第1話「始業式に落ちた白い影」
四月九日、始業式。まだ硬さの残る制服の襟元を何度も直しながら、日葵は下駄箱の前で立ち尽くしていた。
千彩中学校の校庭には、満開の桜が風に揺れている。春の陽光は暖かく、体育館から聞こえる校長のスピーチも、例年と変わらず長くて眠たい。
でも——今年の空だけは、変だった。
「……灰色、だよね……?」
見上げた空は、まるで写真の色を間違えたかのようにくすんでいた。青空の中に、ふわりと墨をこぼしたような色が広がっていく。それはじわりじわりと、空全体を覆っていった。
ざわざわと周囲の声が騒がしくなる。誰かがスマホを構えていたが、画面には「色調補正中」というエラーが出ていて、撮影すらできない。
日葵はその異様さよりも、むしろ“自分の勘違いかも”という感覚に支配されていた。
「私、へんな目してるのかな……」
春休み中、部活もなくて引きこもり気味だったせいかもしれない。思い当たる理由が多すぎて、余計に確信が持てない。
そんなふうに自分を疑っていたとき、校庭に立つ桜の木が、一本、すうっと白黒になった。
——本当に「白黒」になったのだ。
花びらが灰色。幹がグレー。葉っぱまで、まるで古い映画のフィルムのように、色が抜けていた。
日葵の心臓が、どくん、と音を立てた。
「やっぱり、わたしの目……おかしくなってる……」
近くで見ていた生徒たちも、一瞬は静まりかえっていたが、すぐにざわめきが広がった。
「見た!? あの桜、色……」
「加工か? ドローンの演出?」
「いや、なんか、空も……変だよな?」
不安と好奇心が入り混じる空気の中で、ただひとり、日葵だけが立ちすくんでいた。頭の中がぐるぐると回って、自分のせいな気がしてならなかった。
ふと、視界の端に動く人影があった。
副会長の泰雅だ。誰かと話している。手には、なにかスケッチブックのようなものが抱えられていた。けれど、今の日葵にはそこまで目を向ける余裕がなかった。
そして次の瞬間だった。
あの白黒になった桜の幹が、ゆらりと風に揺れたと思った途端——
日葵の身体の奥から、ふわりと“光”が立ち上がった。
それは、桃色の光だった。
まるで春風が頬に触れたときのように優しく、だけど確かな輪郭を持った光が、日葵の周囲に花びらのように舞い散っていた。
桜の木の幹に、その光が触れる。
瞬間——色が、戻った。
白黒だった桜の木に、桃色の花がふわりとよみがえった。まるで一秒前の世界に巻き戻ったように、色は自然に、だけど確かに“戻って”きたのだった。
「……え?」
自分の手を見つめる。指先が、じんわりと光っていた。まるで体の内側から桃色の電気が漏れているような感覚。
誰もその瞬間をはっきりと見てはいなかったが、桜の木を見た全員が、色の変化には気づいていた。
「……今の、なに?」
「なんか、戻ったよな……」
「風のいたずら?」
ざわつく声の中で、日葵は、自分だけが確信していた。
——わたし、今、なにか“出した”。
でも、それが何かもわからないし、誰にも言えなかった。
(私なんかが……なにかを……?)
そんなはず、ない。
でも、“私じゃなかった”とは言えない。
胸の中で何かがざわめく。そのざわめきは、春風のようでいて、少し冷たかった。
まるで「ここから何かが始まる」とでも言っているような。
校舎の渡り廊下を歩きながら、日葵は何度も自分の指先を見つめた。けれどもう、光はどこにもなかった。
ふわりと現れて、ふわりと消えた。ほんの数秒の出来事。けれど確かに、あの桜の色を“戻した”のは——自分だった。
(こんなこと、どうして……?)
驚きと戸惑い、それに“うっすらとした怖さ”が胸を占めていく。
普通じゃない何かに、自分が関わっている。その確信が、日葵には何より恐ろしかった。
新しい教室に着くと、ちょうどクラスの掲示がされていた。担任は井ノ口先生。よく笑う女性の先生で、学年主任らしい。
教室に入ると、少し騒がしくなっていた。誰かが騒いでいるというよりも、全体がざわついている。
「ねえ、見た? 校庭の桜……」
「うん。なんか、白黒になったよね?」
「写真撮ろうとしたけど、カメラが止まったんだよ。あれ、やばくない?」
日葵は、自分の席にそっと荷物を置きながら、会話の輪に加わらず耳だけを澄ませた。
話題は確実に“あの桜”だ。けれど、誰も“光”のことには触れていない。
(見えてたの、私だけ……?)
