き飛ばされた体勢のまま、静止している。
その目が、エアリーを捉えた。
『……何を、するのですか』
『…………』
エアリーは答えなかった。
その藍色の瞳が、サーペントさんを見ながら、少しだけ揺れていた。
彼女は、翼をわずかに畳んだ。
構えを完全には解かない。だが、臨戦態勢が、ほんの少しだけ変わった。
それは——話しかける前の、気配だった。
『……ひとつ、条件を聞いてくれる?』
『…………』
サーペントさんは、黙ったまま目を細めた。
『この子の命を、守ると約束して』
エアリーは続ける。
カノンちゃんのことだと、すぐに分かった。
『約束してくれるなら……本当のことを、話す』
空き地に、静寂が降りた。
木の葉が、風に揺れる音だけが聞こえた。
夕暮れの赤が、空全体に広がっていた。
サーペントさんの深紫の瞳が、エアリーを見つめたまま、動かない。
『……いえ、約束はできません。ですが――』
彼はゆっくりと言った。
『……本来の命令は「カノンさんの捕縛」です。殺害ではありません』
『…………』
エアリーが、ほんのわずかに目を細めた。
沈黙があった。
長いようで、ほんの少しの沈黙。
エアリーは、翼の中の何かを触るような仕草をした。
ふっと、その目に、別の色が混じった。
……悲しいのか、寂しいのか。私には分からなかった。
『……鎌鼬を撃ったのは、わたしだ』
その一言が、場に落ちた。
『その男を狙ったのは、わたし。カノンじゃない』
エアリーは目を細め、空を見上げる。
そして、誰かに話し掛けるように、呟いた。
『……どうせ見てるんでしょ。なら、わたしでいいから』
私は、息を呑んだ。
カノンちゃんが、俯いたまま、小さく唇を噛んだ。
『……なんで……』
やっとの思いで、私は口を開いた。
『……カノンには、できなかったから』
エアリーは、答えた。
その声は、静かだった。怒りも言い訳もない、ただ事実を述べるような。
『この子はわたしたちとは違う。人間を殺せない。……でも、それがバレたら、この子は殺される』
『殺される……?』
『だから。代わりに、わたしが……。カノンが、仲間でいられるように』
私は、彼女の翼の内側に視線がいく。
緑色の鱗の欠片が、そこに挟まっていた。
大切なものを持ち歩くような、そういう仕草だった。
『エアリー、あなた……』
『…………』
カノンちゃんはグリフォンに呟いた。
エアリーは背後のハルピュイアにチラリと視線を向ける。
そして、目の前の私に視線を戻した。
『わたしは人間が嫌い』
エアリーは続けた。
『嫌いだから、カノンの代わりに撃った。それだけ』
それから、彼女の目が、少しだけ翳った。
『……でも』
声が、かすかに変わった。
『これを言ったから、この子はあいつにとって「敵」になる。もう、ただじゃ済まされない』
エアリーは、空をちらりと見た。
『……それに、あいつを騙そうとした、わたし自身もね』
まるで、まだどこかで見られているかのように。
『あいつは、容赦しないから』
誰も、何も言わなかった。
『だから、約束して。カノンの命を、あなた達が守ると』
エアリーは引かなかった。
翼を僅かに揺らして、サーペントさんを見据えたまま、立っていた。
サーペントさんは、しばらく黙っていた。
そして——静かに頷いた。
『……それでアナタは、どうするのですか』
『わたしは二位種。……自分の身は、自分で守るよ』
……だが、そう言う彼女の目は。……少し、諦めを含んでいた。
『……分かりました』
サーペントさんはそう言うと、ゆっくりと私の方を見た。
『メイちゃん』
『…………』
『カノンさんの潔白が、証明されたようです』
『……うん』
私の胸の奥で、何かが緩む感覚があった。
『ですが——』
彼の声に、少しだけ重さが混じった。
『問題は、これからです』
カノンちゃんが、顔を上げる。
赤い夕暮れが、空き地を染め始めていた。
『……あくまでワタシたちの命令は、カノンさんの捕縛です』
サーペントさんがグリフォンに目を向ける。
その声は穏やかで、でも、重みがあった。
『アナタの始末ではありません、エアリーさん』
エアリーが、ほんの少しだけ目を細める。
『……そう』
カノンちゃんは、その言葉に少しだけ安堵したように息を吐く。
『エアリー……』
そして彼女は、グリフォンに目を向ける。まるで、彼女の身を案ずるように。
『……わたしじゃないでしょ、カノン。あなたがいるべきところは』
エアリーは静かに言い放った。
カノンちゃんは少しの沈黙の後、ゆっくりと私のもとへ歩み寄ってくる。
「……おかえり、カノンちゃん」
私は言った。
カノンちゃんが、私の袖を、そっと掴んだ。
それだけで、涙が出そうになった。
「ただいま、メイ」
彼女の声は、まだ震えていた。
でも、確かにそこにあった。




