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第1話『神託の放棄』

『神理典 序文』


 我らが神は、混沌より秩序を生み出された。

 その慈悲により、我らは裁きを与えられた。

 裁きは、生きとし生けるものの導きであり、

 その時は神のみぞ知る。

 祈りを捧げる者に、神は必ず応える。

 されど、その応えを解釈することは人に許され、

 解釈を実践することもまた、人に委ねられている。

 全ては神の采配の下にある。


 王城の儀式の間。高い天井から降り注ぐ光が、床一面を照らし出していた。壁掛けが風に揺れ、その動きが作る影が神聖な空間に命を宿らせる。


 エレイン・ヴァルフォードとレイヴン。二人は共に類まれな才能を持つ騎士として知られていた。しかし今日、その道は分かたれようとしていた。エレインは上層貴族の生まれ。幼い頃から神理典を学び、その教えを忠実に守ってきた優等生だった。その彼女が、今日の神託の儀式では立会人という立場に留められている。


 一方のレイヴンは、下層区画の出身。彼が神託によって選ばれたという知らせは、貴族たちの間で大きな物議を醸していた。黒を基調とした装いは、エレインの銀の甲冑とは対照的な印象を与える。しかし、その卓越した才能は誰もが認めるところだった。


 儀式の間の両側には、貴族たちが整然と並んでいた。彼らの視線には、レイヴンに対する軽蔑が見え隠れする。下層の者が裁定者に。それは貴族たちにとって、耐え難い現実だった。しかしエレインには、それ以上に複雑な思いが渦巻いていた。共に修練を重ねてきた同期。その彼が、自分とは違う高みへと登っていく。


「汝は神の光の下に選ばれし者なり」王の声が厳かに響く。「神託とは、この世に神の意志を顕現せしめる至高の力。それを受け取る資格があると認められた汝は、今この瞬間より、神の代理人として裁きを執行する権利と義務を授かるのだ」


「神の御名において、この神聖なる神託を、汝は受け入れるや」


 一瞬の静寂。儀式の最も重要な瞬間である。神託を受け入れることは、単なる力の授与ではない。それは神の意志を直接受け取り、その裁きを執行する重責を担うことを意味していた。


 誰もが、レイヴンの答えを待っている。


 その時──


「私は」


 突如として、レイヴンの声が響く。その声には、これまでとは違う感情が込められていた。会場の空気が、微かに震える。


「この神託を、謹んで辞退させていただきます」


 その言葉が、静かに、しかし確固たる意志を持って放たれた。


 場内が凍りつく。エレインの表情が強張り、側近たちの間にざわめきが走る。レイヴンを見る貴族たちの目には、明らかな動揺が見えた。神託という絶対の権威を、人の意志で拒むことなど、誰も想像したことがなかったのだ。


「余の耳が正しく聞き取ったとは思えぬが」王の声が低く震える。先ほどまでの厳かな調子は消え、その声には危うい響きが混じり始めていた。「もう一度、その不遜なる言葉を繰り返してみよ」


「この神聖なる神託を、私には担う資格がないと判断し、辞退させていただきます」


 レイヴンの声は静かだった。


「三年前、私の妹は裁きによって命を落としました。彼女の死に、どれほどの神の意志があったというのでしょう」


 その言葉に、広間に集まった貴族たちは眉を顰める。彼らの多くにとっては、下層の少女が受けた裁きなど記憶に留める価値も無かったのだ。


「この神託を受け入れることは、あの日の裁きを正しかったと認めることに等しい。それだけは、私にはできません」


 レイヴンは丁寧に、しかし決然とした口調で答えた。


「貴様」王の声が一変する。もはやそこには儀式の厳かさは微塵も残っていない。

 怒りに震える声。それは次第に大きくなっていく。


「下賤の身分であるにもかかわらず、神の慈悲により特別な選択を受けた者が、その神意に背くとは」


 レイヴンは静かに、しかし芯の通った声で返す。「人の手による裁きが、本当に神の意志を体現し得るものなのでしょうか」


 その言葉に、貴族たちの間から悲鳴に似た声が上がる。下層出身の者への異例の処遇を放棄することは、それだけでも死罪に値する不敬行為だった。しかも、神託の正当性そのものに疑問を投げかけるとは。


「冒涜者めが!」王の叫びが、儀式の間に轟く。その声には、もはや理性の響きは残されていなかった。「神への冒涜、王権への反逆、そして何より、神託という聖なる制度そのものへの挑戦。これほどの重罪が他にあろうか」