そう思った瞬間、ぞくっとした。
まるで自分だけが異常な世界を見てしまったような孤独感。自分が他の人たちと違ってしまったような、不安の足元が崩れる感覚。
ふと、前の席に座った男子が振り返った。
「お、日葵じゃん。おはよー。なんかあった? 顔こわいぞ」
「……あ、虎太郎……おはよう」
少し気の抜けた笑顔を浮かべた男子——虎太郎は、幼なじみだ。昔から動きが大きくて、ちょっとドジ。けれど勘が良くて、変なことに気づくのも早い。
「なーんか、日葵だけ雰囲気ちがうんだよな……って、いや、悪い意味じゃなくてね? あはは」
「……別に……なんでもないよ……」
苦笑いしながらも、日葵は内心、少しだけほっとしていた。虎太郎の“気づき”は鋭い。でも、彼は深く追及しない。
そのゆるさが、今はありがたかった。
やがて、始業式のクラス活動が終わり、放課後になる頃には、桜の話題も落ち着きはじめていた。
けれど——空の“灰色”は、まだそのままだった。
下校時、正門前に立つと、再びあの白黒の桜の木が目に入った。だが、もう元の桃色を取り戻していた。
枝先に、日差しが透けて、花びらが淡く揺れている。
(あれ、本当に……わたしが……)
立ち止まったまま、日葵はその桜に手を伸ばした。
すると、その手のひらに——
また、ふわりと、光が、現れた。
ほんのかすかに、指先がにじむような桃色を帯びる。まるで陽炎のような、夢のような感覚。
だけど確かに、“そこにある”としか言いようのない温もりがあった。
(これが、私の——)
そのときだった。
「それ、君の感情の色?」
背後から、静かな声がした。
日葵が振り向くと、そこには泰雅が立っていた。
「……え?」
思わず間の抜けた声を出してしまう。
泰雅の言葉は唐突すぎて、日葵は反応に困った。
「感情には色がある。それが“見える”ことがあるって、知ってた?」
泰雅は日葵の手のひらを見つめながら、静かに言った。彼の目はまっすぐだった。疑ってもいないし、脅してもいない。ただ、観察している。それも、とても広い視野で。
「今日の空、変だった。あれは偶然じゃない。桜が白黒になったのも。……でも、一本だけ、色が戻った。たぶん——君が“戻した”んだよね」
「な、なんで……」
「見てたんだ、偶然。屋上から。あれは自然現象じゃない。誰かの意志、もっと言えば“感情”の反応だと思う」
日葵の喉が乾くのを感じた。まさか誰かに見られていたなんて。しかも、それを泰雅が“分析”しているなんて。
「君の光……あれ、何色だった?」
「えっと……ももいろ、だった……かな……?」
「だよね。たぶん、それは君自身の“色”だよ」
言葉の意味がわからなかった。
でも、どこかで、それがとても“正しい”ことを言っているような気がした。
泰雅は鞄から一冊のスケッチブックを取り出した。中には、地図のような図、グラフ、日付と時刻のメモ、校庭の木の配置、気温・湿度まで書かれていた。
「春休みの間、街の“色”が少しずつ変になってるのに気づいてた。写真アプリで撮った画像だけじゃなく、実際に目で見える色にも影響が出てる。……でも、記録を取ってるのは僕だけかもしれない」
「これ、全部……」
「僕は生徒会副会長だけど、それはただの肩書き。こういう“異常”に気づいたとき、動けるようにってだけ」
泰雅の手は落ち着いていて、指先が記録ページを丁寧にたどっていく。
「君が起こした変化は、これまでとは全く違う。色を“戻す”……それは、他の誰にもできなかった。だから、協力してほしい」
「……でも、私、なにもわかんないよ。なにが起こったかも……わかんない……」
日葵の声は震えていた。自分の中の不安が、徐々に言葉になって出ていく。
「私、自分のこと、よく知らない。気がつくと失敗してて……それを誰かに言われる前に、自分で責めてばっかりで……」
桜の木の影が、二人の足元に落ちていた。そこにはまだほんの少しだけ、灰色が混じっていた。
「でも——あの桜の色を、守りたかった。なんとなく、そう思っただけで……」
