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作者: 音夢
掲載日:2025/10/04

仕事帰りの夜道、ふと目に入った赤い提灯。

その灯りに引き寄せられるように入った小さな居酒屋で、

一人の男が少しだけ、自分の心と向き合う物語です。


誰かと話すでもなく、ただ、焼ける音や酒の匂いに包まれながら、

ほんのわずかに温かくなる――そんな瞬間を描きました。


忙しさの中で「自分の声」が聞こえなくなった人へ、

この短い夜が、少しでも灯りになりますように。

会社を出たのは、終電にはまだ早いが、

家に帰っても特にやることがない、そんな時刻だった。


風が少し冷たくなってきた秋の夜。

駅を出て、いつもと違う道を歩く。

コンビニの明るすぎる光がやけに目に痛くて、

ふと、暗い路地へと足を向けた。


駅前の明るい通りを外れ、路地に入ると、

赤い提灯がひとつ、風にゆらゆらと揺れていた。

「やきとり 灯」

古い木の引き戸。

暖簾の隙間から、炭火の香ばしい匂いが漏れてくる。


初めての店だ。

でも、その匂いの奥に懐かしさを感じた。

男は一度通り過ぎようとして、足を止めた。

そして、小さく息を吐いて暖簾をくぐった。


中は、想像していたよりも明るかった。

奥のテーブルでは三人連れのサラリーマンが笑い声を上げ、

グラスがぶつかる乾いた音が響いている。

テレビではプロ野球のダイジェスト。

それでも、この店にはどこか静かな温もりがあった。


「いらっしゃいませ」

カウンターの向こうから、白い割烹着の女将が顔を上げた。

五十代半ばほどの穏やかな笑み。

「おひとりですか?」

「ええ……通りすがりで」

「どうぞ、空いてるとこどうぞ」


木の椅子に腰を下ろすと、

手元のカウンターが少しべたついているのが分かった。

その生活感が、なぜか落ち着いた。


「ビールください」

「はい」


ジョッキを受け取り、一口。

冷たさと苦味が喉を通り抜ける。

背中の方では笑い声が続いている。

「おまえ、また部長に怒られてさぁ!」

「ははっ、そりゃおまえが……!」

その声を聞きながら、

男は、遠い世界を覗いているような気がした。


「お通しです」

女将が出したのは小皿の冷や奴だった。

葱の香りと、醤油の塩気が優しく舌に残る。

「焼き物、何にしましょう」

「じゃあ……ねぎま、ハツ、あとつくねを」

「はーい」


炭のはぜる音が、心地よく続く。

そのリズムに合わせて、男はタバコに火をつけた。

煙が上にゆっくり昇り、天井の蛍光灯の光に溶けていく。

ぼんやり眺めながら思う。

あの笑い声の輪の中に、自分もかつてはいた。

それがいつの間にか、遠くなった。


「お待たせしました」

串が皿に置かれる音。

焦げ目のついたねぎまから立つ香りが、

まるで“人の暮らし”そのもののように温かかった。


一口食べる。

外はカリッと、中は柔らかい。

その瞬間、今日一日で初めて“生きてる”気がした。


「いいお味ですね」

「ありがとうございます。炭がいいんですよ」

女将は軽く笑って、火の具合を確かめた。

「この辺、店少ないですしね。駅のほうばっかり賑やかで」

「そうですね。……静かな方が落ち着きます」


会話が途切れ、また炭の音が戻ってくる。

背後の笑い声がふと途切れ、グラスがテーブルに置かれる音。

それが妙に大きく響いた。

孤独というのは、静けさではなく、

誰かの賑わいが届く距離にいることなのかもしれない。


タバコの火が短くなり、灰皿に押しつける。

「ごちそうさまでした。……美味しかったです」

「ありがとうございます。また来てくださいね」


勘定を済ませて店を出る。

外は少し冷えてきていた。

振り返ると、赤い提灯がやわらかく揺れている。

店の奥から、笑い声と焼ける音がまだ聞こえていた。


その音を背にして歩き出すと、

胸の奥に、わずかな温もりが残っていた。

それは、炭の火のように小さく、けれど確かに灯っていた。

この物語を書きながら、

「孤独は、静けさではなく、他人の笑い声が届く距離にある」

という一文が、頭から離れませんでした。


人は誰しも、誰かの光を遠くで見ながら生きている。

それが痛みであり、同時に優しさでもあると思うのです。


男が感じたあの夜の温もりが、

もし読んでくれたあなたの胸にも、

ほんの少しでも灯ったなら、それが何よりの報いです。

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