第6話「激辛麻婆豆腐と理絵の孤独」
千彩中の購買前は、昼休みが始まった途端、まるで開戦のゴングが鳴るようにざわめきに包まれる。
「うわっ、パンもう半分売り切れてる!?」「えっ、カレーパン終わり!?」「やだー!サンドしかないじゃん!」
教室から飛び出した生徒たちが、小さな売店前にわらわらと群がり、我先にと並ぶでもなく押し寄せる。日葵はその群れの後方で、小さく腕をすり合わせながらため息をついた。
「まただよ……。購買、なんでこんなに戦場なんだろ」
食堂は無彩化の影響で、先週から臨時閉鎖中だ。温かいごはんは出せない、汁ものも味がぼやける、食器がモノクロで異様な見た目になる。――そんな理由で、生徒たちは唯一開いている購買に殺到していた。
とはいえ、その購買にも「色の異変」は忍び寄っていた。
ポスター、パンの包み紙、ドリンクのラベル。すべてが、くすんだ灰色か、色素の抜けたような白茶けた印象に変わっていた。
「……味も、前より薄くなってる気がするんだよなぁ」
日葵は、手に取った「メープルフレンチトーストパン」のラベルを見つめながらぽつりとこぼした。
すると、隣から声がした。
「……パンの味なんて、元からあってないようなもんでしょ。とくにメープル系とか」
「えっ……?」
声の主を見て、日葵は目を丸くした。
白く長い前髪に隠れた片目。クールな立ち姿。周囲のどの集団にも混じっていない。
――間違いない。彼女は、理絵だった。
理絵・二年三組。
購買でいつも激辛系を頼み、校内で一人「地獄唐辛子の使徒」なんて渾名を持っている生徒。
誰かとつるむ様子もなく、必要なこと以外はあまり話さない。
「え、えっと……理絵さん、ですよね」
「そうだけど?」
理絵はパンの列から、真っ赤な包みの麻婆パンを無言でつかむ。今の時期、売店で売っている唯一の“激辛”カテゴリーだ。
「それ……。まだ売ってたんだ……」
「二個、残ってた。あなた、欲しかった?」
「い、いや、私はちょっと……甘いのが……好きで……」
そう答えながら、日葵は彼女が手にした“麻婆パン”に目を奪われた。
赤い包み紙には、本来ならば燃えるような唐辛子のイラストがプリントされていたはずだ。けれど、それもすっかり色あせ、もはや「熱そう」な雰囲気はどこにもなかった。
その時だった。
購買の奥から、売店のおばちゃんの怒り声が響いた。
「ちょっとアンタたち!勝手にポスターはがさないでって言ったでしょ!」
「だって、もうこの色、気持ち悪いじゃん! 灰色のラーメン写真とか、マジで食欲なくなるし!」
生徒たちの中で、何人かがポスターを破っているらしい。
ざわめきとともに「色が消えた世界」への不満が飛び交い、空気がざらつき始める。
「ねえ、それってさ、もう“異常事態”ってことでよくない?」
「市も何も言わないし、学校も放置だし、どうせまた“原因不明”とかでしょー」
「こわ……マジで、やばいこと起きてんじゃないの……?」
その場の空気が、うっすらと――冷えていく。
誰かが笑った。誰かが声を潜めた。誰かが、沈黙した。
けれど。
ひとりだけ、違った。
理絵だ。
彼女はそんな騒ぎには目もくれず、すっと麻婆パンの袋を破り――
――そのまま、口いっぱいに放り込んだ。
「っ……ん……」
次の瞬間、理絵の額に、じんわりと汗がにじんだ。
日葵は、見た。
その瞬間、色を失ったパンの“味”が――少しだけ、戻ったように見えた。
日葵の目に映ったのは、理絵の額に浮かぶ汗と、その顔を貫くような集中の色だった。
辛さでむせる様子もない。ただ、口元を引き締め、ひたすら無言で咀嚼を続けるその姿は、どこか武士のようですらあった。
「……わ、私だったら絶対むせる……」
思わずそうつぶやくと、理絵はふとこちらを見た。
「……そう? 私は逆。味がしないものの方が、気持ち悪い」
「え……?」
「辛さは、ちゃんと刺激がある。味がある。――生きてる感じがする」
その言葉が、日葵の胸にすとんと落ちた。
今この世界は、あらゆる感情が“灰色”に変わりつつある。笑っても、泣いても、叫んでも、それは空気に吸い取られてしまうような――そんな虚しさ。
けれど、理絵は――それを“辛さ”で、かき消していたのだ。
「……じゃあさ。辛くないと、どうなっちゃうの?」
「……何も感じない。ただ、お腹が満たされるだけ。
でも、それって、食べる意味ないじゃん」
言葉は短いが、真っすぐだった。
誰にも頼らず、共感も求めず。
ただ、味覚さえも武器にして、自分を支えているような――そんな強さが、理絵にはあった。
日葵は、胸の奥がちくりとした。
(……強い。たぶん、私が一番苦手なタイプかもしれない)
でも、それは“尊敬”の裏返しでもあった。
「……ねえ、理絵さん」
気づくと、日葵はそう口を開いていた。
「私、ちょっとだけ、光を使えるようになったの。……ほら、あの桜のこと、聞いた?」
「うん。噂、流れてた」
「だからね、お願い。ちょっとだけ、その麻婆パン――触らせてもらっていい?」
「……は?」
理絵の眉が動いた。普段なら、他人の干渉を嫌う彼女が、戸惑いを露わにしたその一瞬。
日葵は、両手をそっと差し出した。
「今、購買も、食堂も、全部、灰色。食べる楽しみがなくなるって、悲しいじゃん。
でも、理絵さんのその“辛い”って気持ち、ちゃんと残ってた。……だから、私の光で、それ、映したいの」
一拍。
そして、理絵は無言で、半分かじった麻婆パンを差し出した。
日葵は、息を吸い込んだ。掌に意識を集中する。
光譜術――彼女の感情が、色になってにじみ出る力。
今回は、“他人の感情”を想像し、それに共鳴しようとしていた。
(……辛いものを食べて、ひとりで生き抜いてる人の気持ちって、どんな色だろう)
赤?
