11 赤いのはトマトだけ?
甘い婚約生活が、サミュエルにとってはもどかしく始まった。
魔法騎士団でのサミュエルの策略は、捗々しい成果を上げている。
一方でグレタの家政魔法の修得は、遅々として捗らない様子だと報告があった。
濃紺の騎士服に身を包んで、王宮から魔法騎士団の官舎に向かう。手にはまだ会議の資料を持っていた。持ち出し可能な資料は限られている。意味のない文字の羅列が、会議の無意味さをも示していた。
足音が追って来る。会議後には必ず、後を大臣の誰かが着いてくる。今日は宰相が走り寄って来た。
トゥスクル王国は魔法騎士団に重きを置いているため、文官も魔法騎士の経験を持つ。宰相のマッティア・サントーロ侯爵は六十歳になるが、若い頃は斥候にしたいほどの騎乗の技術を持っていた。赤ら顔で、頬がこけていた。
「サミュエル様が、めでたくも次期公爵になって下さった。あな、嬉しや。王宮も安堵しておりますぞ」
大仰な物言いが、サミュエルに追いついてきた。
「さて、婚約者様との御関係は如何でしょうか。答えなくとも分かります。サミュエル様の血色の良い顔色の華やかさに、精悍な立ち居振る舞い。充実の婚約生活を送っているのでしょうなあ」
見詰めた先で、顔の赤さは敵わないと浮かんだが、刹那に思いを鎮める。マッティアは策を弄する宰相だ。取り合わないのに限る御仁だ。
長い手足を巧みに動かして、マッティアはすり寄って来ていた。
「既に同衾――。おっと、年を取ると口が動かなくて弱ったものです。お許しを」
グレタを貶める発言に、心が波立つ。くしゃりと手の中で会議の資料が丸まった。
睨みつけたサミュエルをいなすように、マッティアが両手を振るう。
「同居をなさっていると聞き及んでおります」
今朝は、グレタと共に朝食を食べた。その時に褒められた銀髪の煌めきを思い出して、マッティアが吐き出す戯言をやり過ごす。躊躇いのないグレタの賛美は、サミュエルを勇気づける。
王宮を出たところに、見た覚えのない騎士がいた。太って、動きが悪そうな身体だった。マッティアが視線を送り、顎だけで動きを制している。
「あれは、カラビア伯爵家の三男のブルーノです。十八歳ですが長患いをしましてな、此度、口利きをして入隊したんです。お見知りおきください」
グレタからも上がっていた名前だ。面倒なほど丁寧で、胡散臭い様子だ。ブルーノの髪も瞳も、艶がなく乾いた枯草に似た金色をしていた。誰かに似ていると過ったが、思い出す前にサミュエルは動き出す。
聞かせたくない素振りで、勿体を付けてサミュエルは声を出す。僅かに風魔法を使って音を流す。
「政略結婚ですわ。誰でも相手にはなれた。偶然にも報告に来た王都で、天幕に引き込んだ――おっと、聞かなかったことにしてください。美しい子爵令嬢と出会いました。ロンバルディ公爵家は責任を重んじますの。公となった決断を、会議の場所以外で取り上げるは遺憾です。話題は配慮をしてほしい。聞かれたくないわ」
したり顔で頷いて、マッティアは声を潜めた。
「諸事情があるのでしょう。天晴れな御覚悟です。して婚約者様は、これから家政魔法の修得をするんですか? ならば、もっと他に御紹介できる高位貴族の令嬢もおりますぞ」
怒りに震え出さないように、嫣然と目で弧を描く。
「ロンバルディ公爵家の決定です。スプリウス国王の裁可を、まさか覆すとお考えですか? はたまた、婚約者に災いが降りかかるとお考えでしょうか?」
牽制のために最大に釘を刺しながら、威圧を込めて笑んだ。
顎を引くつかせて、マッティアが後退った。
「滅相もない。次期公爵になるまでが政略ですか?」
「私としては、結婚が決まったら公爵位がついてきた感じです」
軽い口調で、サミュエルは困惑しているのだと顔を歪めて見せた。
「サミュエル様が、遊んだ女に足を救われないようにと切に願ってますよ。御用がありましたら、お声掛けを待っております」
