61. 帰れない帰郷
ゴォン……
低い鐘の音が空気を震わせた。
グランド交通の巨獣バスはゆっくりと足を止める。
ここは終点。――ノース国との国境。
すでに辺りは夕方になっていた。
「着いた……」
巨獣は膝を折り、階段が降ろされる。
私は息を呑んだ。
高くそびえ立つように、国境に沿って石の壁と門が組まれていて。
その前に整然と並ぶ入国審査官が、往来する人々をひとりひとり、鋭い視線で見極めていた。
(ここまで、来た……)
ここを越えれば、故郷のノース国。
でも私は、地元に帰って来たわけではなかった。
(……『帰る』わけじゃない。ただ、『通る』だけ――)
だって、ノース国に故郷を持つ私、メアリー・フェリシアは……
死んだことになっている人間だから。
「次の方、どうぞ」
落ち着いた声に呼ばれ、私たちは前へ出る。
応対に出たのは、若い人間の職員だった。
丁寧な所作で、彼はサーペントさんへと視線を向ける。
「人語での会話は可能ですか?」
「ええ。問題ありません」
「では。貴方の通行目的をお聞かせください」
「ビジネスと護衛です」
穏やかな声。いつもと変わらない落ち着いた口調だった。
彼は自然な所作でポーチから身分証を提示する。
「承知いたしました。では――」
そして、職員の視線が、私へ移った。
「そちらの方の身分証もご提示をお願いいたします」
「…………」
喉が、詰まった。
身分証。……私は、出せるはずがない。
(だって、私は――)
ここでは、もう『存在していない』筈の人間なのだから。
「……この子は、ワタシの助手です。身元については、ワタシが保証いたします」
そんな私を庇うように、サーペントさんがずるりと前に出た。
「保証人、でございますか」
「ええ。万が一問題があれば、すべての責任はワタシが負います」
静かな声。
けれど、その一言には、迷いがなかった。
職員の男性は一瞬だけ考え込む。
「……申し訳ありません。ですがやはり、規定上、身元確認が取れない以上は――」
「……でしたら」
その言葉を予想していたかのように、サーペントさんは言葉を重ねる。
そして彼は、首に提げたポーチから一通の封書を取り出した。
「こちらをご確認願います」
白い厚手の封筒。
そこには、深い紫色の封蝋が施されている。
「これは……!」
差し出された封書を見て、兵士の目がわずかに見開かれる。
その封蝋に刻まれていたのは、麒麟のシルエットに、魔物を象徴する角と翼を施したエンブレム。
エリノア国第三代魔王、ミゼル・エリノアの紋章だった。
「魔王様からの親書です」
その一言で、空気が変わった。
ざわ……と周囲が揺れる。
他の人たちの視線が一斉に集まるのを、肌で感じた。
職員は慎重に封書を受け取り、封蝋を確認する。
『……確かに、これは魔王陛下の紋章に間違いありません』
小さく喉が鳴る音が聞こえた。
「……拝見いたします」
そう言って彼は丁寧に封を切り、中身に目を通した。
「…………」
しかし、職員の彼の表情は――晴れなかった。
いや。むしろ少しだけ……困惑が浮かんでいた。
「……恐れ入ります、サーペント様」
職員はゆっくりと顔を上げる。
「こちらの書状ですが、機密指定がなされております。……そちらの女性の方の、ご身分を含めて」
「おや、そうでしたか」
「そのため、申し訳ございませんが、我々一般職員には、記載内容の詳細判断ができかねます」
空気が、少しだけ張り詰める。
「この場合、通行許可には私どもの本庁への確認が必須となります」
「……そうですか」
サーペントさんは、静かに頷いた。
その声音は変わらない。
だが……ほんのわずかに細められた瞳に、空気がぴんと張り詰めた。
怒りとも威嚇とも違う何か。目に見えない『ベリミア』としての重圧が、その場に圧し掛かる。
(ヘビさん……)
私は息を呑む。
闘技大会に続いて、二度目だった。彼が、ほんの少しだけ――
『ヘビさんじゃない存在』に見えたのは。
「……も、申し訳ございません。至急確認を取りますので――」
職員がそう言いかけた、その時だった。
「ん~、やっぱ止まったかあ」
場の空気を割るように、間延びした声が横から差し込んだ。
「ローミアさん」
私は振り向く。
そこにいたのは、巨大な黒い甲羅の魔物。
