58. 嘘ではなかった日々
「メイちゃん。改めてだけど、よろしくねえ」
玉座の間を出て、扉の前の廊下で私と霊亀ローミアさんは向かい合っていた。
扉の向こうでは、まだ静かに話し声が続いている。
ローミアさんは相変わらずの可愛らしい声でにこやかに挨拶をすると、大きな左の前脚をこちらに伸ばしてきた。どうやら握手のつもりらしい。
「ローミアさん。こちらこそ、よろしくお願いします」
私は大きな爪の一つを控えめに握る。
ゴツゴツとした前脚の、鋭い爪。でも、その感触は不思議と優しさを感じられた。
私が握手に応えると、ローミアさんは満足そうにうなずく。
「改めて、僕はローミア・エルダ。始祖の爬虫類で、こう見えて女だよ~」
のんびりとした声。
その声に、空気が少しだけ緩んでしまう。
……このひと、女性だったんだ。
僕って言ってたから、ずっと『彼』だと思ってた。
「メアリー・フェリシアです。ガルデニアの麓の、オルト村の出身です」
「オルト村ねえ。僕はガルデニアが出身だから、ご近所さんだね~」
ローミアさんとの何気ない会話。私は少し胸がほっこりとした。
ガチャ…… バタン……
少しずつ、城のあちこちから物音が増えてくる。
扉の開閉の音に、ガヤガヤとした誰かの話し声も。
午前八時過ぎ。出勤してきた魔物達が、ぽつぽつと廊下に姿を見せ始めていた。
「ひと増えてきた。まずいねえ」
「何がまずいんですか?」
「ここ五階でしょ? 出勤時間のピークになると、エレベーターが全然来ないんだよね……」
彼女はやれやれといった様子で首を振る。
その会話があまりにも日常的で、少しだけ笑いそうになった。
「ベル、まだ掛かりそうかな?」
そう言って、閉じられた玉座の間の扉へチラリと目を遣るローミアさん。
中では依然サーペントさんだけが残り、ユキちゃんと話している。
「何を話しているのですかね?」
「……さあ、なんだろうね~」
彼女は軽くそう言ったが、……その視線はほんの少しだけ細められていた。
「あの、ローミアさん」
「ん、なあに?」
「ローミアさんから見て、……ヘビさんって、どんなひとなんですか?」
一瞬、聞くかどうかを躊躇した。
……でも、聞かずにはいられなかった。
私の知らない『ベリミア』としてのサーペントさん。
それを、知りたかったから。
「ヘビさん……って、ベルのことだよね?」
「はい」
「どんなひと……って言われるとな~。メイちゃんもよく知ってると思うけれど」
少し考えるように間を置いてから、彼女は言った。
「不器用なヤツだよねえ、ベル」
キィィ…………
すると、玉座の間の扉がゆっくりと開かれた。
重たい音が、静かに廊下へ響く。
私とローミアさんは同時に顔を向ける。
中からは、若草色の大蛇がずるずると滑り出てきた。
「噂をすれば」
「ヘビさん」
私たちの姿を認めると、彼はいつものように静かに頭を下げる。
「申し訳ありません、お待たせしました」
その様子は、私の知るいつも通りのサーペントさんだった。
ローミアさんは彼に対して長い首を少し伸ばす。
「それじゃ、ベル。もう契約破棄で大丈夫かな?」
「ええ、分かりました」
「契約?」
突然出てきた単語を、思わず私は口にする。
「ああ」とサーペントさんはこちらに目を向けた。
「メイちゃん、召喚魔術をご存じですか?」
「うん、昔フィーネさんに教わったよ。一時契約を結んで呼び出すって。……あ」
「ええ、その通りです」
サーペントさんは穏やかな表情を私に向ける。
その様子があまりにもいつも通りで、少しだけ胸が痛んだ。
「僕ね、本当はいまノース国にいるんだ~。大会の間だけ、ベルの被召喚者でこっちに来てただけなんだよ」
「え。丸二日もローミアさんを召喚してたの?」
「ええ」
「ベル、お母様からめちゃくちゃ魔力を受け継いだからねえ」
ローミアさんは楽しそうに笑う。
軽い調子。でも、これがとんでもないことなのは分かる。
「じゃあベル、メイちゃん。また、ノース国でね~」
「……一時契約、破棄」
サーペントさんが呟く。
その瞬間……ローミアさんの姿は、まるで最初からいなかったかのように消えた。
「…………」
それきり、空気が沈黙に包まれる。
さっきまであった温度が、少しだけ引いた気がした。
残されたのは――
私と、サーペントさんだけ。
「…………」
さっきまでは、普通に話せていたのに。
ふたりきりになった途端、言葉がうまく出てこない。
喉の奥が、少しだけ詰まる。
「……ヘビさん」
「メイちゃん」
同時に声が重なる。
そのことにお互い少しだけ驚いて、口を閉じる。
短い沈黙……先に口を開いたのは、彼だった。
「……申し訳ありません、メイちゃん。……ワタシは決勝で、アナタの、骨を」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
そして、謝罪をするように長い首を下げる。
……違う。そうじゃない。
「……そうじゃない、でしょ」
