65. 再会
林の奥は、街の喧騒から切り離されたように静かだった。
人の手の加わっていない土地。陽の光は木々の葉に遮られて、地面まで届かない。
どこかで小鳥が鳴いているが、それがかえって静寂を際立たせていた。
乱雑に生える木々の間をするすると行くサーペントさんの姿を目で追いながら、私は枝を払って進む。
湿った土が靴底にまとわりつく。木の根に足を取られそうになるたびに、彼の尻尾がさりげなく手元に添えられて、助けてくれた。
『先ほど触れた時、グリフォンの匂いは覚えましたよ』
サーペントさんは、舌をシュルシュルと出しながらぐるりと周囲を見回す。
『……ですが、グリフォンほどの機動力を持つ相手では、匂いでは追いきれません。もう、見失ってしまいました』
『方向は合ってるよ~』
私の後ろを守るように、ローミアさんが付いてくる。
彼女は陸亀であるが、全長が十メートルほどもある巨大な魔物だ。
鈍重な動きでも、一歩でこちらに追い付いてくる。
『さっき、このあたりで大きな揺れがあったよ~。たぶん、一度この辺で休んだんだと思うな』
『ローミアさん、そこまで分かるんですか?』
『ローは、地面の揺れに鋭敏ですからね』
『敏感なの~』
そう言って彼女は微笑む。
『まあ、近くに行ければ、ベルが匂いで見つけてくれると思うよ~』
(さすが、玄武のふたり……)
互いを補完し合う能力もさることながら、互いに対する信頼が、私などでは到底及ばないなと思った。
『……足跡があります』
サーペントさんが低い声で言う。
見ると、苔の上に、爪の跡のような押し跡が残っていた。
鳥の足に似ているが、ずっと大きい。ハルピュイアの足跡だ。
『新しいです。そう遠くはないかと』
『ベル。どうする?』
ローミアさんは小声で尋ねる。
『……居場所を特定した場合、ワタシとメイちゃんは回り込みます。逃げられても対応できるよう、ローとワタシたちで、挟撃の形としましょう」
いつもながら、手際がいい。
(……カノンちゃん)
確実に近づいている。
……でも。
会えたとして、何を言えばいい?
彼女に、どんな顔で会えばいい?
その答えは、まだ出ていなかった。
◆ ◆ ◆
足跡が消えたのは、林が途切れた先だった。
小さな空き地。木々が円形に開いて、中央だけ空が見えている。
夕暮れの手前の、白みがかった青空だった。
その空き地の端に、少年がいた。
青い上着。ノース国民に多い、明るい茶色の、少し癖のある髪。
膝を抱えて、地面に座り込んでいる。
腕には擦り傷があって、服の裾は泥で汚れていた。
怪我はしていない。ただ、怖くて動けないのだろう。
(……レイン君)
その名前が、頭の中に浮かんだ。
あの父親の、息子。
「……っ」
思わず踏み出しそうになった、その瞬間。
少年の正面に、影が降り立った。
桃色の羽毛、震える翼。
……見間違える筈もない。
カノンちゃんが、そこにいた。
私は息を呑んだ。
カノンちゃんは、私たちに気づいていない。
林の陰から私たちが見ている方向とは逆、少年の正面に立っていた。
背中だけが見える。その背中が、小刻みに震えていた。
翼が、半分開かれている。
構えているのか、それとも、怖くて身体が言うことを聞かないのか。
私には分からなかった。
『……やりなよ』
突然、声がした。
空き地の端、高い枝の上。
深い緑色の毛並みが、枝の隙間から見えた。
エアリー・レイン。あのグリフォンだった。
先ほどまでと変わらない、静かな声。
感情が読み取れない。責めているわけでも、急かしているわけでもない。
彼女はただ、淡々と、告げていた。
私はエアリーの視線を追う。
彼女の目は、カノンちゃんではなく、空き地の上空に向けられていた。
一瞬だけ。……ほんの一瞬だけ、何かを確認するように。
『やりなよ、カノン』
エアリーが、もう一度言った。
今度は、少しだけ声が低かった。
『…………』
カノンちゃんは動かなかった。
少年は顔を上げていた。
怯えた目で、目の前の魔物を見ている。
逃げられない。逃げようとしたら、空から追いかけられる。そう分かっているのだろう。
地面を引っ掻くように指先を動かしながら、ただじっと、息をこらしていた。
その少年の目に、カノンちゃんの緑色の瞳が映っている。
(……ダメ)
見ていられなかった。
きっと……エアリーが、カノンちゃんに無理矢理やらせているんだ。
でも、飛び出せなかった。
サーペントさんの尻尾が、私の腕をそっと抑えていたから。
『……今は、まだ』
囁くような声。
『アナタが出ると、状況が変わります。……少しだけ、見ていてください』
『…………』
私は奥歯を噛んだ。
苦しかった。ここから見ているだけで、じっとしているのが苦しかった。
カノンちゃんの翼が、大きく広がった。
風の魔術を溜めている。
鎌鼬の、構えだ。
『…………っ』
心臓が跳ね上がった。
違う、違う、カノンちゃんはそんなことしない。
でも翼は構えられていて、少年は、その場に縫い付けられたように動けなくて。
(——止めなきゃ)
そして私は、……サーペントさんの尻尾を振り払った。
『カノンちゃん!!』
私の声が、空き地に響いた。
◆ ◆ ◆
全員が止まった。
カノンちゃんが振り返る。
桃色の羽毛、緑色の目。幼い頃から見てきた、あの顔。
その瞳が、私を捉えた瞬間——大きく見開かれた。
『……メ、』
口が動く。声にならない。
『カノンちゃん……』
私はもう一度、呼んだ。
今度は、静かに。
『……メイ……?』
彼女の声は、掠れていた。
枝の上のエアリーが、低く言う。
『……やりなよ、カノン。早く、しないと』
その声は、やはり淡々としていた。
感情がない。そのくせ、どこか切迫していた。
さっきと同じ。……あの目が、また空へ向いている。
カノンちゃんの視線が、私とエアリーの間を行き来する。
翼が、わずかに揺れた。
構えを、解こうとしている。
(……カノンちゃんは、やりたくない。そんなひとじゃない。やっぱり、分かってた……!)
