第26話 心の平穏
現在、四足歩行/山猫型の中型魔獣と交戦中。
メンバーは三人、僕とメルビスとミクリアさん。
僕は魔獣から距離を取り、指示が来るその時を待っている。
「デュアン!」
メルビスの声が響くと、僕は致命の一撃を入れるべく、距離はそのままに魔獣の横へ移動した。
メルビスは魔獣の飛びつきを躱し、着地点に魔力物質を設置と魔力の射出で着地を阻害する。
すると、既に尻尾と右後ろ脚を切断されていた魔獣は、思惑通りにバランスを崩した。
「はぁ!」
僕は自身の背丈程もある重厚な剣を振りかぶり、一気に魔獣の元まで肉薄した。
――狙いは、魔獣の首筋。
接近後、右足で着地し、そのまま左足を付いて勢いを左足に溜め、前のめりになりながら全力で剣を振るう。
剣が魔獣へ触れる瞬間、刃先から硬度属性を付与した魔力を放出し、表皮を切り裂いた。
そのまま、肉が露出した場所へ剣を入れる。
魔獣の筋肉は僕の刃を食い留めんと抵抗するも、無慈悲にその全てを一息に断裂した。
――切り裂かれた首元は、丁度頸椎を露出させた。
ここで僕の役目は終わり。
作用魔導で乱雑に自身を左方へ吹き飛ばし、その場をミクリアさんに明け渡す。
間髪入れずに後方から接近したミクリアさんは、握られた槍を露出した頸椎目掛けて一突き。
直後、突き刺さった槍の先から氷結属性の魔力が放たれた。
急所を凍結された魔獣は意識を失い、その場に力なく倒れこむ。
「終わったわね」
僕たちは声のした方を向く。
声の主は、離れた所で様子を見守っていたノアさんだった。
ノアさんは言葉を続ける。
「『中級/中位』の魔獣を三人で倒せるパーティなんて中々ないわよ。よくやったわね」
彼女は、いつもながらに活発な笑顔。
「うん! これだけ成果を上げたら上級ハンターとして認めてくれるかな!?」
「まだダメでしょうね。少なくともここから一年は成果を上げ続けないと」
ノアさんは腕を組んで現実を語った。
「そっかあ。やっぱり上級ハンターって凄い人たちなんだね」
「当然よ。あまりギルドで会うことはないでしょうけどね」
戦いの術を教える立場のノアさんですらこの言い様なんだから、僕が想像しているよりも凄い人たちなんだと思う。
過去に街を救った英雄なんかは物語として広く語られるために名を残すけど、ひたすらにギルドからの依頼をこなしているようなハンターたちのことを語る人は少ない。
そもそも表に顔を出すことすら少ないから、当然と言えなくもないけど。
でもなんでギルドに来ないんだろう?
「なんでギルドに顔を出さないの?」
ふと浮かんできた疑問を投げかけた。
「単純に必要がないのよ。知識は各々がギルド以外で入手する術を持ってるだろうし、依頼だって拠点に直接届けられるわ」
特に迷うこともなく理由を教えてくれた。
かつて上級ハンターとして活動していただけに、説得力がある。
「でも、街が襲撃された時でも上級ハンターが駆り出されることはすくないんだよね? どうして?」
「それは襲撃してくる魔獣の強さによるだろうけど、基本的には中級ハンターで事足りる場合が殆どなのよ。
上級ハンターの実力なら、その襲撃を起こすような主犯格の魔獣を直接討伐してもらう方が効率がいいでしょ?」
なるほど……。
上級ハンターと認められたパーティは、ローズギルド程の力があるとノアさんが言っていた。
その人達からすれば、中級以下のハンターはむしろ邪魔なのかもしれない。
そんな会話をしている最中、メルビスとミクリアさんは死体の回収をしていたので、僕も手伝いに向かった。
今は四肢を分解しているようだ。
「メルビスは嬉しくないの?」
「嬉しいわよ。達成感もあったし」
彼女はいつもながらに素っ気ない。
ニャータを失ってからは大体こんな感じだ。
寒期が始まる直前。
僕たちがペセイルに構えた拠点の地下で稽古をしている頃だ。
ノアさんの部下が密かに山賊の拠点の様子を伺いに向かうと、奴隷だったと思われる死体が乱雑している場所に、四肢を失ったニャータと思われる人物が発見された。
