66. 守るものの違い
玉座の間に残されたふたり。
『ベル。……お願いがあります』
魔王様は、静かにそう切り出した。
ワタシはただ、彼女の次の言葉を待っていた。
『もし……カノンさんの奪還が難しくなった時。彼女が反人派に染まり、真にターゲットの人間へ危険が及ぶ時。そして、それをメイの手では、どうしても止められない時』
その瞳に、葛藤の色が揺らぐ。
そして彼女は、一度だけ目を閉じた。
『その時はあなたに……王としての判断を、委ねます』
沈黙が流れた。
『……委ねる、とは』
ワタシは静かに問い返した。
『……殺せ、ということですか。魔王様』
魔王様は答えなかった。
ただ、その淡紫色の鬣が、わずかに揺れた。
本来、命を尊ぶ索冥である魔王様。
だが……綺麗事だけでは、国の王として成り立たない。
彼女のその沈黙が、答えだった。
◆ ◆ ◆
『……どいてください、メイちゃん』
サーペントさんは、もう一度言った。
私の目をまっすぐに見ている。
その瞳は優しかった。ベリミアではない、サーペントさんの目。
だからこそ、……余計に怖かった。
『どかなければ……』
彼は一拍置いた。
『アナタごと、処理しますよ』
空き地が、しん、と静まり返った。
ローミアさんが、低く息を吐く音が聞こえた。
『や、やめて……メイ……!』
私の後ろで、カノンちゃんが小さく声を漏らした。
その声に、私は奥歯を噛んだ。
(……分かってる。ヘビさんは、本気だ)
分かっている。
決勝の試合で、彼は私を締め潰した。躊躇いなく、一切の加減なく。
「できれば傷つけたくない」と思いながらも、……ユキちゃんの命令を執行した。
それが、ベリミア・エルダという魔物だと、私はもう知っていた。
だから、今もきっと。……彼は、本気だ。
それでも、足は動かなかった。
『……ヘビさん』
私は、彼の目を見た。
『カノンちゃんは……オルト村の住人だよ』
『…………』
『魔物に滅ぼされた村の。私と同じ、たったふたりの生き残りだよ』
サーペントさんは答えない。
『それなのに……なんで、私が見てる前で、殺されなきゃいけないの』
声が震えた。
泣くつもりじゃなかった。でも、もう止められなかった。
『村のみんなを奪われて。家族を奪われて。それでも、生き残ったのに』
涙が、頬を伝う。
『ヘビさんは守ってくれた。私のことを、守ってくれたじゃん……。だったら、カノンちゃん、だって——』
『メイちゃん』
サーペントさんは、静かに、でも確かに私を遮った。
『……ワタシが守りたいのは、魔物と人との平和です』
その声は、揺れていなかった。
『カノンさんが人間を殺せば、再び人と魔物の戦争が起きる可能性があります。その火種を、ワタシは摘まなければならない。……それが、魔王様から与えられたワタシの役割です』
『……っ』
『……どいてください』
一歩、また一歩。
彼はずるずると、確実に近づいてくる。
私はどかなかった。
後ろで、カノンちゃんの翼が、わずかに動いた気がした。
それが逃げようとしているのか、それとも別の何かなのか、私には分からなかった。
『……言うことを、聞いてくれませんか。メイちゃん』
『嫌……だよ……』
『…………』
サーペントさんの尻尾が、シュルリと私の足元まで届く。
巻き上げられる、と分かった。
でも、体が動かなかった。
その時。
『……待ちなよ、ベル』
ローミアさんの声が、空き地に静かに響いた。
サーペントさんの動きが、止まった。
『……ロー』
『僕はミゼルに頼まれてるんだよ。「メイちゃんを守ること」を』
ローミアさんは、ゆっくりと前に出た。
のんびりした歩き方だった。でも、その大きな黒い甲羅が、私の隣に並んだ時。
——空気が、変わった。
静寂が落ちる。