胸の奥で、ぎゅっとなる。
でも次の瞬間、カノンちゃんの顔が歪んだ。
何かを堪えるような、それでいて、何かを諦めるような顔。
翼が、再び少年に向いた。
未来視と同じ、あの光景――
『だ、ダメええ!!』
私は叫んだ。
足が勝手に動いていた。
少年とカノンちゃんの間に、急いで駆け込もうとする。
『メイちゃん!!』
背後から、サーペントさんの声が聞こえた。
ビュン……!!
風切り音。
ドォン……!
私は、間に合わなかった。
……目の前で、鈍く、大きな音が響いた。
『…………っ』
私は目を開ける。
目の前に、あの少年がいた。
傷を負っていない。
地面に転がって、呆然とカノンちゃんを見上げていた。
(これって……)
林の奥に、黒い陸亀の姿があった。
(……ローミア、さん……)
彼女の守護魔術が、機能していた。
そうか。直前で機転を利かせ、この少年に貼ってくれてたんだ。
砂埃がゆっくりと晴れていく。
放たれた鎌鼬は、少年の背後の木の幹を大きく抉り取っていた。
空き地の地面に、細い風の跡が残っている。
私は顔を上げた。
カノンちゃんは翼を畳んで、その場に立ち尽くしていた。
表情が読めない。ただ、その目が、ひどく揺れていた。
そして——
枝の上のエアリーが、静かに翼を畳んだ。
◆ ◆ ◆
しばらく、誰も動かなかった。
少年が、ゆっくりと立ち上がる。
全身が震えていたが、怪我はない。
私はカノンちゃんと少年の間に割り込み、庇う。
「レインくん。……逃げて。早く」
怯えた目が、大きく見開かれる。
そして少年は、小さく頷いた。
「待ちなさい」
そのまま駆け出そうとする彼。
それを、サーペントさんが制止した。
「レインくん。……動かないでください」
穏やかな声だった。しかし、有無を言わさぬ力があった。
少年は、怯えた目をサーペントさんに向ける。
「……ヘビさん、なんで」
私は思わず振り返る。
「上にエアリーがいます」
彼はフードの奥から、静かに空を仰いだ。
「林の中をひとりで走らせれば……格好の標的になります」
言われて、気づいた。
私は、最悪の手を打とうとしていた。
少年は小さく震えながらも、その場に留まっている。
私はもう一度、彼の前に立った。
「……ごめん。もう少しだけ、ここにいて」
少年は答えなかった。ただ、小さく頷いた。
膝ががくがくしていた。自分でも気づかなかったけれど、ずっと体が強張っていた。
「メイちゃん」
サーペントさんが、私の隣に来た。
その声は穏やかだったが、尻尾の先が、ほんのわずかに震えていた。
私が飛び出した時のことを、まだ引きずっているのかもしれない。
「大丈夫。怪我はないよ」
私は答えた。
「……そうですか」
彼はそれだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
夕暮れが迫っていた。
空き地に差し込む光が、橙色に変わり始めている。
木の葉の端が、その色に縁取られていた。
空き地は静かだった。そこにいるのは、二人と四頭。
カノンちゃんは、俯いていた。
翼を体に巻きつけるように縮まって、地面に目を落としている。
その肩が、小刻みに震えていた。
『……アナタ』
その声に、ビクッとカノンちゃんが反応する。
サーペントさんが、カノンちゃんに向き直っていた。
いつもの声だった。穏やかで、柔らかい。
行商に来るたびに、村の皆に聞かせてくれていたあの声。
それなのに——
『殺す気でしたね』
その言葉だけが、冷たかった。
カノンちゃんは顔を上げない。
サーペントさんの深紫色の瞳が、静かに細められる。
それは、『ヘビさん』の目ではなかった。
『…………』
ローミアさんが静かに茂みから出てくる。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
サーペントさんはずるりと一歩、カノンちゃんに近づいた。
(——ヘビさん)
私は動いていた。
……なんとなく、嫌な予感がしたから。
気づいた時には、私はサーペントさんとカノンちゃんの間に、立っていた。
『……メイちゃん』
サーペントさんの声は、変わらなかった。
穏やかで、静かで、それでいて逃げ場がなかった。
『どいてください』
『……嫌だ』
私は答えた。
『カノンちゃんは、訳もなく、こんなことしない。あれは――』
『メイちゃん』
静かに、サーペントさんが遮る。
『ワタシは、この目で見ました。カノンさんが翼を構えるのを。鎌鼬が放たれる直前まで、彼女の魔力が練り上げられていくのを』
一歩、また一歩。
彼がゆっくりと近づいてくる。
『魔王様から命じられています』
私は、息を呑んだ。
そうだ。玉座の間を出て、ローミアさんと廊下に立っていた時。
ユキちゃんが、サーペントさんだけを残して、ふたりで話していた。
『……任務時、やむを得ない場合』
あの時、何を話していたのか。
私は聞いていない。でも、ずっと、胸の奥にあった。
『その時は、カノン・ノアーノを殺せと』




