第8話「正解を探し続ける一真」
深夜、風はすでに眠っていた。千彩市の空には月が浮かんでいるが、その光さえ街の色を塗り替えることはなかった。暗いわけでも明るいわけでもない、どこか曖昧なグレイの世界――まるで、悩みの底に沈んでいるかのような夜だった。
日葵は、カバンを提げたまま、一真の家の前で立ち止まった。
ピンポン、と押したインターホンの応答はない。代わりに、玄関脇の二階の窓が開いた。
「入っていいよ、鍵かかってないから」
少し掠れた声。そこには眠気ではなく、むしろ過集中で眠ることを忘れた人間特有の張り詰めた空気が混ざっていた。
彼女は「おじゃましまーす」と小声でつぶやいて家に入った。廊下から階段、そこから真っ直ぐ二階の奥――一真の部屋。
ドアを開けると、そこだけ別世界のようだった。
部屋の灯りは消えていて、唯一の光源はディスプレイから発せられる青白いモニタの光だけ。その光が机に置かれた紙の束や、部屋の壁に貼られた手描きの回路図やメモにぼんやりと影をつくっている。
椅子に座る一真は、肩まであるデータ表を食い入るように見つめ、口元をぎゅっと結んでいた。
「来たんだね」
振り返ることなく、彼は言った。
「……どうせ来ると思ってた。君が僕の言葉を気にするタイプだって、知ってたから」
「うん……。放課後、『答えが出ないなら意味がない』って、言ってたから」
「意味、ないよ」
一真はポツリと吐き捨てるように言い、椅子の背にもたれた。目の下に薄いクマができている。まぶたは重そうなのに、思考だけがひたすら働き続けている。
「僕、もう三時間、データばっかり見てる。千彩市の色消失パターン、無彩核ってワードの記録。Googleでヒットしない単語を、逆引きで古文献まで調べた。でも、どれも決定打がない」
「決定打……って?」
「論理的なつながり。説明できる原因。つまり“正解”だよ」
彼は語気を強めることもなく、ただ当たり前のように言った。どこか冷たい理性に支配されたようなその目に、日葵は不意に寒さを感じた。
彼は“感情”を置き去りにしてしまっている。
――そんな感じがした。
日葵は恐る恐る、机の隅に目を向けた。そこにはびっしりと文字が書かれたノート、色のないマーカー、そしてその隣に置かれた自作の計算式メモが何枚も並んでいる。
「でも……正解って、ほんとに一個なのかな?」
「ひとつじゃなきゃ、答えじゃない」
バシッ、と彼は自分のノートのページをめくった。日葵はその音に小さく肩をすくめる。
「この世界で起きてる異常を、“心の色が消える”とか“桃色の光で戻せる”とか、そういう曖昧な言葉で解釈してたら、何も解決しない。君の力だって、再現可能性を調べなきゃ、戦力として不安定なんだ」
「……じゃあ、わたしが感じてることも、ぜんぶムダ?」
その言葉に、一真の手が止まった。
彼はゆっくりとディスプレイの電源を切った。青白い光が部屋から消え、夜の暗さがいっそう濃くなる。その中で、わずかに残る光――日葵の手元から、ほんの微かににじみ出ていた。
桃色の光。
心の奥に小さく灯っていた想いが、彼女の指先を柔らかく照らしていた。
「……きれいだね」
一真は、わずかに目を細めた。
「それって、今のわたしにも意味あるってこと?」
問いかけるように日葵が光を見つめると、一真は少しのあいだ沈黙した。
「――意味があるかは、君が決めることだ」
「でもさっき、“意味ない”って言ってたよ」
「僕の理屈では、ね。だけど……たぶん、それが今の僕の限界なんだと思う。僕の『正解』の定義じゃ、君の光を完全には説明できない」
一真の言葉は、思っていたよりも素直だった。冷たい分析の言葉ではなく、どこか自分自身に向けたつぶやきのような響きがあった。