生命反応を確認するために、望遠鏡という遠方を鮮明に映せるという画期的な道具を用いたそうだ。
結果、ニャータの瞳は光を映しておらず、呼吸の様子も見られなかったため、死亡したと断定された。
僕とメルビスはそのことを伝えられると、一時的に気力を失った。
ニャータの苦しみを想像しては胸が締め付けられ、涙が止まらなかった。
メルビスも同じ、いや僕以上に答えたようで、それから暫くは本当に悲惨だった。
部屋に閉じこもり、何度も自殺を図ってはノアさんに阻まれる日々。
でも、ノアさんはそんな彼女を見放すことなく、常に付きっ切りで回復をサポートしていた。
その甲斐あって、メルビスはハンター活動が出来るほどにまで回復した。
殆ど感情を表に出さなくなったけど、それはこれから少しずつ改善していけばいいと思ってる。
「これ、いくらくらいになるかな?」
帰り道、いつもながらにノアさんと売却額の話をする。
「恐らく200アテラくらいじゃないかしら? この魔獣の素材はそこまで需要がないのよね」
「じゃあ、ギルドからの依頼遂行報酬の500アテラと合わせて700アテラくらいかあ」
ふと後ろを向くと、ミクリアさんとメルビスが会話をしている。
ミクリアさんは笑顔だが、メルビスは時々少し笑う程度。
これも含めて、いつもの情景だ。
ノアさんは「時間が解決するだろうから、今は自分の事を考えていなさい」と言ってくれたけど、そこまで簡単に割り切れるほど僕は大人じゃないのだと思う。
気を使って、色々と話しかけてしまう。
それは、昔のメルビスに戻って欲しいと思っているからかな。
これから二日かけてギルドまで戻る。
途中、中級魔獣に襲われるだろうけど、それはノアさんが主体で相手をすることになっている。
本来は僕たちが相手をするけど、今回は初めて「中級/中位」の魔獣を討伐したという事で労ってくれた。
――夜の刻、現在地は洞窟。
辺りは闇に沈み、目の前の焚火だけが光を放っている。
肉が焼ける音は食欲をそそり、火の熱は心地よく肌を温め、時折吹く冷たい風は眠気を吹き飛ばす。
今は、焚火を囲んでご飯の用意をしている最中。
この時間はリラックスできるから好きだ。
「デュアン、枝入れて」
メルビスがぶっきらぼうに指示した。
「……メルビスが入れなよ」
僕はその態度に少しムカついたので言い返した。
「なんでよ。あんたの傍に枝の束があるんだから、あんたが入れなさいよ」
……確かにそうだ。
僕の近くにあるんだから僕が入れるべきだ。
――いや待って。
このまま言いなりになるのは癪だ。
一応だけど、このパーティは僕がリーダーという事になってる。
ここは上下関係……とまではいかなくても、威厳というものを見せた方が良いかもしれない。
なんか、そんな感じの事をニャータも言っていたような気がする。
そこで、足元の枝の束から一本の枝を拾い、メルビスの足元に投げた。
「……なによ」
「いや、枝が遠いんなら、近くにやればいいと思って――」
ゴン!
頭の丁度てっぺんを、強い衝撃が襲った。
顔を左に向けると、ノアさんと目が合う。
拳骨を貰ってしまった。
「あんた、男なんだからそれくらいやりなさいよ!」
一連の流れを静観していたが、痺れを切らしたようだった。
彼女はメルビスをとても大事にしてるから、あの行動を見ればこうなるのも頷ける。
しかし、僕にも言い分はある。
「一応僕、リーダーなんですよ? 威厳ってやつを――」
「リーダーは率先して仲間を助けるもんなの! あんたのはただの性格が悪い馬鹿よ!」
言われてみればそうかもしれない。
少なくとも、ニャータはこんなことはしていなかった。
悪戯は好きだったけど、笑えることを好んでいた気がする。
「ごめん、メルビス」
少々狼狽えた様子で素直に謝った。
「別に怒ってないわよ」
メルビスは顔を横に逸らし、そう言った。
「うふふ、やっぱり二人とも面白いですね」
ミクリアさんはいつも、僕たちを見て笑う。
大人の余裕ってやつなのかな?