――いや、ただの赤じゃない。
どこか寂しげで、それでも前に進むような……深紅。真紅。あるいは、燃えさしの炭のような――
その瞬間。
日葵の掌から、じんわりと光がにじんだ。
それは、まるで“唐辛子の赤”が、もう一度この世界に蘇ったような――強く、尖った、鮮烈な“赤”。
「……出た……」
理絵が、ぽつりとつぶやいた。
パンの包装の一部が、赤く染まっていく。
まるで、それは“辛さの象徴”が戻った瞬間だった。
ふと、購買前の生徒たちが、その光に気づき、息を呑んだ。
「あれ……今、一瞬だけ、パンのパッケージ……赤くなった?」
「まさか、光……? また、あの子……?」
けれど、日葵は、そんな周囲の視線を気にしなかった。
理絵の顔を見つめていた。
彼女が、少しだけ目を丸くしていたからだ。
「……これ、ちょっとだけ、味が戻ったかも」
「ほんと!?」
「うん。……ありがとう。あなたの“光”、たぶん……私の“辛さ”と、ちょっとだけ似てる」
その時。
理絵が、ほんの少しだけ――笑った。
日葵は、それがたまらなくうれしかった。
購買前の喧騒の中、ふたりだけの時間がゆっくりと流れていた。
理絵はパンの包みを見つめたまま、もう一口、辛味を確かめるようにゆっくりと口に運ぶ。
「……辛さって、孤独に似てるね」
ふと、日葵がそう言うと、理絵が目を細めた。
「似てないと思ってたけど……そうかもね。
他人と共有しにくいし、慣れるしかないし。……でも、なくなったら困る」
「わたし、まだ慣れてないよ、孤独にも、辛さにも」
思わず漏らした本音に、理絵は少しだけ口元を緩めた。
「……正直でいいじゃん。慣れなくていいよ。
誰だって最初からひとりで平気なわけじゃない」
少しの間、ふたりは無言になった。
けれど、それは気まずさではなかった。
言葉の代わりに、ほんのり漂うスパイスの香りと、赤い光の余韻が空間を満たしていた。
「理絵さんって、なんでそんなに……ひとりでいられるの?」
日葵の問いに、理絵は少し考えた後、静かに答えた。
「頼るのが苦手なの。……期待されると、裏切るのが怖いから」
「裏切られたこと、あるの?」
「ある。……けど、それが普通だと思ってる。
だから、辛いもの食べて、汗かいて、また自分のペースに戻る。そういうサイクルが、私にはちょうどいい」
理絵の言葉は、突き放すようでいて、どこか切なかった。
強く在ろうとするその芯に、傷跡のような何かが透けて見えた。
日葵は、そっと言った。
「……だったら、わたしが勝手に寄りかかるね。
頼られるのが苦手でも、ちょっとだけ“共に食べる人”がいても、いいかもって思ったら……、その時だけ、でいいから」
理絵は驚いたように目を見開き、すぐにそらした。
それから、うつむいたまま、唐辛子の赤く染まった指先で髪を耳にかける。
「……変な人」
「よく言われるー!」
「……でも、ありがと」
静かな昼休みの終わり、校内放送が鳴った。
チャイムの音が、ふたりの間に柔らかな幕を下ろす。
教室に戻る途中、日葵はふと立ち止まり、振り返った。
購買の前には、他の生徒たちがまだ列をなしていた。
けれど、その隙間にぽつんと立つ理絵の姿だけが、はっきりと目に焼きついていた。
赤い――
ほんとうに鮮やかな、芯から熱い“赤”だった。
心の中に、色が戻ってきている。
そう実感した日葵は、小さく呟いた。
「次は……どんな色を見つけられるかな」
その一言が、春の風に乗って遠くまで響いた気がした。
(第6話 完)