「警護の者ども!」王は立ち上がり、玉座から一歩踏み出す。「この不届き者を即刻捕らえよ。神への反逆者に相応しい裁きを、この場で執行せよ」


 衛兵たちが、一斉に動き出す。武具の音が石畳を震わせる。誰もが、このまま処刑が執行されると確信していた。エレインは、思わず目を閉じる。長年の同僚の最期を見届けることは、彼女にはできそうになかった。


 しかし、その時。


「その必要はありません」


 落ち着いた声が、儀式の間に静かに響き渡る。その声には、不思議な威厳が込められていた。それは怒りに満ちた王の声とは対照的な、深い静けさを湛えている。


 白を基調とした装束の男が、ゆっくりと前に進み出る。裁定者No.2、ルーク・サイファーである。

 衛兵たちの動きが止まる。その様子は、まるで時が凍りついたかのようだった。


 ルークは神理典の解釈において、最高の権威を持つ存在だ。神の意志を解釈し、その裁きを執行する裁定者。その中でもNo.2という高位にある彼の言葉は、時として王の意志さえも覆すことがある。


「レイヴンの身柄は、私が預からせていただきます」


 その言葉には、いかなる反論も許さない確固たる意志が込められていた。


「しかし、ルーク殿」王の声が震える。その声には、怒りと困惑が入り混じっている。「これほどの不敬、これほどの冒涜を。神託を放棄するとは、神そのものへの反逆に等しい」


 王は玉座から一歩踏み出し、ルークに向き直る。その姿には、王としての威厳と、神の僕としての焦燥が同居していた。


「神託の意味を、誰よりもご存知のはずのルーク殿が、なぜこのような」


「神意の解釈は、私たち裁定者に委ねられた務めです」


 ルークは静かに、しかし力強く言葉を紡ぐ。彼の声音には、長年神理典と向き合ってきたからこその確信が宿っていた。


「神託の放棄。確かにこれは前代未聞の事態です。しかし、それが即座に不敬に値するのか。その判断もまた、私たち裁定者が慎重に検討すべき事案ではないでしょうか」


 その言葉に、王は言葉を失う。確かにその通りだった。神理典における「不敬」の定義とその裁きは、裁定者たちの解釈に委ねられている。それは王といえども、介入できない領域なのだ。


「この件については、裁定者会議で慎重に協議させていただきます」


 ルークはそう告げると、レイヴンの方を振り返る。「来たまえ」


 レイヴンは静かに立ち上がり、ルークの後に続く。


「待って」


 エレインの声が響く。彼女は一歩前に出ようとしたが、すぐに周囲の視線を感じ取って動きを止める。騎士としての誇り、神理典への忠誠、そして同期への想い。相反する感情が、彼女の中で激しくぶつかり合っていた。


「なぜ」彼女の声は震えていた。「なぜ神託を...」


 レイヴンは立ち止まり、彼女を振り返る。その目には、かつて共に修練を重ねた日々の記憶が浮かんでいた。しかし、彼は何も言わない。ただ小さく首を振っただけだった。


 その仕草に、エレインは言葉を失う。彼女には分かっていた。レイヴンの選択が、単なる反抗ではないということを。しかし、その真意を理解することは、彼女にはまだ出来そうになかった。


 二人の足音が、石畳を静かに叩く。儀式の間に残された人々は、その音に聞き入るように動かない。やがて、その足音も遠ざかっていった。


 広間を後にした二人は、薄暗い回廊を進んでいく。ステンドグラスを通り抜けた光が、廊下に色とりどりの影を落としている。その光の中で、レイヴンは初めて口を開いた。


「なぜ、私を助けたのですか」


 ルークは立ち止まり、窓の外を見やる。そこからは、下層区画の暗い街並みが見渡せた。


「君は神託を放棄した。しかし、神を否定したわけではないだろう」


 レイヴンは黙って頷く。が、その表情には微かな違和感が浮かんでいた。


「私は、裁きの在り方を問うただけです」


「そうか」ルークの目が、柔らかな光を帯びる。


 レイヴンは窓の外を見やる。下層区画の暗い街並み。そこには、秩序の名の下に見捨てられた者たちが溢れている。


「確かに、世界には導きが必要かもしれない。でも、現状の体制は正常に機能していない」


「では、何が必要なのだ?」


「人が人として生きることへの理解。それだけです」


 ルークは長い間、黙っていた。レイヴンの言葉の中に、自分とは異なる何かを感じ取ったように。


「君の目が必要だ」ルークはようやく口を開く。「制度の中にいる私には見えないものを見る目が」

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