第2話「視野の広い副会長、泰雅」
翌朝七時。まだ教室も開いていない時間に、日葵は生徒会室の扉の前に立っていた。
昨日の出来事が頭の中で何度もぐるぐると再生されて、眠れたのかどうかもわからないまま、気づけば足がこの場所へ向かっていた。
(“協力してほしい”って、言われたけど……)
扉の奥には、あの泰雅がいるはずだ。副会長としては有名で、勉強も運動もできるし、話してみると妙に“大人びている”。
でも昨日見せたあのスケッチブックや地図の数々——あれはもはや“中学生の趣味”の域を超えていた。
「……はー、なんかもう……変なとこ来ちゃった気がする……」
そう言いながらも、手が勝手にノックを叩いた。二度、コンコンと。
「どうぞ」
中から返ってきたのは、落ち着いた声。声の主は、やはり泰雅だった。
日葵は扉をそっと開ける。
そこは、生徒会室というよりも、小さな作戦本部のようだった。
壁には千彩市全体の地図が大きく貼られ、付箋やマーカーで色分けされたエリアが複数記されていた。机の上にはノートパソコンが開かれ、モニタには「色彩異常観測日誌」と書かれたエクセルが表示されている。
さらに棚には、写真入りのファイルや市内の気象・照度・湿度データがまとめられた印刷物まであった。
日葵は、思わず足を止めた。
「……え、なにこれ……」
「記録してるんだ。この街で起きてる“異変”を」
泰雅はパソコンを閉じると、静かに席を立って、壁の地図を指差した。
赤い印がついているのは、数日前から“色彩が一時的に抜けた”と報告されている地点らしい。
「ここが昨日の桜の場所。そしてこっちが商店街の看板、さらにここが公園の遊具……」
「……こんなに?」
「一日で起きるものもあるし、数時間で戻る場所もある。でも、共通してるのは“色を失う”こと」
泰雅の声は、冷静だった。でもその奥に、小さな焦りのようなものも感じられた。
「僕は、最初は“気象的な光の屈折”か、“スマホ画面のエフェクト”の異常かと思ってた。でも、違った。これはもっと“感情に近い現象”だって、気づいたんだ」
「……感情?」
「うん。色が失われるとき、必ず“その場にいた人の感情”が揺れてる。不安だったり、無気力だったり、怒りだったり。逆に、君の光は“色を戻した”。つまり、君の感情が——色を呼び戻したってことだ」
その言葉に、日葵は昨夜の掌のぬくもりを思い出した。
あれは、たしかに——自分の“気持ち”から出てきたものだった。
「この地図、すごいね……」
日葵は壁に貼られた千彩市の地図に見入った。住宅街、商業地区、学校、公園——町のほとんどすべてのエリアに印がある。
「色を失った場所は、共通点があるんだ。人の集まりやすい場所。そして、なぜか“感情が揺れやすい空間”」
泰雅はホワイトボードを指さした。そこには、感情の種類と色の対応らしき表が手書きで並んでいた。
喜び=黄緑、悲しみ=藍、怒り=赤、誇り=金、羞恥=桜、孤独=紫灰……
そして、最後にこう書かれていた。
「色は心の言葉」
「君の光は“桃色”だった。きっとそれは、“誰かのために何かをしたい”っていう気持ち。照れとか、優しさとか、そういう想いが混ざった色なんだと思う」
「……なんか、すごいこと言われてる気がするけど……わたし、ただの中学生だよ?」
「僕も同じ。だけど、これは“普通の街”で起きてる話じゃない。昨日の桜の色——戻せたのは君だけだ。自分を“ただの”って言うの、やめてほしい」
その言葉は、まっすぐだった。
しかも、“誰かを見下す”のではなく、“誰かの価値を信じている”まなざしだった。
日葵は、自分の胸がわずかに熱くなるのを感じた。
けれど、疑問もあった。
「……なんでそんなに、わたしのこと信じるの? 昨日少し話しただけなのに」
泰雅は少し間をおいてから、微笑んだ。
「君の目を見たとき、感じたんだ。自分の“欠点”に目を向けてる人ほど、誰かを守ろうとする。……僕も、そうだから」
「泰雅くんも?」
「うん。僕は昔、“誰にも本音を見せない”ってよく言われてた。冷たいって。……でもね、ただ、“自分と他の人は違う”って思ってただけなんだ」
「……?」
「人はそれぞれ見てる景色が違う。正しさも、痛みも。だから、誰かと本気で“同じになろう”とは思わなかった。ただ、“違っていい”って思ってた」
泰雅は、地図の上の赤い印をひとつ指さした。
「でも、それでも——この街が好きだし、ここにいるみんなの“色”を失いたくない。だから僕は、違いを理解しながら、一緒に戦える人を探してた。昨日、ようやく見つけた」
日葵は言葉を失った。
自分の“短所”ばかり見ていた自分に、こんなふうに言ってくれる人がいるなんて——。
気がつけば、掌がまた、ほのかに桃色ににじんでいた。
「日葵、僕と一緒に“色を取り戻すためのチーム”を作ってほしい。名付けて——《セブンコア》」
「せぶんこあ……?」
「君の色を中心に、他の“色の持ち主”を探していく。感情の色を武器にできる仲間たちを」
「……そんなの、できるのかな……わたしに、できるかな……」
「できる。君がその第一色《Core-0》。この地図も、記録も、君の“光”で動き出した」
泰雅の言葉に、日葵は小さくうなずいた。
まだ怖い。まだ不安。でも、誰かが“信じてくれる”なら、少しくらい踏み出してみたいと思った。
