第7話「心で理解する香穂」
夕暮れが美術室を包み込むと、窓の外に伸びる校舎の影が、ゆっくりと教室の中へ侵食してくるようだった。
誰もいない放課後の美術室は、静かだった。乾きかけた粘土の匂いと、絵の具のかすかな酸味。それらが混ざって、日葵は少し鼻をくすぐられた。
窓際の席、そこに香穂が座っていた。彼女の前には真っ白なキャンバスがある。いや、“真っ白”ではない。もはや色を拒むような、どこか虚ろな白――陰彩によって色が奪われたキャンバスだ。
香穂はじっと、動かない。
「香穂……?」
声をかけても、すぐに返事はなかった。
日葵がそっと近づくと、香穂の右手に握られていた筆が、かすかに震えているのが見えた。
「筆、動かせないの?」
ようやく、香穂が首をかしげた。否定とも肯定ともつかない、あいまいなジェスチャー。
「……なんか、ね。今日は“感じられない”の」
それは、香穂らしい答え方だった。
彼女は、論理や計画よりも、心のリズムや感覚で動くタイプだ。美術部でも、先生に「狙って描いてないのに不思議と構図が良い」と言わせたほど、“感じ取る力”で絵を描いている。
でも今、その“感じる”こと自体ができなくなっているのだ。
香穂がもう一度、空っぽのキャンバスに目を落とす。
「ねえ、ヒナ。色って、どこから来るんだろ」
「え?」
「心から? 目から? それとも、空気?」
日葵はうまく答えられなかった。問いかけはまるで詩のようで、それでいて、現実的な切実さもあった。
「さっき……後輩の子がね、泣いて帰っちゃった。自分の描いた背景が、朝見たときよりグレーになってて。『なんで?』って訊かれたけど、私……何も言えなかった」
香穂の声が、少しずつしぼんでいくようだった。大丈夫なふりをしていても、内側では葛藤が渦巻いているのが分かった。
日葵は思わず香穂の隣に腰を下ろした。
「私さ、こういうの……よく分かんないけど。なんか、分かる気がするよ。うまく言えないけど……あの桜のときみたいに、色が“いきなり消える”って、すごく怖いよね」
香穂はふっと笑った。けれど、その笑顔に色はなかった。
「日葵は……まだ、“色”を出せるんだよね」
「う、うん。なんとか。でもね、ちゃんとコントロールはできない。気持ちとつながってるから、いつもぐちゃぐちゃで……」
言いかけて、自分でも笑ってしまった。
「でも、香穂の“感覚”も、色とつながってるんじゃない?」
香穂は少し目を見開いた。そこで何かを思い出したかのように、立ち上がると、すっとロッカーの奥から古い絵の具パレットを取り出してきた。
木製の、それなりに使い込まれたパレット。色の名前が消えかかっていて、ところどころ絵の具が乾燥してひび割れている。
だが――そのどれもが、今は“灰色”だった。
「これ、初めて絵を描いたときに使ったやつ。小一の頃」
香穂は、それを日葵に見せながら、小さく言った。
「これ、どうしても捨てられなかったの。私、絵を“見て描く”ってより、“心で描く”方がしっくりくるって気づいた、最初の道具だったから」
灰色になってもなお、そのパレットは、香穂にとっての“原点”だった。
日葵はしばし黙った。
そして、決めた。
「じゃあさ――そのパレット、ちょっとだけ貸して?」
香穂がきょとんとしたまま差し出したパレットを、日葵はそっと両手で包み込んだ。
「色……戻って。お願い。香穂が、感じられるように……!」
指先に力が入った。胸の奥が、わずかに熱くなる。
次の瞬間――
光が走った。
――ひら、ひら、ひらり。
小さな光の粒が、パレットの表面からこぼれ落ちていった。色が戻った、というより、そこに“感情が再起動した”ような印象だった。
桃色の光。日葵の感情の色。
しかしそれは、ただピンク一色ではなかった。ほんのわずかに、他の色も混じっている。
淡い空色。やさしい緑。こっそり顔を出した橙。
――香穂が日葵といるときに感じていた「安心」「好奇心」「共鳴」……それらの記憶の色が、少しずつパレットにしみ出すように浮かび上がっていた。
香穂は驚いた表情のまま、それを見つめていた。
そして、言葉ではなく、指先をそっと伸ばして、ひとつの色の粒を拾い上げた。
「……これ。たぶん“あのとき”の緑だ」
「“あのとき”?」
「去年、美術部の発表で、ステージ背景に森を描いたとき。構図決めに悩んでて、ヒナがうっかり転んで絵の具ぶちまけたでしょ? でも、偶然できた飛沫が、すごく……いいバランスだったの」
