第12話「動揺スプリント」
5月3日、午後四時。川沿いのサイクリングロードには、風の音と水のせせらぎだけが流れていた。
灰色の空の下、虎太郎は、河川敷を見下ろす土手の上に立っていた。手には、少し折れたハンドルのついた愛用の自転車。何度目かのパンク修理を終えたばかりだったが、どうにもブレーキの効きが怪しい。
「うーん……やっぱりオレ、メカと相性悪い気がするんだよなあ……」
彼の呟きは、誰に向けたものでもなかった。けれど隣にいた優奈が、それを聞き逃すはずがない。
「動揺してるの、声でわかるよ」
その静かな声は、まるで河原の石をなぞる水音のように落ち着いていた。
優奈はユニフォームの上にジャージを羽織り、いつものように無表情に立っていた。特別なことは言わない。でも、その目線はまっすぐで、どこまでも走る人の覚悟がにじんでいた。
「そ、そりゃあ動揺するでしょ! こないだの看板の件もそうだけど、また何かあったらって思うとさぁ……ほら、この道も怪しいじゃん?」
虎太郎は指をさした。道の先――橋のたもとあたりに、かすかにちらつく黒いもやが見えた。まるで空間の一部が溶けたみたいに、そこだけ光を吸い込んでいるように見える。
あれが〈陰彩〉だ、と知っていた。日葵たちと出会ってから、もう何度もその気配を感じてきた。
でも、見るたびに慣れるどころか、心臓が跳ね上がる。喉の奥がぎゅっと詰まって、背中がじわじわと汗ばんでくる。
「き、今日は……帰ろっかな、ほら、明日早いし……」
逃げ腰の声に、優奈は少しだけ眉を動かした。
けれど彼女は責めなかった。ただ、自分のジャージのポケットからストップウォッチを取り出し、淡々とボタンを押す。
「走って。橋まで。」
「……え?」
「私が後ろからついていく。何があっても。……安心して、逃げてもいい。走って逃げても、それは間違いじゃないから。」
「いや、でも、オレ逃げるつもりじゃ……」
「動揺するのは、生きようとする証拠。……私はそれ、強いと思うよ」
その言葉は、思ってもみなかった角度から飛んできた拳のようだった。虎太郎は、言葉を飲み込んだ。
優奈の目がまっすぐに彼を捉えていた。いつもの無表情。だけどその奥には、確かな光があった。
虎太郎は、喉の奥でごくりと唾を飲んだ。
「……わかった。走る」
言ってから、自転車を蹴った。ギアは軽め。ペダルが軽く回るたびに、風が顔を撫でた。
遠ざかる川の流れ。高架橋の下に、もやが揺れていた。灰色の陰彩が、空気を塗り替えるように広がってくる。
――やばい、速い。来る。
足が震えた。体の奥で、本能が「止まれ」と叫んでいた。
けれど、後ろで確かに足音がした。
一定の、狂いのないリズムで――優奈が、走ってきていた。
後ろに彼女がいる。その安心が、ほんの少し背中を押した。
虎太郎は、叫んだ。
「来るな来るな来るなぁーッ!」
風を切りながら、もやに突っ込んだ。
もやの中に入った瞬間、虎太郎の視界は濁った。
目を開いているはずなのに、灰色の絵の具がぶちまけられたように、周囲が色も輪郭もなくなっていく。風の音すら途絶え、まるで世界そのものが“無彩”になったかのようだった。
心拍数が跳ね上がる。
怖い。なにがなんだか、わからない。足がどこを走ってるのかもわからない。どっちが前でどっちが後ろか――わからない。
「うあああああああ!!」
虎太郎は叫んだ。喉が裂けそうだった。涙がこみ上げた。
なのに、その叫びが、もやを少しだけ押しのけた。
いや、違う。もやの中で、光が一瞬ちらついたのだ。虎太郎の足元――いや、心の中からかもしれない。
(……なんだ、いまの……)
光。
オレンジ色だった。まるで、夕焼けの茜が、ほんの少しだけ舞い戻ってきたような。
次の瞬間、足音が聞こえた。
一定のリズム。
迷いのない速度。
「――虎太郎!」
背中から声が飛んできた。優奈の声だ。単調で静かなのに、なぜか雷のように響いた。
「止まらなくていい。迷ってても、走ってるならそれでいい!」
