第5話「寡黙な努力家・優奈の挑戦」
四月十五日、朝六時。
千彩中学校の陸上競技場には、ひとりだけ生徒の姿があった。
小柄な体。長めのポニーテール。
黙々とストレッチを繰り返す少女——優奈。
スタートラインに立つと、深く深呼吸をし、一言も発することなく、彼女は駆け出した。
静寂のグラウンドを、靴音だけが打ち鳴らす。
目に映る景色も、耳に届く音も、自分自身に集中するための“背景”。
彼女にとって走ることは、日常であり、言葉であり、祈りだった。
だが——この数日、その祈りが乱れ始めていた。
ゴールラインを駆け抜けて、息を整える。
リストバンドのストップウォッチを確認した瞬間、優奈の眉がわずかに動いた。
——また、タイムが出ない。
走るルートは合っている。ペースも感覚も、大きく狂っていない。
けれど、体感とストップウォッチの数値が、数秒ずれている。
原因はわかっている。
ラインが見えないのだ。
数日前から、トラックに引かれた白線の一部が、ぼやけていた。
最初は“朝露”のせいかと思った。
けれど違った。
その白線は、一部だけが“灰色”に消えていた。
(目印が曖昧だと、無意識にペースが乱れる)
優奈は走りながら考える。
だが、誰にも言わない。
言葉にしたところで、色の消失なんて誰にも信じてもらえないだろう。
そして何より——
彼女は、誰かに助けを求めることを良しとしない。
やり抜く。黙って。何度でも。
その意志だけを頼りに、今日も走る。
一方その頃、校門前。
日葵は地図を手に、息を弾ませながら校庭へ急いでいた。
「たしか、優奈さんって……毎朝、走ってるって……」
泰雅からもらった観察リストには、こう書かれていた。
Core-4候補/優奈(陸上部)
・寡黙。毎朝6時からトラック練習。
・記録主義。現在“距離感覚”が乱れている兆候あり。
・白線消失エリア:トラック第三レーン。
→感情の可視性は低いが、“ぶれない意志”は光譜的に重要。
「ぶれない意志……」
日葵は、前夜の玲央との出会いを思い出す。
あの時、言葉にしない思いが“光”になった。
ならきっと——優奈さんの“無言の挑戦”にも、色が宿っている。
(見つけたい……その色を)
陸上競技場に着いたとき、日葵はまだ朝の冷気を感じていた。
トラックの内側、第三レーン。そこを何周も黙々と駆ける影がある。
紺のジャージ、タイトに結んだポニーテール。
足音は、規則正しく、少しも乱れない。
——優奈。
彼女は、まるで機械のように正確な走りだった。
腕の振り、呼吸のリズム、ピッチ……それらすべてが統制され、過剰なエネルギーの“跳ね”すらない。
だけど、日葵は気づいていた。
(……ずれてる)
スタートからゴールまで、1周のタイムが、微妙にぶれていた。
特に第三レーンのコーナーを抜けるあたり。
——まさに、白線が消えている区間だった。
数周ののち、優奈が足を止める。
額には少し汗がにじんでいたが、荒い息一つ漏らさず、歩いて戻るその姿勢には迷いがなかった。
日葵は意を決して、声をかけた。
「おはようございます、優奈さん……ですよね?」
優奈は、ちらりと視線を送る。
だが、返事はなかった。無言のまま、水筒に手を伸ばす。
気まずさが数秒流れる。
でも、日葵は引かなかった。
「わたし、日葵っていいます。生徒会の泰雅くんから、優奈さんのこと聞いて……あの、無彩化、っていうか、白線が……」
その言葉に、わずかに優奈の眉が動いた。
だが、口は開かれない。
そして——
優奈は黙って、再び走り出した。
第三レーン、消えかけた白線へ。
(言葉じゃないんだ)
日葵はその背中を見つめながら、胸に手を当てた。
彼女の走りには“問い”があった。
——私は、走り続けるべきか?
——この“見えない道”を、それでも信じて進めるか?
日葵は、そっと手を前にかざした。
まだ使い慣れない光譜術の力。けれど、今はわかる。
優奈の“覚悟”に、光で応えたい。
そのとき、東の空から朝日が差し込みはじめた。
霞む空が、淡く金色に染まっていく。
日葵の手のひらから、やわらかな桃色の光がこぼれる。
それは朝焼けと混ざりあい、トラックの消えかけたレーンに沿って、ゆっくりと伸びていった。
——“光の白線”が浮かび上がったのだ。
優奈は、一瞬だけ足を止めた。
だが、次の瞬間——笑いも言葉もなく、そのラインを見定め、再び走り出した。
迷いのない、全力のスプリント。
風が走る。
金色の朝日と、桃光のライン。
その中を駆ける影は、誰よりもまっすぐだった。
光のラインは、朝焼けと重なっていた。
淡く、脆く、けれど確かに存在していた。
第三レーン。
かすれた白線の上をなぞるように、日葵の“桃色の光”が道を描く。
その先を——優奈は走っていた。
(わたしが……“道”を描けてる……!)