年齢は僕が少し下とは言え、大差無かったはずだけど……。
精神面の成熟具合は大きく水をあけられているのかもしれない。
そんなことはさておき、寒い。
ここはキュラン山脈の比較的標高が高い場所。
辺り一面が氷か雪に覆われ、寒期になると全てが凍てつくほどの極冷となると言われている。
「にしても、やっぱり寒いね」
「そうねえ。ペセイルから結構離れてるし、面倒だわ。魔力濃度が薄くてちょっと気だるいし」
「でも、一面の雪景色は思わず心が躍るくらい綺麗ですよ?」
「最初だから言えんのよ。私は来るたびに嫌になっていくわ……」
ノアさんはそう言うと、木製のコップに注がれたお湯を啜った。
「はああぁぁぁ、沁みるわあ」
ノアさんは、みんなよりも多くの毛布に包まっている。
「ノアさんって、寒がりだったっけ? 寒期はそんなでも無かった気がするけど……」
「家の中と外では心の持ちようが違うのよ。なーんか、心が寒いのよ」
「うーん、ちょっとわかるような?」
「なんにせよ、温かいのが一番なのよ。ねぇー、メルビスー!」
ノアさんがメルビスに抱き着き、装備がガチャガチャと音を立てる。
「ちょっと、なんですか突然!」
「いいじゃないの、人肌は心が温まるのよー!」
「あはは! いいなー、温かそうだね!」
「そうですね。とても温かそう……ですー!」
「わぁ!?」
僕が笑顔で二人の様子を楽しんでいると、ミクリアさんも同じように抱き着いてきた。
「うふふ、温かいですねー!」
「あはは、本当だー!」
数分くらい経ったか、一通りはしゃぎ終えると、ふうと一息をついて落ち着きを取り戻した。
休息の時はこんな風に楽しい時間が流れることが多いから、特に精神的に癒される気がする。
「明日は何するの? 素材の回収は明日でしょ?」
「特に考えてないわ。植生の調査も一昨日やっちゃったし」
「じゃあ、草食魔獣でも狩る?」
「そうねぇ、ロックテリスとかは結構美味しいから、寒期の為に狩っておくのもいいかもしれないわね」
翌々日、討伐した魔獣の素材を回収地点まで運んで換金し、帰路についた。
ペセイルまでは二日ほどかかる。
道中は極力魔獣との戦闘を避ける為に、神経を擦り減らしながら隠密行動を取った。
「ふぅ、今回の遠征も大変だったね」
「そうね、寒かったわ」
「でも楽しかったですね!」
僕の呼びかけにメルビスとミクリアさんが返事をした。
「あんたたち、点検に出すから装備まとめときなさいね。ギルドへの報告が終わったら私が持ってくから」
「珍しいね。いつもは僕たちにやらせるのに」
「新しい装備のオーダーの件で話があるから、そのついでよ」
「あ、そうだったね! 楽しみだなー!」
「神樹の森」に援軍に向かうにあたってオーダーするって話だったっけ。
魔獣の皮を使ったアーマーで、胸当てとかの下に着るやつって言ってたかな。
多分鎖帷子見たいな役割を果たす装備だよね。
「じゃ、行ってくるわ」
ノアさんはそそくさとギルドへ向かった。
――翌日。
装備を点検に出している為、今日は休暇だ。
最近まで根詰めて修練に励んでいたから、久々に羽を伸ばせそうだ。
何をするか考え物だけど、メルビスを誘ってどこかに行ってみようかな。
そう思い立ち、メルビスの部屋へ向かう。
階段を昇り、部屋の扉に手をかけた。
「メルビス、今日は一緒に買い物でも――」
部屋の内部は、想像とは少し違った光景が広がっていた。
メルビスは硬直した様子でこちらを見つめている。
内部をまじまじと眺めていると、ドタドタと音を立てて誰かが階段を昇ってきた。
「あらら。まあ、いつかはこうなるわよね……」
ノアさんが緊張の糸が解けた様に言った。
僕はノアさんの方を向く。
「デュアン、ちょっとこっちに来なさい。説明するから」
ノアさんが歩き出した。
僕は部屋から目を離し、ノアさんに着いていく。
その間に、少し頭を整理しよう。
部屋の中には、沢山の「絵画」があった。
そしてそれは、ニャータを描いていた。
理由は分からないけど、結構な数だった。
部屋一面を覆い尽くすほど。
目的の部屋に到着すると、彼女は机に腰かけた。
ここは、ノアさんの部屋だ。
「どこから話せばいいかしらねえ……」
そうして、話は始まった。
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「そんなことがあったんですね」
ノアさんの話によると、メルビスは突然絵を描くようになり、そこから徐々に回復していったそうだ。
「知らぬ間に絵とか習いに行ってたみたいよ」
「凄い行動力ですね」
絵画の出来は、本人を見ながら書いたかのような克明さだった。
彼女がどれだけニャータを想っていたのかがよく分かるほど。
これが、愛ってやつなのかもしれない。
そう思ったので、メルビスの行動を全面的に肯定することに決めた。