虎太郎の目が開かれる。
今、見えている。確かに前に、ひと筋の光がある。
オレンジ色の帯だった。それは虎太郎の足元から伸びて、もやの奥へと続いていた。
その光は、虎太郎の“動揺”から生まれていた。
不安で、逃げ出したくて、震えて、それでも足を前に出した――その感情が、光になって道を示していた。
「逃げることは、生きること……そう、そうなんだ。動揺してるってことは……オレ、ちゃんと、生きようとしてるってことじゃんか!」
その言葉に呼応するように、光はさらに濃く、鮮やかに染まった。
もやを切り裂くように、オレンジの道が弧を描く。
背後で、優奈の靴音がぴたりと止まった。
虎太郎が振り向くと、彼女は――拳をぎゅっと握り、深くうなずいた。
「道は、できた。あとは、走り切るだけ」
「お、おう!」
虎太郎は再び自転車のペダルを踏みしめた。ぐん、と前に進む。
風が戻った。
もやの中、光の道がはっきりと浮かび上がる。まるで誰かが「それでいいんだよ」と道案内してくれているような確かさだった。
そのオレンジ色は、虎太郎の“動揺”が、ただの不安ではなく、彼の「生きたい」という感情そのものである証だった。
橋の先に、もやの境界が見えた。
優奈が後ろから静かに告げる。
「ラストスパート」
その声とともに、虎太郎は叫んだ。
「うぉおおおおおお!!」
自転車がもやを抜けた。
空気が急に軽くなった。
川沿いの風が戻った。まぶしい夕陽が、ちょうど橋の上から差し込んでくる。
地面に伸びる光のライン。その先で、黒いもやがパチンと弾けて消える。
虎太郎はブレーキをかけ、橋の手前で立ち止まった。
後ろから追いついてきた優奈が、無言で頷く。
「……勝った?」
「うん。君の動揺が、光になった。陰彩を……押し返した」
夕陽が、オレンジのグラデーションで空を染めていた。
虎太郎は、汗ばんだ額をぬぐいながら、空を見上げた。
その空に、自分の光が少しだけ混ざった気がした。
橋のたもと、色を取り戻した舗装路に、日葵が立っていた。
その背後には、セブンコアの仲間たち。香穂が目を丸くし、玲央は双眼鏡を下ろしてじっと虎太郎を見ている。理絵はいつも通り口数は少ないが、微かに頷いた。
「……無事でよかった」
日葵が小さく言って、駆け寄った。
「動揺して……それでも逃げずに、進んだんだね」
「いや、まあ……進んだっていうより、勝手に足が動いた感じで……うん。なんか、うまく言えねーけど」
照れ臭そうに頬をかいた虎太郎のそばで、優奈がひとこと。
「動揺は、生きてる証」
その言葉に、仲間たちの視線が一斉に虎太郎へと集まった。
泰雅が一歩進み、持っていた端末を見せる。
「この河川敷……陰彩の反応が消えてる。たぶん、虎太郎の光が、結界の一点を壊したんだ」
「オレンジの光……動揺が、道を照らしたんだよね?」
香穂がそっと呟くように言う。
虎太郎は首をかしげながら、ぽつり。
「怖かったけど、進みたかった。怖いのに進もうとしたら……道ができてた。あれは……優奈が背中押してくれたから」
その視線が優奈に向けられると、彼女は淡々とした声で返す。
「押しただけ。走ったのは、あなた自身」
それはまるで、一本の線を引くような、ぶれのない返答だった。
玲央が空を指差す。
見上げると、まさに今、夕陽が川面に映っていた。
茜と橙が、滲むように混ざっていた。
オレンジ。虎太郎の心の色だ。
「色が……帰ってきてる」
日葵が言った。胸の奥があたたかくなる。
彼の“欠点”だと思われていた“動揺しやすさ”が、道をつくった。
この街はきっと、そんな一人ひとりの心の色で守られていく。
日葵はそっと拳を握った。まだこの戦いは終わっていない。だけど、今日また一つ、“欠点”の意味が変わった気がする。
「次は……誰の色、守りに行こうか」
日葵のその言葉に、仲間たちが静かに頷いた。
その背後――河川敷の草むらで、ほんの一瞬だけ、黒いもやの残骸が風に吹かれて舞い上がり、オレンジに染まって消えた。
(第12話 完)