日葵の心は高揚していた。けれど、その感情がすぐに光の揺らぎを生んだ。
次の瞬間——
「……っ!」
ラインの先端が、震えた。
光がわずかに乱れ、トラックのカーブに沿っていたはずの“白線”が、斜めに逸れた。
その瞬間、優奈の足が一瞬だけ迷った。
小さなブレだった。
ほんの数センチの軌道のズレ。
けれど、彼女にとっては致命的な“乱れ”だった。
(ダメ……わたしのせいで……)
日葵の指先から光がふっと消えかける。
だが——
優奈は止まらなかった。
むしろ、さらに踏み込んだ。
迷いが消えたわけじゃない。
でも、迷いごと前に進んだのだ。
見えない白線。揺れる仮想ライン。
けれど彼女は、それでも前を向いた。
足が地を蹴る。
風を切る。
呼吸は正確に、心臓は迷わず、今ある“自分の感覚”を信じて。
その瞬間だった。
彼女の足元から、光が生まれた。
朝日に似た、けれどもっと強い、真の金色。
まるで靴底から火花が散ったように、その光は優奈の後ろに“道”を描いていった。
誰かに与えられたラインではない。
彼女が、自分で選び、走り切った道に——金色が宿ったのだった。
「……すごい……!」
日葵は声を漏らした。
あの色は、優奈自身が作り出した光。
誰かの助けを頼らなかった彼女が、初めて“外の光”と交わって走った結果だった。
光は、彼女を裏切らなかった。
ゴールライン。
優奈は止まり、ゆっくりと振り返った。
息は切れていない。額には汗。
でもその目は——静かに、確かに、日葵を見ていた。
何も言わない。
けれど、それだけで十分だった。
金色の光が、朝焼けに滲んでいく。
スタンドの影から、泰雅が歩いてきたのは、それから十分ほどあとだった。
「見てたよ。すごかったね、優奈の走りも、日葵の光も」
彼の言葉に、日葵は苦笑した。
「でも……すこし、ミスっちゃって……。途中、光がブレて、優奈さんの走り、邪魔しちゃって……」
「いや、むしろ——」
泰雅は小さく息を吐き、視線をトラックへ投げた。
「あの“ブレ”があったからこそ、彼女は“自分で選ぶ走り”をしたんだろうな。優奈って、誰にも頼らないんだ。黙って全部、自分の中で完結させてきた。ずっと、そういう子なんだよ」
日葵はゆっくりとうなずいた。
彼女自身も、どこか似たような気持ちを抱いていたからだ。
——他人に迷惑をかけたくない。
——でも、誰かの“気持ち”には触れていたい。
優奈の背中が、それを教えてくれた。
「私、たぶん……光譜術って、“誰かを助ける”だけじゃないんだと思う」
「ん?」
「“誰かが自分の足で立つ”のを……そっと見届ける光、っていうか……」
言いながら日葵は、自分でもびっくりするくらい顔が熱くなった。
「な、なんか、くさかったかな……!」
すると——
隣で、優奈がふ、と笑った。
ほんの少しだけ。
けれど、その笑みは、確かにそこにあった。
泰雅も少し目を見開いてから、ほっとしたように頷く。
「今の、笑った?」
日葵が思わず声を上げると、優奈は目を伏せたまま、首だけでこくんと頷いた。
——言葉はない。
でも、“想い”は確かに届いていた。
寡黙な努力家は、自分の殻の中でだけ生きていたわけじゃなかった。
「じゃあ、次は理絵だね」
泰雅が言った。
「辛いものしか食べない孤高のグルメ女子。昼休みに購買前でいつも激辛麻婆パンを独占してるって噂だよ」
「わ、そ、それ、ちょっと怖いかも……!」
日葵は思わずおなかを押さえた。
でも、笑っていた。
優奈も、口元をかすかにほころばせていた。
トラックには、まだ仮想の白線が微かに残っていた。
金色と桃色の名残が、朝日にまぎれて、淡く光っていた。
日葵はそっと心の中でつぶやく。
——ありがとう、優奈さん。
——あなたの“色”は、ちゃんとここにあるよ。
そして、三人は競技場をあとにした。
やがて、購買前に、激辛の赤が待っているとは知らずに——。
(第5話 完)