「あっ……あれ、やっぱり怒ってた?」
「ううん。あのとき私、“完璧”じゃなくて“発見”の方が大事だって、心で感じられた」
香穂が微笑んだ。
パレットからは、色の粒がゆっくりと立ち上がり、浮かび上がったそれらは、空中で揺れていた。
「――ねえ、ヒナ。もう一回、感じてみる。私、“感覚”を閉じてた。色が見えないことばかりに囚われてて」
香穂が、呼吸を整える。
深く吸って、静かに吐く。
そのリズムに合わせて、彼女の手が動いた。
筆先が、まだ無彩のキャンバスに触れた瞬間――風が吹いたような錯覚を、日葵は感じた。
光じゃない。でも、確かに“何か”が走った。
香穂の手元から、細く、うっすらとした線が伸びていく。まるで、風がふわりと撫でたときの、草の揺れのように。
まだ色は見えない。だが、形が生まれた。
「これ、“感覚”だけで描いてる?」
「うん。“頭”じゃない。“気配”とか“心拍”とか……ヒナの鼓動、聞こえるよ。リズムで、色の場所が見える気がする」
筆が、ふたたび動く。
今度は、さっきよりも少し勢いがあった。まるで自分のなかに小さな春風を吹かせるように。線が、かすかに膨らみ、枝となり、葉を生み出すような構成になっていく。
「香穂、それって――」
「色じゃなくて、感じ方を信じてるだけ。でもね、ヒナがいてくれるから、“思い出の色”が、ちょっとずつ浮かんできたの」
日葵の胸に、ふわりとした温かさが広がった。
自分が誰かの“感覚の再起動”になれたことが、くすぐったくて、それでもうれしくて――
その気持ちが、また桃色の光となって、ふたたび空間に溶け出した。
それは、絵の具の粒のように舞い上がり、香穂の描くキャンバスの周囲をくるくると踊った。
――色のない世界で、“感じる”ことだけが、色を呼び戻していく。
それを、今、日葵と香穂は確かめていた。
香穂の筆が動くたびに、何かがそこに宿っていくような感覚が、日葵にはあった。
形は曖昧なのに、伝わってくる感情だけははっきりしている。暖かくて、やさしくて、でもどこか、ふるふるとした不安を孕んだ色。
「……こういうの、描いてるって言えるかな?」
香穂がつぶやいた。
その筆先には、淡い水彩のような線が連なり、輪郭を結ばないまま、けれど確かに“心の絵”を作り上げている。
「うん、ちゃんと描いてるよ。香穂の心、ここにあるもん」
日葵がそう答えると、香穂の唇が、ほんのすこしだけ緩んだ。
「よかった……ほんとに、よかった……」
小さな声が、静かな部屋にしみていく。
そして――。
突然、空気の温度が変わった。
窓の外から、風が吹き込んだわけでもない。誰かが入ってきたわけでもない。なのに、空間が冷えるような、ぞわりとした気配が走った。
日葵が反射的に後ろを向く。
――いた。
あの、灰色の気配。
床に落ちていた色の抜けた画用紙が、ふっと浮き上がり、空中でぼろぼろと崩れていく。
「陰彩……!」
日葵が構えようとするより早く、その“影”は、香穂の描いた絵の上ににじり寄っていた。
空気がぐにゃりと歪んで、描きかけのキャンバスが――まるで“無音の悲鳴”をあげるように、少しずつ白くなっていく。
「だめ……!」
香穂が走り出す。
自分の絵が、色を失う様子に、彼女の身体が勝手に反応していた。日葵も遅れて飛び出す。だが、影は容赦なく、絵の中心へと迫っていった。
筆で描かれた風のような線。感覚で引いた温度のある輪郭。香穂が再び信じようとした“心の色”――。
それが、また消えてしまう。
「いやっ!!」
香穂が叫んだ。
次の瞬間――。
キャンバスが、ぱあっと光った。
それは、日葵の光ではなかった。
香穂の胸元から、淡い淡い、けれど確かな光が放たれていた。
色でいえば、薄い薄い桃色に、青磁のような緑が混じっている。
それはまさに、“香穂の心の光”。
「……でた、の……?」
香穂が自分の胸に触れる。そこから放たれた光は、ふわふわとキャンバスの周囲に散り、陰彩の気配を押し返していった。
日葵が思わず息を飲む。
香穂の光――それは、感覚で物事を捉える彼女らしく、色の粒が拍動していた。はっきりした色ではなく、“感情の重なり”のような色彩。
その光が、キャンバスに戻り、再び線が浮かび上がっていく。
今度は、前よりもくっきりと。
柔らかな桃、にじむ藍、そして空気のように透ける緑。
「ヒナ……私、描けたかも」
香穂の声は、どこか泣き笑いだった。