立ち止まったマッティアを残して、できるだけ優雅にサミュエルは足を運んだ。魔法騎士団の官舎が見えて来る。サミュエルを追う視線の種類が変わった。女騎士が、熱い目を送ってきている。
ランベルトと考え出した攻撃魔法の特別レッスンは、了承できる。
「だが、貴族令嬢とのお茶会は避けたかったわ。飲食をしないでいれば、遣り過ごせる。明日だったかな? 今日の午後かしら? 忘れちゃった」
体力のない貴族令嬢と時間を過ごすには、できる事が限られる。
「グレタみたいに計算するとか、計測機器を説明するとか、考えて欲しいわよ。もっと有意義で面白くて興味深い催し物は、ないわね」
サミュエルは、気に染まない行動ばかりをしている。全ては、グレタとの結婚を重要視していないとの振る舞いだ。
苦い思いを反芻する。疲れていた。衆人環視で、あそこまでやる必要があっただろうか。グレタがいたのにも気付いた。リッカルドの言葉が、蘇る。
「グレタが幸せに生きるため。私だって願っている。グレタを傷つけたいわけじゃあ、ないのよ」
目を上げた先に、紅水晶の瞳が動いた。グレタがいた。魔法騎士団の官舎の近くに植えてあるシュガーメイプルの木の間で、楽しそうにランチをしているようだ。
木の根元に座って、若い男女二人の騎士が側にいる。
「もうお昼なのね。忘れていた。最初は、家政魔法で作ったランチを持って来るって約束した。でもまだ一度も食べてないわ。残念ね。美味しそうに見えるわ」
グレタの口元に見えるのは、トマトが載ったブルスケッタのようだ。
女性騎士がグレタに話しかけると、笑い声が広がった。穏やかに紅水晶の瞳が煌めく。天幕の中では、あの色に輝いていたと思い出した。
引き込まれた紅水晶の瞳が、サミュエルを前に向かせてくれた。漫然とした計測が、役立つとの光明をグレタが齎した。冥闇に真摯に向き合う覚悟を、与えてくれた。紅水晶を曇らせない。紅水晶の輝きを穢したくない。
「本当にグレタは、聖域になったのよ」
何ものも侵してはならない存在が、サミュエルにとってのグレタだった。
グレタが勇ましく掲げた両手には、まだブルスケッタがあった。
「バゲットにオリーブオイルやニンニクを塗って、トマトやバジルを載せたブルスケッタね。火魔法で炙れば出来上がり。ああ、食べたい」
一歩踏み出した足が止まった。仲睦まじい様子に見られるのは、避けたい。政略結婚だと言い張った手前、まだマッティアが側にいるかもしれない。
「まあ、セストったら親しげに、あんなに近づくのは反則よ」
苛ついて、サミュエルは立ち去ることが出来なかった。
「どの口が言うのよ。冷静にならなくっちゃね。セストは、ダジェロ辺境からの護衛。落ち着いて、あれは護衛の任務、騎士の役割。恋人の距離じゃあない。セストなら安心よ。セストは安全確保のためにいるの」
リッカルドやランベルトが、グレタを守るわけにはいかない。だが、ダジェロ辺境に直接に関わる人物をグレタの側に配置しておきたかった。白羽の矢を当てたセストは、サミュエルと同じ副隊長の長男だ。剣の腕もある。信用に足る少年だ。セストの頬が赤く染まったのは、サミュエルの見間違いだ。セストに紅水晶の瞳が柔らかく注がれているのは、サミュエルの勘違いだ。二人が微笑み合って見えるのは、秋の日差しの所為だ。
足音が向かってきていた。手にした書類を、読んでいるように持ち上げる。
「サミュエル様はこちらにお出ででしたか。行き違いにならずに、安堵しました。お客人ですよ」
若い騎士は、リッカルドの部下だ。第十部隊は、働き者が揃っている。
「直ぐに行くわ」
朗らかに聞こえるように声を出し、シュガーメイプルに向かう視線を引き剥がした。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
近くの農家さんのトマトが、本当に美味しい。