泰雅はふっと笑った。その笑顔は、日葵がこれまで誰にも向けられたことのない、“信頼”のにおいがした。
「それで十分だよ。行動の理由に“なんとなく”って言えるのは、自分の気持ちに正直な証拠だから」
そう言って、彼は地面に落ちた桜の花びらをそっと拾った。花びらには、まだ微かに桃色が残っていた。
「日葵。君が持ってるその力……きっと、色を“戻す”だけじゃない。もっと、大きな“変化”を生む力だと思う。だからこそ……これから、街で起こる“異変”に関わってくることになる」
「“異変”……?」
泰雅はうなずいた。
「今日のは始まりにすぎない。あの空の色、あの桜、そして君の光……全部、繋がってる。街で起きてる“無彩化”の現象。きっとこれからもっと頻繁に、そして激しくなる」
「でも……私、何もできないよ……私なんか、失敗ばっかりで、ドジで、すぐにテンパるし……」
心の奥にいつもある“自信のなさ”が言葉になって漏れ出た。
でも泰雅は、まるでそれを“当然”のように聞いていた。
「……そういう自分を、否定しないでほしい。むしろ、それが“色”になるんだと思う。短所だって、色の一部なんだよ」
「……え?」
「僕は、君の“光”を見て確信した。——この街の色を救えるのは、君だよ」
夕暮れの校庭に、少しだけ色が戻っていた。
西の空に、ほんの一部だけ、うっすらとした桃色がにじんでいる。
日葵は、それが“自分が戻した光”だと気づきながら、初めて、ほんの少しだけ胸を張った。
その夜、日葵は机の前で、ずっと掌を見つめていた。
電気を消した部屋。カーテン越しの月明かりだけが、静かに床を照らしている。
手のひらは、なにも語らない。ただ、脈を打つ自分の心臓の鼓動だけが、遠くで響いているようだった。
(あの光は、わたしの……気持ち?)
“感情には色がある”——泰雅の言葉が何度もリフレインする。
それは空想のようでいて、どうしても無視できない“確信”があった。
今日、確かに自分の中から“なにか”が放たれた。見間違いでも、夢でもなかった。
(でも、どうして……私だったんだろう)
考えてもわからない。ただ一つはっきりしているのは、あの瞬間、桜の色が戻ったとき——胸が、少しだけ温かくなったということ。
「助けたい」と、ほんの一瞬でも思えたということ。
日葵は立ち上がって、部屋の隅の棚から、幼い頃に使っていた色鉛筆セットを取り出した。
開いてみると、半分以上の色が削り切られていたが、それでも淡い桃色の鉛筆が残っていた。
——桃色。今日、日葵の光が持っていた色。
(これが……“私の色”?)
恐る恐る、その桃色で紙に丸を描いてみる。
最初は震えた線。でも、二重に重ねると、しっかりとした色が見えてくる。
気がつくと、丸の内側に桜の花びらを描いていた。
(誰かの色を……守りたい)
その思いは、今日、初めて“自分”から生まれた感情だった。
これまで、何か行動するときは誰かに言われたからとか、合わせたからとか、そんな理由ばかりだった。
でも今日は違った。
(わたしの意思で、動いた)
そう思うと、胸の奥にちいさな灯が灯った気がした。
そして——その時だった。
掌の奥が、ほんのりと、あたたかくなった。
見下ろすと、指先に、かすかな桃色の光が揺れていた。今度ははっきりと“自分の意志”で出てきたとわかった。
驚きとともに、自然と微笑みがこぼれる。
——わたしにも、できるかもしれない。
何か特別な力だとか、ヒーローみたいなことじゃなくていい。
でも、今日、わたしは確かに“誰かの色”を救った。そのことだけは、何も失われない確かな“実感”として胸にある。
「……よしっ」
日葵は小さく呟くと、窓の外の夜空を見上げた。
まだ、空は灰色に近い。
でも、星の瞬きの中に、ほんのひとつだけ——微かに桃色を帯びた光があったような気がした。
それは、誰にも気づかれないような微光。
だけど、確かに世界の“どこかの色”を取り戻していた。
───
【第一話・完】