第4話「沈黙の観測者・玲央」
四月十二日、夜。
市立図書館の屋上は、思いのほか静かだった。
昼間は小学生の見学で賑わうこの施設も、閉館後は鍵が閉められ、人気はない。
ただ一人だけ——例外がいた。
望遠鏡のそばで静かに動く影。
姿勢は無駄がなく、指先だけが淡く動いている。
少年の名は、玲央。
星を見つめる目は、何かを探しているというよりは、“確かめている”という気配に満ちていた。
それはまるで——空の奥にある何かを、黙って問いただしているような、そんな沈黙だった。
一方その頃。
「うわ、真っ暗……本当にここ、入っていいのかな……」
日葵は図書館の裏口前で、スマホの画面を頼りに足元を照らしていた。
泰雅から渡されたメモには、こう書かれていた。
【玲央:千彩中2年/科学部・天体観測係/人付き合い苦手】
◎夜の図書館屋上にほぼ毎晩出現。
◎話しかけると無言。だけど、観察は的確。
→星の“色の異変”に気づいている可能性あり。光譜術覚醒の適性も?
簡潔なメモではあるけれど、読み取れる情報は多い。
なにより、彼が“感情を表に出さない”タイプだということ。
「うぅ……わたし、そういう子、苦手なんだよなあ……なんて声かければいいのか……」
でも、行くと決めた。だから逃げたくない。
日葵は深呼吸を一つして、図書館の非常階段を上っていく。
そして——屋上のドアを開けた瞬間。
風が、色を巻いていた。
紺に近い空。
その中で、いくつかの星だけが、“滲んでいた”。
まるで、そこに浮かんだ光が、にじんだ涙のようにぼやけている。
「……これが、“星の異変”……?」
小さく呟いた声に反応したように、望遠鏡の影がゆっくりと振り返った。
玲央だった。
彼は、何も言わなかった。ただ、日葵を一度見て、それからまた望遠鏡へと目を戻した。
(うわ、ほんとに“無言”だ……!)
困ったように笑う日葵。けれど玲央は動じない。
ただ静かに、空を指差した。
「……?」
その指の先を見て、日葵は息をのんだ。
一等星――その中のひとつが、明らかに“色を失って”いた。
周囲の星がかすかに青白いのに比べて、それだけが、まるで消しゴムでこすられたように淡くなっている。
「星の色って……消えるの?」
玲央は、首を横に振った。そして、そっと手帳を差し出す。
そのページには、こう記されていた。
「星のスペクトル変異:4月9日から観測。青系統の星で色彩消失。
無風・雲なし・PM2.5なし。
現象は天体起因ではなく、地上の“感情粒子”との関係か」
「……感情粒子って……」
思わず日葵が笑ってしまいそうになった。けれど——その仮説は、全く笑えないくらい、“彼の沈黙”とつながっていた。
玲央の手帳の文字は、まるで実験ノートのようだった。
文体に感情がほとんどない。事実と数字、天候と時間、そして星の名前と角度。
だけど、日葵にはそのページの一行一行が——
“心の中の叫び”に見えた。
(こんなに丁寧に……こんなに静かに……ずっと、星と向き合ってる)
「玲央くんって……ずっとここで、一人で星を見てるの?」
問いかけに、彼はまた何も言わない。
けれど、手元の手帳にゆっくりとペンを走らせていく。
そして、数秒後に差し出された言葉は——
「話すと、正しく伝わらない。だから記録する」
その文字を見て、日葵の胸がすこしだけ痛んだ。
(伝わらないって、思ってるんだ……)
誰かに話しても、誤解される。
言葉が足りなくて、気持ちがねじれて伝わってしまう。
だから、最初から“沈黙”を選んでいる。
そんな彼の気持ちに、日葵は“自分の短所”を重ねていた。
「……わたし、逆。しゃべりすぎて、うるさいって言われたことある」
苦笑しながら言うと、玲央の手が止まった。
「でもね……だから、今こうして、玲央くんの文字を読んでると、すごく安心する。静かで、まっすぐで、嘘がない」
すると——玲央の目が、少しだけ見開かれた。
そして彼は、ゆっくりと望遠鏡を日葵の方に向けて、覗くように促した。
「え、いいの?」
頷き。
それだけで、彼の“許可”は伝わった。
望遠鏡を覗いた瞬間——日葵の心が、ふっと吸い込まれた。
暗い夜空。けれどその向こうに、星々の微かな“色”が確かに存在していた。
青。緑。紫。橙。——そして、ぽっかりと“色が抜けた空白”。
まるで“誰かの感情”が、夜空にぽっかりと穴を開けたような——そんな光景だった。
「……これ……わたし、見なきゃいけなかったんだね……」
玲央が差し出した次のメモには、こう書かれていた。
「自分の気持ちを見ない人ほど、周りの“揺れ”が強く見える。
君はきっと、そういう人」
日葵は言葉が出なかった。
この静かな少年は、喋らなくても——“心”をちゃんと見ている。