彼は自分のノートを閉じた。そして、その上に手を置いたまま、ぽつりとこぼす。
「……僕、ずっと怖かった」
その言葉に、日葵は息を呑む。
「“正解を見つけられなかったら、僕の存在って何なんだろう”って。努力して、調べて、整理して、理論を立てて、そうやって自分の価値を証明しないと、僕は僕でいられない気がしてたんだ」
それは、日葵にとって衝撃的な言葉だった。
だって、自分と同じじゃないか。
“短所ばっかり気にして、自分を好きになれない”。
日葵の中の痛みと、一真の告白は、どこかで静かに重なっていた。
「じゃあさ」
日葵は、一歩前に出て、彼の机の前に立つ。
「“正解じゃない”答えが、いっぱいあるのって、逆に面白くない?」
「……面白い?」
「わたしさ、学校で“正しい答え”ばっか探してたときは、何やっても自信なかった。でも今、あの桜の木とか、トラックの白線とか、ぜんぶ“正解じゃないけど大事なもの”だったなって思うんだ」
日葵の言葉に、一真のまぶたがゆっくりと伏せられた。
「……じゃあ、仮説にしよう」
彼はそっと目を開けた。
「“正解じゃない答えも、意味を持つ可能性がある”っていう仮説」
そして、静かに立ち上がった。
「君と一緒に、試してみたい。理屈じゃない答えが、どこまで通用するのかを。新しいアルゴリズムを組むみたいに、ね」
そのとき、日葵の指先の光がわずかに強くなった。
まるで、一真の心がわずかに開かれた瞬間を感じ取ったかのように。
「ねえ一真」
「ん?」
「さっきのモニタの青い光と、わたしの桃色の光。どっちもすっごくきれいだったよ」
それは、日葵なりの答えだった。
“色は、正解かどうかじゃなくて、心がどう感じたかで決まる”。
一真は、照れくさそうに鼻をこする。
「じゃあ今夜は、心で答えを出す練習、してみようか」
「いいねっ」
二人の手元に、青と桃の光が交差する。
その光は少しずつ混ざり合い、やがて、薄紫のような柔らかな光を部屋に灯した。
その夜、一真の部屋には、ふたりの光が交じり合った。
彼の部屋に置かれたホワイトボードには、これまでのように「事実」と「根拠」だけでなく、「気づき」や「感情」といった、これまでなら切り捨てていた要素も、カラフルなマーカーで書き込まれていった。
「“感情の色”っていう概念、論理的には説明不能だ。でも観測できる。なら、条件を整理すれば、仮定として成立するはず……」
一真の目が輝いていた。先ほどまでの青白いPCモニターに映るデータと、日葵の指先の光が、相互にリンクするように並べられている。
日葵はというと、壁に貼られたたくさんの地図やマップのひとつを指差しながら、無邪気に言った。
「ここさ、“感情の色”で塗ったら、すごくきれいな虹になりそうじゃない?」
「……そんな地図が、作れるといいね」
ふいに、そんな言葉が一真の口からこぼれた。
それはまるで、これまでずっと彼の中に押し込めていた“夢”のような響きだった。
そのとき、PCの画面がピコンと点滅した。
「……異常値?」
一真がすぐに操作する。浮かび上がったのは、街の中心部のデータ。さきほどまで安定していた「感情反応」の数値が、急激に減少していた。
「無彩化が、また進んでる……!」
緊張が走る。
でも、そのときの一真の顔は、どこか晴れやかだった。
「行こう。今度は、仮説と感情、両方持って」
「うんっ!」
二人は立ち上がり、青と桃の光をまとい、夜の千彩市へと駆け出した。
感情は、数式にはならないかもしれない。
けれど、それでも確かに“在る”。
そんな不確かな答えこそが、人の心に色を灯すのだと、一真は少しだけ思えるようになっていた。
そしてそれは、彼がずっと探していた“正解”とは違うかもしれないけれど――
間違っていないと、思えたのだった。
第8話 完