8 酸いも甘いもオランジェット
本日、二回目の投稿です。よろしくお願いいたします。
サミュエルの頷きに合わせて足と口を動かしていたら、謁見室から出ていた。
両親との邂逅もそこそこに、エスコートされて公爵家の紋章が眩い馬車まで移動する。グレタはロンバルディ公爵のタウンハウスに連れ去られた。
タウンハウスで初めて、壇上のスプリウスの近くに立っていたのがロンバルディ公爵夫妻だと理解した。サミュエルの父親と母親は、三男の結婚と後継者の決定を手放しで喜んでいた。驚くほどの祝福と好意を、グレタに浴びせた。母親からは抱き寄せられ、頬に受けたキスは数え切れなかった。父親は言葉の限りを尽くして、謝辞を贈っていた。
鳴り止まない歓迎の波状攻撃から、サミュエルに救い出された。
「公爵夫妻の名前を、聞いてない」
グレタはタウンハウスの東側にある部屋に来た。
「このまま領地に行くから、名前は覚えなくてもいいのよ」
返答に驚く間もなく、あてがわれた部屋に押されてはいった。
サミュエルが窓辺のソファに誘う。
隣り合って座った途端に、メイドがお茶を準備していた。手際の良さに口を開いていたら、部屋は二人っきりになった。
「三男なのに次期公爵に決まって、兄弟喧嘩にならない?」
一番の気懸りから、グレタは聞いてみる。
「グレタ自身の心配の前に、ロンバルディ公爵家を気遣ってるのね。グレタは可愛いわ。オランジェットを食べましょう」
「オレンジのコンフィに、チョコレートが掛かっている。サミュエル様が手で持つと、オレンジの色と銀髪が映える。食べても見てもおいしい。これお得だ!」
肩を揺らして、首を傾げる。堪え切れない笑みが、零れた。
「やっとグレタの笑顔が見られた。さあ、召し上げれ。オレンジを丁寧に洗って、ちょっと小さな穴を空けるの」
「穴から、オレンジの旨味が逃げそう」
円形のオランジェットの周囲を囲む僅かな皮には、穴の痕跡は見えない。
「逃さないわ。穴からあくを出すからまずは、茹でる」
抓んだオランジェットは堅くて、光っている。
「スライスしたら、鍋に並べて砂糖を入れて沸騰させる。半日冷まして、また砂糖で煮る。煮て冷ましてを三回繰り返す。砂糖でコーティングするのよ。しっかり乾かすタイプのコンフィね。最後に、風魔法を効かせたオーブンで乾燥させたわ」
オレンジの苦みとチョコレートのこくが、甘さを引き立たせる。サミュエルの言葉を待ちながら、グレタはオランジェットを食んだ。
グレタの動く口を楽しげに見ていたサミュエルが、僅かに間を眇めて話し出す。
「長男のヨエルは、魔法騎士団の第十二部隊に所属なの。地方を転々としている」
第十一から第二十部隊までは領主の要請に応じて、各領地に遠征していた。豊かな領地も多く、遠征を望む騎士も多かった。
「とは、名ばかりでね。美丈夫の歌手として引っ張りだこなの。魅惑の歌声のヨエルロンって言えば、知っているでしょう?」
口に広がるオランジェットの甘みを呑み込んで、グレタは激しく首を縦に動かして同意を示した。
「ヨエルロンの歌を一度聞いたら、恋に落ちる。二度目を聞いたら、子を孕む。私は一度目の歌声を、用心して遠くから聞いた。本当に、女性騎士が三日は働けなくなった危険人物。褒めてるよ」
騎士団慰問部隊が、各領地を巡回している。歌舞を広め、文化の伝道をしていると言われている。ヨエルロンは花形の歌手だった。数年に一度、デュメルジに戻ってきていた。騎士になったばかりの頃に、グレタも騎士団慰問部隊の公演を見た。
「ヨエルロンを続けるのが、長兄の夢なの。父様も母様も認めているわ」
グレタの疑問はさらに渦巻く。
「寛大な家族の中で育った次兄も、すごく気になる」
「セブエルは王立図書館の文官なのよ。でも――」
言い淀むサミュエルは、何かを思い出したのだろう。首を竦ませた。美しい人は、震える様子まで典雅だ。
「表向きは文官だとして、本当は何処で何を?」
ヨエルロン以上に、驚く存在になっているのだろうか。グレタの期待が高まって来る。
「セブエルに会いたがる御令嬢や御婦人が押し寄せて、図書館の床が抜けたのを知っているかしら? ロンバルディ公爵家って、無駄に皆が美形なの」
手を叩いた。有名な伝説だ。某貴族と聞いていたが、ロンバルディ公爵家の逸話とは始めて知った。学びが多い。グレタが生まれた頃にあったと聞いている。王立図書館は床が抜け、本が散乱し、一か月の休館を余儀なくされた。
「肖像画も食い入るように見た。だって、このタウンハウスには、受け継がれた美しさが、そこかしこにある。廊下の正面の御婦人は、垂涎の金髪。首に巻きたい。目も耳の形も完璧なる形。非の打ちどころがない。嫁にしたい!」
グレタは目にする優美な人々を、素直に賛美していた。称賛に値する美しさが、溢れていた。
テーブルの上には、最後の一枚のオランジェットが残った。
「タウンハウスを気に入ってもらえたようで、嬉しいわ。セブエルは今、南の王立図書館沿岸分室にいる。潮に洗われ、日に焼けつつ、精悍さが増しているらしいの。とてもデュメルジには戻れないわ」
デュメルジに戻れない兄弟ばかりだ。
サミュエルも同じだったはずだ。ダジェロ辺境に留まっていたのは、デュメルジの諠譟を嫌ったせいだろう。
二人の手が、同時に皿の上に伸びて指がぶつかった。
オランジェットの上で、竦んだグレタの指をサミュエルが捉えた。そのまま皿の上に手を下ろし、グレタの手といっしょにオランジェット掴む。
「お兄様たちは戻らず、サミュエル様が次期公爵になった」
話を振ると、サミュエルは立ち上がった。
「私の話は、おいおい伝えるわ。忘れないでね。グレタは歓迎されている。兄弟間の騒動はない。エスポジート子爵家も喜んでいる」
妖艶な笑みを浮かべて、グレタの手を食むようにオランジェットに齧るついた。歯形が残ったオランジェットが、グレタの掌に残る。
「完璧な政略結婚に向けて動き出しているの。これからは花嫁修業をするのよ。家政魔法の修得は、必須なの。効能は知っているかしら?」
サミュエルの逸話は何も掴めないまま、残ったオランジェットにグレタは瞠目した。
「家政魔法は掃除や洗濯は、長期に渡る清潔保持が可能。私は家政魔法が苦手。使える魔法の属性は、僅かな光と水。課税魔法と相性が悪い」
「苦手だから、修行なのよ。家政魔法の掃除や洗濯は、汚れを寄せ付けない優れ物ね。でも、調理だけの修得で十分よ」
家政魔法を用いて家事を行うと、魔法を用いない場合と違って、汚れを徹底的に除去した。汚れ難くなる利点があった。
「特に調理に関して使えば、確か、異物混入を防ぐ。毒が除去できる。このオランジェットは安全」
安心だと言い聞かせ、毒はないと確認して、もう食べつくしたオランジェットの多さに目を瞑る。最後の欠片を口に押し込んだ。チョコレートの風味に奥に、オレンジの香りがする。
「有効な手段だわ。ロンバルディ公爵家では、家政魔法を用いた調理の修得が、必須なの」
天幕の時間が終わったと、グレタは思い知った。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
オランジェットは、手間がかかりました。