(わたし……この街の“色”を……守りたい)
窓の外、朝陽が校庭を染め始めていた。
けれど——空はまだ、完全には青を取り戻していなかった。
遠くのビルの端に、うっすらと灰色が混じっている。
その不自然な色合いを、泰雅は真剣な眼差しで見つめていた。
「千彩市って、元々“色彩都市”って呼ばれてたんだ。季節ごとの景観整備、デザイン条例、町並みに使う色の配分まで管理されてる」
「へぇ……なんか意外……」
「でも、だからこそ——“色の異常”に、真っ先に気づくのはこの街の人たちだと思った。だから記録を始めた」
泰雅は机の引き出しから、折りたたみ地図を取り出した。見開きにすると、生徒会室の机をすっぽり覆うほど大きい。
その地図には、町全体の施設・通学路・公共空間・住民人口データがぎっしりと記されていた。
「これは……自分で作ったの?」
「うん。地図情報とオープンデータを統合して、色彩異常の発生と“人の流れ”を重ねたマップ。昨日の桜の場所——ここ」
泰雅が示した地点には、桃色の丸いシールが貼られていた。
「君が“色を戻した”場所。ここを中心に、感情の揺れと光譜反応を解析すれば、次の発生地点がある程度予測できる」
「す、すごい……理科の実験みたい……っていうか、研究者?」
「未来の話かもしれないけど、今はただ、君とこの街の“色”を守りたいだけ」
日葵は、地図の中の桃色の印をじっと見つめた。
それは、ただのシールひとつだった。でも、それが“自分の行動が残した痕跡”だと思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる気がした。
「わたし……昨日まで、“自分にはなにもない”って思ってたんだ。ドジで、頼りなくて、みんなの足引っ張るだけで……」
言いながら、思わず笑いが漏れる。苦笑いだった。
「でも、桜の色が戻ったとき、ちょっとだけ“わたしでも何かできるかも”って思えたの」
泰雅は黙ってうなずいた。
「もし……わたしの中に、誰かの色を助けられる力があるなら——それ、ちゃんと使ってみたい」
言いながら、日葵の手のひらがまたじんわりとあたたかくなる。
指先から、ほんの微かな桃色の光がにじみ出す。
それは、昨日よりもずっと小さな光だったけれど、確かな“意志”を持っていた。
「ありがとう、泰雅くん」
「こちらこそ。僕一人じゃ、ここまで来れなかった。……ようやくスタート地点に立てたよ」
二人は並んで、地図の上に目を落とした。
これから始まる“色を取り戻す旅”——その第一歩に。
そして、朝のチャイムが、校舎に高く鳴り響いた。
教室に戻ると、既に半分ほどの生徒が登校していた。
日葵は、少し迷ってから自分の席に座る。手のひらの光はもう消えていたけれど、心の奥には何かが灯ったままだった。
すると、斜め前の席から虎太郎がひょこっと顔を出す。
「よう、早かったな今日。副会長となんか話してた?」
「えっ、見てたの?」
「いや、朝の昇降口ですれ違ったから。なんか“動くぞ”って顔してたなって思ってさ」
「……動くぞってどんな顔よ」
思わず笑ってしまう。
けれどその笑いは、昨日までの“曖昧な愛想笑い”じゃなかった。
ほんのすこし、芯が入っていた。
「……まぁ、ちょっとね。色々あるんだよ。いまはまだ、上手く言えないけど」
「ふーん?」
虎太郎はあっさりと肩をすくめると、すぐ別の話題に移った。
そういう“踏み込みすぎない距離感”が、彼のいいところでもある。
(ありがとね……)
心の中で小さくつぶやいたその時。
教室の窓の外に、小さな違和感を覚えた。
——空が、ほんの一瞬、ゆらいだ。
見間違いかもしれない。いや、そう思いたかった。
けれどその揺らぎは、まるで“誰かの不安”が空気に乗って、空全体に伝染しようとしているような感覚だった。
(また……“色”が、消える……?)
ふと、ポケットの中の紙片を握りしめる。
それは泰雅が朝、日葵にそっと渡してくれた、簡単なメモだ。
【観察指標】
●急激な空気の冷え/光の乱れ
●周囲の会話が途切れる/スマホの反応遅延
●植物の色が抜ける
→兆候が複数出たら即報告
裏面には、連絡用のLINE QRコードが添えられていた。
“君専用の報告チャンネルだよ”と、泰雅は笑っていた。
(……“視野”を、もらったんだ)
昨日まで、日葵は自分のことしか見えていなかった。
自分の短所、自分の失敗、自分の情けなさ。
でも今日、初めて“街全体”というスケールで何かを考えた。
(誰かを守るってことは、自分だけじゃなく、他の人の視点を知ることなのかも)
授業が始まるチャイムが鳴る頃には、外の空はまた少しだけ澄んでいた。
けれど、たしかに何かが“潜んでいる”。その予感は消えない。
放課後。
日葵は泰雅と共に、生徒会室の壁地図に新たなシールを貼った。
小さな、淡いピンクの丸。
「これ、なに?」
「“君が今日、心で誰かに触れた場所”。……つまり、日葵が見た景色」
「そんなの、記録すること?」
「するよ。君の視点も、もう“セブンコア”の一部だから」
思わず照れて目をそらす。
けれど、次に貼るシールの色を、日葵はちゃんと考え始めていた。
「じゃあ、次は……“オレンジ”の人を探そうかな。……どこかに、いる気がする」
───
【第二話・完】