色のない世界の中で、彼女が取り戻したのは、“感じる”という勇気だった。
階段を駆け上がる音が、午後の静寂に小さく響いた。
屋上へ続く鉄扉は、押すとややきしんだ音を立てながら開く。夕焼けに染まる空が、まるで別世界の入り口のように広がっていた。
香穂は、柵の近くに腰を下ろしていた。制服の上着を脱ぎ、風にあおられる髪を片手で抑えながら、何かを見つめている。視線の先にあるのは、破かれたスケッチブックだった。ページの一部は切り取られ、薄くなった紙片が、風に乗ってときおりふわりと舞う。
「……香穂?」
呼びかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返る。その目は、どこか虚ろだった。
「絵が、描けないの。色が……もう、わからなくなっちゃった」
その言葉に、日葵の胸が締めつけられる。香穂は、感覚で世界を理解する子だった。音や匂い、触れた感触——そういうものを、色や線に変換してキャンバスに映すタイプの画家。
その彼女が、「色がわからない」と言っている。
香穂の隣に座る。冷たいコンクリの感触が制服越しに伝わってきた。日葵は、風に揺れる一枚の紙切れを追いかけ、そっと手に取る。そこには、かすれた鉛筆線が残されていた。輪郭を途中まで描いた少女の顔——だが、瞳の部分が濃く塗りつぶされている。
「見えないんだよ、今は……何も。あたし、ずっと“感じる”ことで絵を描いてきた。でも、今は、色も、鼓動も、呼吸すら……全部が遠くて、怖いの」
香穂は、そう言って膝を抱えた。夕陽が彼女の横顔に差し込み、わずかに赤みを帯びる。
日葵はしばし黙っていたが、ふとあることを思い出す。
「ねぇ、香穂……“光譜術”って、感情を“光”に変える力なんだよね」
「……うん、そう聞いた。でも、それがどうしたの?」
「だったら……“色”を感じられなくなった時でも、誰かの感情を借りて、もう一度“見える”ようにできるんじゃないかなって、思ったんだ」
そう言って、日葵は立ち上がる。そして、ポケットから取り出したのは、先ほど拾った香穂の筆——木軸に少しだけ色のしみが残っている。それを、ゆっくりと両手で握りしめると、彼女の胸元から、ふわりと桃色の光が舞い上がった。
「この光は、私の気持ち。香穂が大事で、笑っててほしいって、そう思う気持ち。……これで、“描いて”みて?」
香穂は戸惑いながらも、その筆を受け取る。
……そして、信じられないような出来事が起きた。
筆先に、確かに“色”が宿っていた。絵具をつけていないのに、筆の先端には、淡い薄桃色の光がまとわりついている。そしてその瞬間、香穂の目が見開かれた。
「……感じる、鼓動が……日葵の心臓の音が、色になってる」
そう呟いた彼女の頬に、風が当たる。紙切れがまた一枚、ふわりと宙を舞う。香穂はその紙を拾い上げ、しゃがみこむと、キャンバス代わりにその紙の上へ筆を走らせた。
線が生まれる。色が乗る。リズムを持ったその筆の運びは、まるで音楽を聴いているかのようだった。
「これ、私だけじゃ描けなかった絵だよ。……日葵の気持ちがなきゃ、たぶん、ここにはたどり着けなかった」
香穂の言葉に、日葵はそっと笑った。
「うん。でもね、私も、香穂がいたから、自分の気持ちを“色”にできたんだと思う」
その瞬間——
空に、ひとひらの光が浮かんだ。
絵の具でもペンキでもない、まるで花弁のような“光の欠片”が、香穂の筆から生まれた。それは、七分割されたパレットのように、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫——いや、日葵の“桃色”も混じっていた。
風に揺れるその光は、屋上の夕焼けと溶け合い、まるで春の終わりを祝うように舞い上がる。
絵筆からこぼれた七色の光は、ただの発光現象ではなかった。
それは“感覚の再起動”だった。
香穂の瞳が揺れる。先ほどまで虚ろだったその視線が、いまは確かに“何か”を捉えている。風のにおい。雲の流れ。日葵の呼吸。――全部が「色」に変わっていく。
「これ……感じる、ちゃんと。音が、香りが、光に変わってく」
彼女の指が、スケッチブックの切れ端を繋ぎ合わせるように次々に拾い集めていく。拾った紙には、その場で日葵の感情に反応した光が浮かび、仄かに発光する。
香穂はそれを並べて、即興の“パレット”を組み上げた。
