64. エアリー・レイン
リーファさんの未来視の映像は、音がなかった。
震える桃色の翼。無防備な少年。構えられた風の刃。
そして、映像の端に一瞬だけ映り込んだ……深い緑色。
何かの鱗か、それとも木々の色か。
それだけが、手がかりだった。
『……林。もしくは、山の中ですね』
サーペントさんは静かに言った。
私たちはメルクス市を外れ、街道から外れた小高い丘の上に立っていた。
眼下には街の屋根が並び、その向こうに、鬱蒼と茂る林が広がっている。
未来視の映像の背景に映り込んでいた木々は、この辺りの林のものに似ていた。
『少なくとも、人間の居住区ではありませんね。飛べる種族が身を潜めるなら、人目の届かない高所か、林の奥でしょう』
『目立たない、山の中とかの方が安心だもんね……』
『ええ』
ローミアさんは、大きな黒い甲羅を揺らしながら遠くの山並みを眺めていた。
『じゃあ、手分けしようか』
彼女はのんびりした声で言う。だが、その目は鋭かった。
『僕はあの林の北側から捜すよ~。守護魔術は常時メイちゃんに使ってるから、どこにいても大丈夫』
『ヘビさんは?』
『ワタシは南側の沢沿いから。匂いを辿ってみようかと』
サーペントさんは舌をシュルシュルと出しながら、ポーチを持ち直す。
『メイちゃんは、東のほうをお願いできますか。あちらの斜面は一番開けていますし、空から来た魔物が最初に降り立ちやすい』
『うん、分かった』
私は頷く。
『何かあれば、ワタシのスマホにすぐ連絡を。絶対に、単独で無茶しないでくださいね』
『うん』
そして、三人で別れた。
私は斜面に向かって歩き始める。
草を踏む音と、遠くで鳥が鳴く声だけが聞こえた。
東の斜面は、思っていたよりも急だった。
トレッキングシューズの底が、しっとりと湿った土を踏みしめる。
ガルデニアと全然違う植生。あそこは薬草が多かったけど、こっちは使えそうな野草がほとんど見当たらない。
(カノンちゃん……どこにいるんだろう)
頭の中で、親友の顔を思い浮かべる。
桃色の羽毛。可愛い笑顔。いつも明るくて、よく笑うひとだった。
オルトの山・ガルデニアで、一緒に登山客の誘導をしたこと。
夕方の公園で、空を飛ぶ彼女と追いかけっこをしたこと。
(……いるよね、どこかに。ちゃんと、生きて)
斜面を登りながら、私はただそれだけを、心の中で繰り返していた。
◆ ◆ ◆
林の縁に出た時だった。
気配、という言葉が正しいのかも分からない。
ただ、なんとなく、空気が変わった気がした。
『……誰か、いますか?』
私は、恐る恐る呼びかけた。
しかし、誰も応じない。
木の葉が風にゆれて、サラサラと音を立てる。
『…………』
パキッ……
次の瞬間、頭上の枝が軋んだ。
見上げると、大木の分厚い枝の上に、大きな影があった。
深い緑色の毛並み。拡げられた翼。
……グリフォンが、静かにこちらを見下ろしていた。
その藍色の瞳は、冷たかった。敵意というよりも、もっとどこか——底冷えするような、感情の薄い目だった。
『……あなた、また……』
エリノア語だった。
『また……?』
私は彼女に聞き返す。
『闘技大会』
グリフォンは静かに言った。
『一日目、最後の試合。あなたは、人狼が変身してた』
(あ……)
思い出した。
あの試合の相手。人間が嫌いと言っていた、深緑のグリフォン。
登録名は確か、【Eyrie Raine】……、と言っていたような気がする。
『覚えてくれてたんだね』
『あなたが強かったから』
『えっと……エアリー、さん』
『うん。準優勝おめでとう』
短く言い捨てる。
でも、その目には……敵意は、ない。
グリフォンは枝の上でゆっくりと体の向きを変えた。
『だれか捜してるの?』
『あ、うん……実は、私と同じくらいの、ハルピュイアの女の子を捜してて』
そう言うと、グリフォンはバサッと飛び立ち、私の前に静かに着地した。
『どんな子?』
『えっと。髪の毛は桃色で、肩くらい。翼も同じ桃色で――』
『カノンのこと?』
どきっとした。
『……知ってるの?』
だが、彼女は私の質問には答えなかった。
その代わりに、ただ無言で、鷲の鋭い目を私に向ける。
『ねえ、あなた——』
視線が、少しだけ鋭くなった。
『――今、本当に変身してる?』
私の胸が、ヒヤリとした。
『その……』
言いかけた、その時。
『メイちゃん』
サーペントさんの声がした。
斜面の下から、フードを被った若草色の大蛇がずるずると上がってくる。
私は一瞬固まった。
(あ、これ……)
『メイちゃん、この辺りに魔物の匂いが——』
そこで彼も気づく。
私と、その前のグリフォンを交互に見て……
言葉を、止めた。
でも、もう遅かった。
エアリーの目が、ゆっくりと細くなる。
『…………「メイちゃん」……?』
静かな声。
『……ねえ。その名前』
彼女の翼が、わずかに広がった。
『……人間?』
その一言が、空気を変えた。
『…………』
私は否定できなかった。
否定したところで、声も顔も、何もかもが人間のままだから。
エアリーの瞳に、はっきりと殺意が宿る。
次の瞬間、彼女は地を蹴った。
ビュン……!