僕はメルビスの部屋へ向かう。
コンコンッ
扉をノックしたが、返事はない。
「メルビス?」
部屋の扉を開け、恐る恐る名前を呼んだ。
これも、返事は帰ってこない。
部屋を見回すと、メルビスはベッドの上で毛布にくるまっていた。
「話は聞いたよ。凄いよ、愛だよこれは」
「…………」
想像よりも、メルビスの反応が悪かった。
なんだか、異様に気まずい空気が流れる。
あまりデリカシーが無い発言をしたら、もう二度と口を聞いてもらえないかもしれない気さえする。
言葉に詰まったので、部屋に飾られている絵画を眺めていく。
すると、一つ興味深いものを発見した。
「これ、僕とニャータ?」
その絵は、孤児院の裏路地で僕とニャータが初めて喧嘩した時の様子と思われる場面が描かれていた。
背景や陰影が鮮明に描かれている。
他の絵も同じく、これまでメルビスが見てきたであろう光景が、そのまま描き出されたような印象を受ける。
「ずっと覚えてるのよ。目で見た光景を」
メルビスは毛布にくるまったまま話し出した。
「ずっとって、一秒一秒全部?」
「流石にそこまでは無理。大抵は、印象深い体験をした時」
メルビスは素っ気ないながらも、しっかりと受け答えをしてくれた。
いつだか、ニャータからそんな人がいるっていう事を聞いたような気がする。
「凄いじゃん、売り物に出来るほどだよ」
「売らないわよ」
そういうつもりで言ったわけではなかったんだけどね?
まあでも、いつものメルビスだ。
再び部屋を眺めると、絵を描く紙と思われる物が真っ白であることが気になった。
「これは描かないの? まだ白紙みたいだけど……」
「さっき描き始めようと思ったのよ。貴方が来る前に」
なるほど、タイミングが悪かったわけだ。
「ねえメルビス。後ろで描くところ見ててもいい?」
「別にいいけど、あんまり邪魔しないでよ?」
そう言うと、彼女は絵を描くための準備を始めた。
――暫く待つ。
一度部屋を退出して、再び戻ってきたメルビスは道具を作業用の机に並べていく。
見た所、水と筆、色とりどりの粉が入ったガラス製の皿と木製の四角い板。
それと、何かが入った、手に収まる程の大きさの木製の器が机に並べられた。
次に、木製の器の中身を皿に適量注いでいく。
中身は粘性の強い液体のようだ。
全ての皿に注ぎ終えると、適当な木の棒でかき混ぜ始めた。
――ズズ、ズズ。
粉を潰す音が部屋を支配する。
その厳かな雰囲気は、言葉を発するのを躊躇うほど。
メルビスの混ぜる動作は、かなり慣れている様に見える。
ニャータの死亡を確認したという報告を受けて、失意から回復し始めた辺りから部屋に籠っていたから、始めたのは恐らくその頃。
と考えると、納得がいく。
――数分間混ぜ続けると、粒を擦り潰すような音は泥をこねる様な音へ変化した。
そこから更に混ぜると、色が段々と均一になっていく。
色のむらがなくなったところで、次の顔料を混ぜ始める。
それを繰り返すこと十数分、全ての色が完成した。
「随分掛かるんだね」
「まぁ、そうね」
メルビスは作った色を木製の四角い板に置いて、色と色を混ぜ始める。
「というか、あんたも静かにしてられるのね」
「まあ、僕に出来ることなんてないし……何よりメルビスの慣れた手付きは安心して見ていられたよ」
僕は、座っていたベッドへ身体の向きはそのままに倒れこんだ。
「ちょっと、寝ないでよ」
「ええー」
さっと起き上がり、部屋の隅にあった椅子を彼女の隣にまで持っていく。
何だかこの空間が心地よくて、思わず寝転がってしまった。
メルビスとはもう長い付き合いだけど、ここまで気を許したのは初めてかもしれない。
ふぅ、と息を吐いてから椅子に座る。
「視界に入ると集中力削がれるんだけど」
座った途端、文句を言われた。
「もう、繊細なんだから。ニャータと一緒だね」
立ち上がって、椅子を少し後ろへ動かす。
「……ニャータもそうだったの?」
スッと、メルビスの動きが止まった。
「そうだよ。料理中とかに顔を覗かせて見てると、邪魔だって顔を押しのけてきたもん」
「それはあんたが本当に邪魔なだけじゃない」
再び手が動き出した。
些細な会話は、作業中に何度か行われていく。
メルビスは笑ったりこそしないが、嫌そうな雰囲気じゃない。
何となく、発言に感情がこもっているような気がした。
暫くして、彼女は特にそれらしい動作もないままに淡々と色を乗せ始めた。
このタイミングで、これまで言うのが躊躇われたことを言ってみる。
「にしてもメルビス、随分素っ気なくなったよね」
案外、サラッと言えてしまった。
「もう長い付き合いだし、これくらいが丁度いいのよ、精神的に」
彼女もまた、気安い雰囲気だ。
その場に漂う雰囲気って、結局は自分自身が生み出した偶像でしかないのかもしれない。
所謂、先入観ってやつかな?