「ねぇ、これ見て。七つの色……じゃない。これは、“七つの心”」
「……え?」
日葵が戸惑う。その手元には、桃色の光の小さな火花がまだ宿っていた。それは彼女の心臓の鼓動と重なって、ふるふると震えている。
「日葵の“桃”。私の“緑”……。玲央の“青”、優奈の“金”、虎太郎の“橙”、理絵の“赤”、そして――泰雅の“藍”」
香穂は筆をとめ、深呼吸するように言った。
「私、思い出した。色は“自分の中”から生まれるんじゃなくて、誰かと“ふれあった時”に生まれるってこと。……だから、ひとりで感じられない時は、誰かの“心”を借りればいいんだよね」
日葵の胸に、小さな何かが落ちた気がした。
香穂はそのまま立ち上がり、風に乗せて残りの紙片を空に放る。まるで散華のように、色と形の断片が空に舞う。その中を、香穂の筆が、まるで舞うように動いた。
描かれたのは、風景だった。
まだ完成ではない。だが、その一枚には「混ざった色」が存在した。
夕暮れの空が、日葵の“桃”と重なり、薄紅色に滲む。柵の向こうの夕日が香穂の“碧”を吸い、遠くまで静かに光る。紙片たちが次々に色を帯び、空間全体が“絵”になっていく。
「ここが、“私のキャンバス”。……感覚じゃない、心で描いた“世界”」
風が止む。だが空気が揺れているのがわかった。絵の中の空と、実際の空が重なって、境界線がにじむ。
「私、これからも描いていく。“感じる”ためじゃなく、“共にある”ために」
香穂が、日葵の手を取る。
その瞬間、二人の手の間から、ほのかに光が生まれた。いつもよりも柔らかく、でも確かに“あたたかい”光。
「ありがと、日葵。あたし、あんたがいたから、また描けた」
「ううん……私のほうこそ、ありがとう。香穂がいたから、自分の気持ちを“伝えたい”って思えたんだ」
その言葉に、ふたりの間に光のパレットが浮かぶ。
桃と緑が、まるで呼吸を合わせるように淡く揺れ、空に向かって弧を描いた。
その日、日葵は“色”を使って誰かの絵に色を戻した。
けれどそれ以上に――。
彼女自身の中にも、静かに、確かに“色”が戻っていたのだった。
香穂と別れたあと、校門を出たときにはもう空は群青の手前。街灯が一つ、二つとともり始めていた。けれど、日葵の胸は不思議なほど明るかった。
絵の中に、日葵の“光”は生きている。それが、自分が「誰かの助けになった」証だった。
「また、明日……会おうね」
そうつぶやいて、日葵はポケットの中の小さなスケッチブックの切れ端に指をあてた。そこには、香穂が手渡してくれた、彼女自身が描いた“未完の虹”の一部がある。
まだすこしだけ、光っていた。
* * *
その夜。
千彩市の上空に、ふっと一瞬、光のしずくのような何かが流れた。
見上げる人は少なかった。けれど、それを見た者は決して“偶然”とは思わなかっただろう。
――心で、見ていたからだ。
香穂はその後、美術室のロッカーに向かって、白紙のキャンバスをひとつ置いた。その真ん中に、日葵の“光”を元にした柔らかな薄桃を一筆だけ残して、そっとささやいた。
「感じるより前に、あなたと“出会った”んだって思う」
そのキャンバスは、彼女の机の上で静かに光を帯びていた。
* * *
次の日、放課後。
旧音楽室で集まった七人の前で、泰雅がひとこと、「チーム名を決めよう」と言った。
「“セブンコア”ってどう?」
「……え、アニメの必殺技名みたいじゃない?」と理絵が肩をすくめる。
「逆にかっこいいかも!コアって、核、だよね?みんなが色の“核”なんだよ!」と虎太郎が珍しく興奮して手を振った。
「理にかなっている。核が、心ならば、色はその振動だ」と一真がうなずき、玲央も小さくうなずいた。
優奈が目を閉じて、「私は、賛成」と一言。
香穂が「面白い響きだね。色じゃなくて、心を指してるんだ」と口にした。
最後に、日葵はみんなを見回して、こう言った。
「……じゃあ、“セブンコア”。うん、私たちらしいと思う!」
こうして、“七人の光の核”が、正式に結成された。
その名は――
〈セブンコア〉。
街の色が奪われるその前に、“心の色”を守るための、七色の物語が、本格的に動き出した。
けれど、誰も知らなかった。
その瞬間、街の片隅――商店街の路地裏に、またひとつ、“色の抜けたモノ”がそっと現れていたことを。
看板の影で、モノクロの影が、すっと身を細めるように揺れた。
“陰彩”は、静かに侵食を続けていた。
(第7話 了)