彼女の大きな爪が、正面から迫る。
『っ——!!』
咄嗟に身を捻る。
でも、間に合わない。
ガッ……!!
『…………』
衝撃は、来なかった。
目を開けると、私の目の前に……若草色の大蛇がいた。
彼の分厚い鱗が、グリフォンの重い爪を受け止めている。
……その尾の先に、深く赤い線が走っていた。
『……何を、するのですか』
サーペントさんは静かに言った。
振り返らない。私に背を向けたまま、じっとエアリーに向き合っている。
その声は穏やかだった。
いつも通りの、行商スマイルを浮かべたサーペントさんと変わらない声。
でも、その場の空気だけが——すごく冷たかった。
『……どいて。蛇のひと』
エアリーが言う。
『人間は、殺さなきゃ』
『……どうしてですか?』
『人間は裏切る。魔物を殺す。特に……「魔物との共存を唱えてる」人間は』
その言葉に、私はぎゅっと胸が締め付けられる。
『根拠は』
『この人間は……人間側に情報を流してる。今日、この街で喋ってた。「魔物の仲間がいる」と言って、人間の男に近づいて。……山の上から、ずっと見てた』
(あの、父親のひと……)
メルクス市で話しかけてきた、息子を探していた男性のことだ。
『彼女は聞き込みをしていたのです。疑われる行動などしていません』
『……でも、あなたは傍にいなかった。何を話してたか、知らないでしょ』
『…………』
サーペントさんは、一瞬だけ黙った。
『……だとしても』
それでも、退かなかった。
『今この場で、この子を傷つけることはさせません』
エアリーの翼が、再び広がる。
明らかな臨戦態勢だ。
グリフォンは二位種の魔物だ。
サーペントさんは一位種だけど——ここで戦闘になったら。
(カノンちゃんの情報を、聞けなくなる……)
私がそう思うや否や、エアリーの目の色が少しだけ変わった。
そしてチラリと山の方へ眼を遣ると、彼女の翼が、半分だけ畳まれる。
『……今日は見逃す』
彼女は静かに言った。
『でも、次に会った時、あなたが「人間のメイちゃん」であるなら――』
その藍色の目が、まっすぐに私を射抜く。
『――その時は、本気で殺す』
風が、さっと吹いた。
次の瞬間、エアリーの姿は林の奥へと消えていた。
◆ ◆ ◆
しばらく、私たちはそのままでいた。
『……大丈夫ですか、メイちゃん』
先に口を開いたのは、サーペントさんだった。
『……うん。大丈夫。……ごめんね、ヘビさん。怪我を』
『いえ』
彼は、こちらに向き直る。
その顔は穏やかだった。いつも通りの、困ったような笑顔。
『ワタシがメイちゃんの名を呼んだのです。アナタのせいではありません」
『でも……』
『それに、これはむしろ——』
サーペントさんは、少しだけ間を置いた。
『都合がいいかもしれません』
『……え?』
『あのグリフォン。彼女はカノンさんの居場所を知っています。そしてこちらの存在を知った。……逃げましたが、恐らくは――』
サーペントさんは林の奥を見据えた。
『――カノンさんのいる場所へ向かっています』
そうか、と思った。
去ったのは、逃げたためじゃない。
知らせに行ったか、何らかの目的で、カノンちゃんに接触する可能性がある。
「……追い掛けよう」
私は言った。
サーペントさんは頷く。
「ローには連絡します。三人で向かいましょう」
林の奥は暗かった。
木々の葉が重なり、陽の光が届かない。
私はサーペントさんの隣に並んだ。
「行こう、ヘビさん」
「ええ」
林の奥から、風が一筋流れてくる。
そして私たちは、暗い林の中へと踏み込んだ。
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