「これまでは何となく気まずかったんだけど、今はもう大丈夫になったよ」
「隠すつもりはなかったんだけど……悪かったわね」
何となく感じていた距離は縮まったようだ。
「今から描くのは、いつのやつ?」
「私が見た、最後の姿よ」
最後の姿。
ニャータは一体、どんな顔をしていたんだろう。
こうしてメルビスが再現してくれるのなら、見なくてはいけない様な気がした。
「ニャータ、本当にもう死んじゃったんだよね……」
「…………」
あ、これは良くなかったかもしれない。
この場の空気が一変したような気がした。
「ああ、ごめん。今はそんなこと言うべきじゃないよね」
「別に良いわよ」
メルビスはいつもの様に、短く返事をした。
やってしまったと、いま改めて実感する。
暫くは声を掛けない方が良いかもしれない。
今は、メルビスの心境が芳しい状態じゃなさそうだ。
僕は黙って絵の行く末を見守ることにした。
――数時間後。
「多分私の願望が生み出した感覚なんだと思うんだけど」
突然、メルビスが口を開いた。
「ニャータが生きてるような気がするのよ」
彼女はそう言った。
「……でも、ノアさんの部下の人が確認したんだよ?」
「そうね。でも、何となくそんな気がするのよ」
何となく、メルビスにしては珍しい言葉だった。
しかし、僕にとって、そう思うのは精神的に受け入れ難かった。
一度、感情の整理が付いてしまったから。
「…………」
「ごめん。忘れてちょうだい」
メルビスは気持ちを切り替えるように言い捨てた。
『ニャータが生きている』
そう考えたことは、知らせを受けてから考えたことは無かった。
何故か、受け入れて次に進まなければいけないって思っていたからだと思う。
一度それを考えてしまうと、どうしても縋りたくなってしまう。
生きている可能性を示唆する情報なんて一つもないのに。
未だに僕は、自立できてないみたいだ。
否定する勇気が、今の僕にはない。
心の中で溜息を付くと同時に、ニャータという存在の大きさを実感した。
「そう思うことで心が安らぐんだったら、今はそれでいいんじゃないかな」
メルビスの気持ちを慮ったわけではない。
最終的にその考え方が間違っていたとしても、今はその考え方で良いと思う。
そうやって回り道をしながら、きっといつか答えに辿り着くはずだから。
「……そうね、今は」
彼女は少し間を置いて、返事をした。
メルビスは、僕の言葉の意図を汲み取ってくれたと思う。
「今は」という部分を強調したからだ。
ニャータと話している時もそうだったけど、頭が良い人ってそういう所が優れているような気がする。
僕も見習わなきゃいけないかも。
どうすればいいか分からないけど。
「メルビスは頭が良いんだね」
「急になによ?」
「いや、言葉の奥の意思? を上手く読み取るなーって」
メルビスは考えているのか、少し間が空く。
「感情に敏感だからかもね。声色とかから可能性の低い意図を除外してるのよ……多分」
「へえー」
「何よ、その反応」
ふと自身の過去を振り返ってみると、確かに会話中そんなことを無意識的にしていた気がする。
「単純に感心したんだよ。やっぱり凄いね、メルビスは!」
「ありがとう、と言っておくわ」
彼女は反応に困った様子だった。
それからは絵の進捗に合わせて会話をする程度。
ずっと座っている状況に、僕は疲れてしまった。
「完成までどれくらいかかるの?」
「私の場合は、頭に浮かんでる情景をそのまま描き出してるだけだから、数日で完成することが多いわね」
え、今日中に終わらないの?
「え、今日中に終わらないの?」
心の底から言葉が湧き出た。
「終わらないわよ。馬鹿じゃないの」
「…………」
僕は馬鹿だったようだ。
「メルビス、今日の分終わったら料理屋に行こうよ。僕は暫く外ぶらついて来るね」
「わかったわ。28時に終わらせるから、それまでに帰ってきなさいね」
「はーい」
魔導具を売ってる店にでも行こうかな。
僕は彼女の部屋を出ると大きく伸びをして、外へ繋がる扉まで歩き出した。
 