だからこそ、誰よりも傷つきやすい。
「玲央くん……ねえ、一緒にやろう。“街の色”を、ちゃんと見つめて、“取り戻す”の。私ひとりじゃ、きっと見えない色があるから」
その言葉に、玲央は小さく息をのんだように見えた。
そして——彼の胸の奥で、何かが揺らぎ始めていた。
図書館の屋上に、風が吹いた。
それは、季節の風ではない。
まるで夜空から降りてきたような、冷たく、けれど澄んだ気配。
玲央は、小さく肩を震わせた。
手にしていたノートがわずかに揺れる。
——気づいていた。
この数日、星の色が変わっているだけじゃない。
自分の中にも、得体の知れないざわめきが広がっていた。
でも、言葉にできなかった。
話すことは、誤解されること。
伝えようとするほど、自分の輪郭がにじんでいく。
だから、静かに“記録”してきた。
けれど——それだけでは、どうにもならない“何か”が、今この瞬間、胸の奥から突き上げてきた。
「……っ!」
玲央が急に、胸元を押さえた。
「玲央くん!?」
日葵が駆け寄る。
彼は苦しそうに顔をしかめ、何かを喉の奥で堪えるように、震えていた。
「だ、だいじょうぶ? 苦しいの!? ねえ、なにか言って!」
返事はなかった。
けれど次の瞬間、玲央の足元から——光が、あふれた。
それは、日葵がこれまでに見たことのない色だった。
深く、濃い群青。
夜空と溶け合うようなその光は、地面を伝い、屋上全体に広がっていく。
風が巻き起こる。
天井の星々が、一瞬だけ——同じ色に染まった。
「これ……玲央くんの……光?」
彼の胸からあふれるその色は、ただ美しいわけじゃなかった。
痛みがあった。
孤独があった。
そしてそのすべてを、誰にも知られたくないという切実な“祈り”が包んでいた。
——黙っていても、心はこんなにも叫べるんだ。
日葵は迷わなかった。
そっと、玲央の背に腕をまわす。
「……大丈夫。言わなくていい。言わなくても、ちゃんとわかるから」
玲央の体がぴくりと震える。
でも——拒まれなかった。
それだけで、日葵はわかった。
この沈黙の少年が、ずっと“孤独の中で光を抱えていた”ことを。
「……沈黙も、ちゃんと声だよ。言葉にしなくても、聞こえるから」
その瞬間——
群青の光が、屋上の天井に広がった。
まるでオーロラのように揺れながら、星々の間を染めていく。
地上からは見えない、小さな奇跡。
けれど、日葵の胸にはしっかりと刻まれた。
屋上の群青光が静かに消えたあとも、ふたりはしばらく黙って空を見ていた。
玲央は座り込んだまま、まだ胸の奥に何かがくすぶっているようだったけれど、日葵の腕の中で、少しずつ呼吸を整えていった。
やがて、玲央が小さく体を離し、再びノートを取り出す。
そこに書かれたのは、たった一言。
「ありがとう」
その文字が、日葵の胸にまっすぐ飛び込んできた。
「うん……わたしこそ、ありがとう。玲央くんの光、きれいだった。ちょっと苦しそうだったけど、でも……すごく、強かった」
玲央は一瞬きょとんとした顔をして、それからほんの少しだけ、口角を上げた。
それは“笑顔”というにはささやかすぎたけれど——でも、確かに心が動いた証だった。
その表情を見て、日葵の中で何かがふわりと結ばれた気がした。
翌朝。
生徒会室。
日葵は、昨夜の出来事を簡単にまとめて、泰雅に報告していた。
壁のマップには、新たな群青色の小さな丸いシールが追加される。
「やっぱり、星の色も街の感情と連動してる。玲央くんの観測データ、かなり正確だったよ」
「ふむ……それは有力だね。彼のように“沈黙を貫く”感情は、逆に色の輪郭を鋭くする。群青は、深い自己観察の色だ」
泰雅がメモを取りながら頷く。
「それに、ちゃんと……チームに入ってくれそう。言葉じゃなかったけど、伝わってきたから」
「ならば、君に任せる。《セブンコア》、現在Core-0:日葵、Core-2:玲央、確定とする。……次は、Core-4」
「コア……フォー?」
「寡黙で、努力家。走ることで“自分の色”を保っている。けれど最近、記録が落ち始めてる。……トラックの“白線”が、消えたらしい」
日葵の目が真剣になる。
「それって……無彩化の影響?」
「可能性はある。ただし、彼女の場合は“揺らぎ”じゃなく、“貫くこと”に苦しんでいるはず。……自分の道が見えなくなってる」
「行ってみる。……その子の色、見てみたい」
泰雅は笑みを浮かべ、ホワイトボードに新たな文字を書き加えた。
「優奈」——Core-4(仮)
静かな夜と、群青の光が教えてくれた。
沈黙の奥には、ちゃんと“声”がある。
それを知った日葵は、もう迷わない。
次の色を求めて。
次の心に触れるために。
───
【第四話・完】