私は小さく首を振った。
私が欲しかったのは、……そんな言葉じゃない。
「巻き付かれたことは……もう、いいんだよ」
「…………」
彼は何も言わなかった。
窓から差し込む朝の光が、床に細長く伸びている。
「それより……なんで、ヘビさん」
言葉が少し震える。
「どうして正体を……隠してたの」
「……ごめん、なさい。メイちゃん」
「謝らないでよ!」
思わず声が強くなる。
自分でも、感情を抑えきれなかった。
「別に……謝って、ほしいわけじゃ……ないんだよ……」
一転、声が崩れる。
自分でも、さっきまで保っていた感情、情緒が、崩れていくのが分かった。
「ヘビさんの、ことだからさ……。きっと、何か理由があるんでしょ」
目の奥に熱いものが込み上げる。
「だけど、私……」
みるみるうちに視界が滲む。
ユキちゃんに育てられたから。私も……あのひとに似て、泣き虫に育った。
「今までヘビさんと一緒にいた日が……嘘だったなんて。……思いたく、ないんだよ……」
言葉にすると、余計に苦しくなる。
お菓子をくれて、いろいろな世界の話をしてくれた日。
昼間から店で、お父さんとお酒を飲んで談笑していた日。
一緒に行ったおでん屋さんで、店の在庫の卵をひとりで食べ尽くした日。
その日々が、すべて偽りのものだったなんて……思いたくなかった。
「…………」
シュルッ……
足元にそっと何かが触れる。
見ると、それはサーペントさんの尾だった。
昔と同じ、何気ない仕草。それだけで、胸の奥が揺れた。
「メイちゃん」
彼は静かに続ける。
「……理由は、あります。ですが、メイちゃんを騙すためではありません」
彼はゆっくりと顔を上げる。
……その深紫の瞳は、今度は逸らされることなく、真っ直ぐと私を見据えた。
「頼まれたのです。アナタを大切に思う、ある方から」
「…………」
「どうか、アナタの成長を、見守ってほしいと」
「それって……」
その言葉で、すぐに分かった。
「ユキ、ちゃん……?」
「…………」
魔王となるため、ガルデニアを離れなければならなかった、私の白鱗の親友。
サーペントさんは、否定しなかった。
「でも、それなら……そう言ってくれれば、良かったじゃん……」
声が弱くなる。
事情を言ってくれれば、……こんなに、辛い思いをしなくてもよかったのに。
「……ミゼル様は魔王となった。原初のワタシは、魔王の工作員で……いわば側近です。そんなワタシたちに囲まれていたら……アナタはきっと、普通の人生を歩めなくなってしまう」
爬虫類の彼の、淡々とした説明だった。
「だからワタシは霊蛇ベリミアとしてではなく、普通の『ヘビさん』として。……メイちゃんの隣に居たかったのです」
でも、彼と長く過ごしてきた私には、……その奥にあるものが、ちゃんと伝わってくる。
「ですから。……メイちゃんと過ごした日々だけは、一度も嘘はありません。……それだけは、どうか信じてください」
――その一言で。
ついに、目の奥の熱いものが、決壊した。
止まらない。それは私の目から、止めどなく零れ落ちる。
「……バカ……」
私は、絞り出すように言った。
「そんなの……」
涙を拭いながら、無理やり笑おうとする。でも、うまく笑えない。
「そんなの最初から、……普通の『ヘビさん』じゃなかったよ」
「そう、でしたか……?」
彼が、少しだけ目を丸くした。
「大きな毒蛇が、村にやって来て。騒ぎになったけど、優しくお菓子をくれて、頭を撫でてくれて」
「家に帰るとお父さんとよくお酒を飲んでて。おでんの卵だけ何個も食べて」
でも、楽しかった日々を思い出すたびに、自然と少しだけ笑えてくる。
「そんなヘビさん、普通なわけ、ないじゃん……」
私がそう言うと、彼もふっとほんの少し表情をほころばせた。
「……それでもさ」
私は、彼の目を真っ直ぐと見据えた。
「そんな普通じゃないヘビさんでも、私は、大好きだったんだよ」
言葉にするのは、少しだけ恥ずかしかった。
でも、ちゃんと口にして伝えたかった。
「……玄武の霊蛇でも、原初のベリミアでも。ヘビさんはヘビさんでしょ」
長い沈黙、静かな時間。
やがて、彼は、小さく息を吐いた。
「……困りました。ワタシはもっと嫌われることを覚悟していたので、どんな反応をすればよいか――」
その表情は、まるで肩の荷が下りたように、どこか軽くなっていた。
いつもの、不器用な笑顔。
「でもね。……やっぱり今まで黙ってたのは、ずるいよ。ヘビさん」
私は、わざとらしく頬を膨らませる。
サーペントさんは少し困ったように笑った。
「……ええ。ワタシは、ずるい蛇です」
「だから……もう、嘘を吐かないで」
私はそう言うと、彼の大きな口元に指を当てた。
「今度嘘をついたら、ユキちゃんにも怒るから」
その言葉に、彼はほんの少しだけ目を細めた。
「……ええ」
そして彼は、静かな声でつぶやく。
「その時は、ワタシも……」
「一緒に怒られることにしましょう」