サーペントさんの尻尾が、私の足元で止まっていた。
ローミアさんが隣に並んでいる。その巨大な甲羅が、私の肩のすぐ横にあった。
誰も動かない。
『ロー』
サーペントさんが、静かに言った。
『……アナタが、ワタシの邪魔をするのですか』
『邪魔というかさ~』
ローミアさんは、のんびりした声で答えた。
『ミゼルから頼まれてる範囲内で動いてるよ、僕は。メイちゃんを守ること。それが役目だから』
一拍の間があった。
『……それは、危険因子のカノンさんを庇うことにも繋がりますよ』
『それはねえ』
ローミアさんは、少し考えるように首を傾げた。
『メイちゃんが、庇おうとしてるからだよ。だからメイちゃんを守る僕は、その意思も尊重したほうがいいかなあって』
詭弁だと思った。
でも、彼女のその言葉は、どっしりと心に響いて、ものすごく温かかった。
サーペントさんは、しばらく黙っていた。
フードの奥で、彼の深紫色の目がゆっくりと動く。
私を見て、ローミアさんを見て、……その奥のカノンちゃんを見た。
『…………』
膠着していた。
誰かが動けば、何かが崩れる。でも、誰も動けない。
夕暮れの光が、橙色から赤へと変わり始めている。
私は歯を食いしばったまま、ただその場に立ち続けていた。
◆ ◆ ◆
林の高い枝の上から、わたしはその光景を見下ろしていた。
蛇の魔物が、人間の少女に行く手を阻まれている。
その隣に、陸亀が並んでいる。
そして、カノンが——彼らの前で、小さく翼を縮めていた。
(……バカ)
特定の誰かに向けたものではなかった。
自分自身に向けていたのかもしれない。
わたしは、人間が嫌いだ。
それは、ずっと変わらない。
親友を人間に奪われたあの日から、何も変わっていない。
でも――
(カノンは……そうじゃない)
人間が嫌いだからといって、ほかの者にそれを押しつけたくはない。
それだけが、わたしの中の、最後の一線だった。
自分の憎しみは、自分のものだ。
カノンのものではない。
だから、あの時——カノンが翼を構えて、震えていた時。
……わたしには分かっていた。
カノンは、殺せない。
あの子は、ずっとガルデニアで人間を助けてきた子だ。反人派であるはずがない。
それでも、あいつの前で『人間を殺せない』と露見すれば――彼女は、あいつに殺される。
カノンの命を守りたい。
それだけが理由だった。
わたしが、カノンの代わりに……鎌鼬を放ったのは。
風属性の魔術を使えるのは、カノンだけではない。
鎌鼬を使えるのは、わたしも同じだ。
カノンと同じ属性を持つわたしが、あの子の影に隠れて撃てば——距離があれば、誰にも分かる筈がない。
――でも。
(……ここで本当のことを言えば)
目の前の状況に目を向ける。
あの蛇は、カノンを殺そうとしている。止めているのは、人間の少女と陸亀。
今、ここで、わたしが真実を伝えれば——
(カノンは、この場は乗り切れる……)
彼女の疑いが晴れる。
そんなことは分かっていた。
分かっていた……けれど。
(……言えない)
あいつが、いる。
目を細めた。空き地の上空。林の木々の影。
どこかで、ずっと、見ている。
あいつが——あの竜が。
(……これは、カノンへの試練)
カノンが『仲間』かどうか、見極めようとしている。
人間を殺せないと分かれば、カノンを殺す。
それがあいつのやり方だ。
だから、ここでわたしが本当のことを言えば——今、カノンの命は守られる。
でも、次の瞬間にはカノンが「使えない」と判断されて、……あいつに消される。
(……どっちに転んでも、カノンは……)
翼の中に、竜の鱗を持ち歩いている。
いつも、ここにある。……あの温かい感触が、心の支えだった。
あの子は、どう思うだろうか。
こんな場所で、こんなことをしているわたしを——