のんびりとした瞳でこちらを見つめる、玄武の片割れだった。
「ロ……ローミア・エルダ様……!」
途端、職員たちの顔色が変わる。
彼らの背筋がぴんと伸びた。
ローミアさんはサーペントさんに目を向ける。
「ごめんねえ。迎えに来たけど、ちょっと遅れちゃったよ~」
「いえ。問題ございませんよ、ローミア様」
短いやり取り。
それだけで、ローミアさんは全てを理解したように小さくうなずいた。
そして、職員へと向き直す。
「実はね、その『サーペント』さんの持ってきた書状、僕も関わってるやつなんだよねえ」
「ローミア様も……、でございますか?」
「うん。ミゼル直々の任務。機密なのも、そのせいなんだよ~」
軽い調子。
でも、その言葉の重みは明白だった。
「で、ですが規定上――」
「うん、分かるよ。人間のひと達って、ちゃんとしてるよねえ」
ローミアさんはのんびり頷く。
そして……ほんの少しだけ、声のトーンが変わった。
「だからさあ」
一歩、前に出る。
その巨体が動くだけで、空気が沈んだ。
「その『本庁判断』ってやつ、――早めに、お願いしちゃっていい?」
数秒の沈黙。
職員の喉が、小さく鳴った。
そして――
「……は、はい。ただいま」
少しだけ怯えた顔で、深く一礼をする職員。
そして書状を別の担当者に渡すと、その人は走ってどこかへ消えていった。
「よかったねえふたりとも。早く聞いて貰えるってさ~」
「…………」
彼女は、あたかも『軽く頼んだだけ』のような調子でそう言った。
でも……その場にいた誰もが、それを『軽い言葉』として受け取ってはいない。
そんな彼女の様子に、サーペントさんの深紫の瞳が僅かに細められる。
だが、次の瞬間には何もなかったかのように、いつもの穏やかな表情へ戻っていた。
◆ ◆ ◆
「……本庁より確認が取れました。商蛇サーペント様の保証、並びに魔王陛下の親書をもって――通行を許可いたします」
「ありがとうございます」
サーペントさんが静かに頭を下げる。
「ありがとねえ」
ローミアさんはいつも通り、軽く前脚を挙げた。
私はサーペントさんの尻尾と手を繋ぎながら、ゲートをくぐる。
背後には、張り詰めていた空気から解放された職員たちの安堵の様子が少しだけ垣間見えた。
『……ロー。アナタ、あのとき職員を威圧しましたね?』
『え~? だってあのままだと時間かかりそうだったじゃん』
ローミアさんは、悪びれる様子もなく首をかしげる。
その仕草はのんびりしていて、どこまでも自然体だ。
『それにさ。あのまま僕がやらなくても、ベルがやってた癖に』
敢えてエリノア語で会話する玄武たち。ローミアさんの言葉に、一瞬だけ空気が止まった。
……サーペントさんは、否定しなかった。
『で、でも、すごかったね、今の。二の矢三の矢の多段構えって感じで』
その空気に耐えられず、私は思わず口を開いた。
『多段構え……ですか?』
『うん、私の入国がさ。ヘビさんの保証と、ユキちゃんの手紙と、ローミアさんの後ろ盾。あと、本庁ってところにも話が通ってそうだったし』
偶然じゃない。最初から全部……準備されていた。
『すべて魔王様が根回しをしてくださったのですよ』
『大げさだなあ。ベルひとりでもなんとかなったでしょ?』
ローミアさんが笑う。
『どうでしょうね』
短い返答。
でも、曖昧に濁した彼の様子に、私は、さっきの一瞬を思い出した。
空気が変わった、あの瞬間。
……もしローミアさんが来なかったら、このひとは、どうしていたんだろう。
あのまま、静かに交渉を続けていたのか。
それとも――
あの時、ほんの一瞬だけ見えた『圧』。
言葉じゃない、もっと別の何かで……この場を、通していたのかもしれない。
……だけど私は、その疑問を口にすることはなかった。
門の向こうには、ノース国の空気が広がっていた。
幼い頃に吸い込んでいた、当たり前の空気。
とても懐かしくて、……けれど、今となっては遠くなってしまった匂い。
私は、そっとサーペントさんの尻尾をぎゅっと握る。
彼に守られている。このひとがいるから、私は前に進める。
でも、なんとなく――
このひとは、まだ何かを隠しているのを感じた。
言葉にはならない感覚。
そんな違和感を胸の奥に残したまま、私は一歩、前へ踏み出した。




