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第5話『自由という名の光』

「レイモンドの屋敷での話なら、全部話せる」


 アイゼンクラフトの中央広場。噴水から立ち上る水煙が、朝日に照らされて虹色に輝いている。ミラは石の手すりに寄りかかり、下層区画の街並みを見下ろしていた。


「金庫の場所も、来客の記録も。あの男の慈善家としての評判を台無しにできるはず」


 レイヴンは少女の横顔を見つめる。その声には不自然な強さが混じっている。まるで、何かを自分に言い聞かせるように。


「今は、それはいい」


「どうして? あんたは証拠が欲しいんでしょう?」


「せっかく外に出たんだ。街を楽しもう」


「楽しむ?」

 ミラの声が微かに震える。

「どうやって...楽しむの?」


 その問いに、レイヴンの胸が締め付けられる。レイモンドの屋敷で過ごした時間。それは「商品」としての教育であって、決して自由な少女としての時間ではなかったのだ。


 人々が行き交う市場の喧騒が、二人を包み込んでいく。商人たちの呼び込みの声、値段の駆け引きをする人々の話し声、そして、どこからか漂ってくる香ばしい匂い。それらは全て、レイモンドの屋敷では決して味わうことのできなかった、生きた街の音だった。


 ミラの目が、その光景を静かに映し取っていく。その瞳には、戸惑いと期待が交錯していた。


「本当に...好きなところへ行っていいの?」

 ミラの声には、まだ疑いの色が残っていた。その目は、賑わう市場の方へと向けられている。


「ああ」

 レイヴンは頷く。

「今日は、ミラの行きたいところへ行こう。急ぐ必要はない。この街には、まだ見ていない景色がたくさんあるはずだ」


 露店の並ぶ通りには、様々な声が響いている。


「お嬢ちゃん、こっちこっち。今日の布地は特別だよ。見てごらん、この色合い。お嬢ちゃんのような可愛らしい子に似合うはずだ」


 商人の声に、ミラは一瞬体を固くする。「可愛らしい」という言葉に、嫌な記憶でも蘇ったのか、その瞳に一瞬の翳りが差す。


 そんな彼女の憂いを払う様に、レイヴンは小銭の入った布袋を取り出す。


「これを使えばいい、ミラの好きなように」


「こんなに...」

 ミラは布袋を受け取り、中身を確かめる。その手が、微かに震えている。

「お金を、自分で使っていいの?」


「ああ。どこで何を買うかも、全部ミラの自由だ」


 布地を売る露店の前に、ミラは足を止めた。色とりどりの布の中の、一枚の青いスカーフ。彼女の瞳が、その深い色合いに引き込まれていく。


「この色」

 ミラの指が、布地に触れる。

「こんな美しい染めは見たことがない」


「いい目を持ってますね、お嬢ちゃん」

 商人が声をかける。

「特別な染料を使って、丁寧に仕上げた逸品です。お値段は...」


 市場の喧騒が、二人の駆け引きを包み込んでいく。そうして、日が暮れるまでミラは市場を歩き回っていた


「少し休もう」


 レイヴンは市場の喧騒から離れた場所を指差した。アイゼンクラフトの高台。そこからは街全体を見渡すことができる。


「疲れた?」


「いや」レイヴンは首を振る。「ただ、あそこからの景色を見てほしいんだ」


 石段を上がりながら、ミラは新しく買ったスカーフの端を指でなぞっている。深い青の布地に施された模様が、夕暮れの光を柔らかく跳ね返していた。


 高台に着くと、レイヴンは何も言わず石の手すりに寄りかかった。目の前には、アイゼンクラフトの街が広がっている。露店の明かりが次々と灯されていく様子は、確かに美しかった。


 しかし、その景色の向こうには巨大な壁が聳え、その上にはさらに上層区画が広がっていた。白亜の建物群は、まるで下界を支配するかのように、その存在を主張している。教団の尖塔は、特に高くそびえ立ち、夕陽に照らされて不気味な影を落としていた。


 ミラの目が、その影を追う。その瞬間、彼女の表情が微かに曇った。


「ありがとう」

 突然、ミラが口を開く。視線は上層区画から離れない。

「市場で、あんなふうに...自由にさせてくれて」


 レイヴンは黙って頷いた。


「あのね」ミラは手すりに両手を置き、遠くを見つめる。その指先が、かすかに震えている。「レイモンドの屋敷のこと、話しても良い?」


「ああ」


「私たち養女は、見かけ上は贅沢な暮らしをしてた」ミラの声は静かだった。「豪華な衣装も、上等な食事も。でも、実際は違う」


 彼女は一瞬言葉を詰まらせ、無意識にスカーフの端を強く握りしめる。


「屋敷には、よく貴族の人たちが来てた。品定め、って呼んでた。私たちは、その人たちの前で自分の魅力をアピールしなきゃいけなかった」


 レイヴンの表情が強張る。ミラの声には、言葉では表現できない嫌悪が滲んでいた。


「もちろん、教典に背くようなことは一切ない。表向きは、礼儀作法の披露っていう建前」ミラは苦笑する。顔は笑っているのに、その目は死んだように潤みを失っていた。「でも、あの人たちの目は...下品で」


 ミラは自分の腕を抱くように組む。まるで、今この瞬間も、あの視線から身を守ろうとするかのように。

「今でも、みんなの引きつった笑顔が忘れられない」


 その声には、抑えきれない怒りが混じっていた。


「でも、中には逃げ出す子もいた。貴族の前でアピールを拒む子も。そういう子たちは...二度と戻ってこなかった」


「二度と?」


「レイモンドの様子で分かったの。そういう時、あの人はすごく機嫌が良かった」


 しばらくの、沈黙。ミラは、無意識のうちに唇を噛んで、感情を押し殺していた。


「マリアさんのことを、覚えていますか?」

 ミラの声が震える。

「私にとって、妹のような存在でした」

 彼女は抑えがたい心の渦を抑え込んで尚、言葉を続けようとしていた。


 レイヴンは黙って空を見上げる。


「俺にも妹がいた」


 レイヴン自身、自分が発した言葉に驚いていた。

 それはミラの記憶に呼応するように、自然に口から漏れ出す祈りのようなものだった。


「教会で働いていて、不器用な子だった。ある日の清掃中に、裁定者No.1の肖像画に倒れかかってしまった」


「それだけで?」


「ああ。教会の神官たちは『不敬』を声高に叫び、裁定者会に報告した。下層の者が、神の代理人の肖像画を汚すなど、決して許されることではないと」


 レイヴンは拳を握りしめる。その手には、無力さへの苛立ちが滲んでいた。


「誰もが知っていた。あの子に悪意なんてなかったことを。でも、上の連中にとって、下層の命なんて」


 ミラは黙って、その言葉の重みを受け止めていた。


 二人の沈黙を、夜風だけが撫でていく。ミラの手の中で、深い青のスカーフが、かすかに揺れていた。

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