花弁
ひらり、とまた一枚、彼女のてのひらからこぼれた花弁が、風に舞いながら落ちていく。
何を考えるでもなく、ただそれを眺めている瞬間が、僕は一番好きだ。
彼女もまた、何も言わず、静かに花弁の落ちるさまを見ていた。
暖かな昼下がり。
彼女と出会った日(といっても、ほんの数日前だけど)のことを、ぼんやりと思い出してみる。
あの日も、今日のように暖かかった。十日ほど暗い部屋に閉じこもっていた僕が、久しぶりに外の世界を見た日だ。ぱりぱりと音を立てて崩れ落ちた壁から覗いた景色は、十日前と大して変わらないはずなのに、とてもまぶしく見えた。
思い切り伸びをして、翅が乾くのを待つ間、さてこれからどうしようかと考えながら辺りをきょろきょろと見回した。ぎこちなく翅を動かしながら、ひらひらと飛び上がる。――瞬間、僕の周りの空気が、今まで感じたことがないくらいに強く動いた。顔の横を、背後に向かって強く流れていく。僕の飛ぶ方向が変わると、空気の流れる向きもぐるぐると変わっていった。しばらくその感覚を楽しんだ後、お腹がすいたので目に留まった花の蜜を吸った。
それからまたひらひらと飛び上がった時、ざあっと強い風が吹いて、そして、目の前を、薄いきれいな桃色の花弁が舞うのを見た。僕は風が吹いてきた方を見た。
そこに、彼女はいた。小高い丘の上に、ひとりで佇んでいた。腕いっぱいに桃色の花弁をほころばせて、彼女はただそこに立っていた。
アッと息をのむ声が聞こえた。それが自分の声だと気づいてからも、僕はしばらく呆然としながら彼女を眺めていた。――なんて、なんて美しいんだろう。壁の中から外を見た時より、飛び上がって流れる空気を感じた時より、そしてもっと前――部屋に閉じこもる前に感じたどんな感動より、その瞬間、僕の体の中を駆け巡る衝撃は、僕を強く震わせた。
それから、僕はふらふらと、彼女の方へ飛んで行った。彼女が僕を見た。急に、自分はなんて情けない飛び方をしているのだろうと考えて、頬がかっと熱くなった。
「こ、こんにちは」
おずおずと話しかける。すると彼女はふわりと微笑んで、「こんにちは、かわいいアゲハ蝶さん」と返してくれた。
「あげはちょう?」僕は言った。聞いたことのない言葉だった。彼女は僕に向かっていったのだから、僕のことなのだろうか、と思った。
「あなたたちのことよ。みなそう呼んでいる・・・あなたはまだ、ほかのアゲハ蝶にはあっていないの?」
「この姿になってからは、まだ。そっか、僕たちはアゲハ蝶っていうんだね。それじゃあ、あなたはなんていうの?」彼女の足元の、できるだけ高い草を選んで、そこにとまって彼女の眼を見上げて言った。
「私は桜・・・そう呼ばれているわ」
「さ、く、ら・・・それじゃあ、初めまして、桜さん。僕はアゲハ蝶です」
きっと僕は初めからアゲハ蝶だったんだろうけど、今初めて自分の名前を彼女から聞いて、そうするとまるで彼女に名前を付けてもらったみたいだと思った。すると今度は気持ちがふわふわしてきて、無性に名乗ってみたくなった。だけどいざ名乗ってみるとすごく恥ずかしくなって、彼女が「こちらこそ初めまして、アゲハ蝶さん。私は桜です」と返してくれなかったら、恥ずかしさのあまり死んでしまうところだったんじゃないかと思う。
その日は新しいことばかりでくたびれてしまったので、彼女と少し話をして、さよならを言った後は、適当な場所を探してすぐに眠りについた。
次の日、僕は初めてほかのアゲハ蝶に会った。みんな明るくて元気で、会ったばかりの僕にも気さくに話しかけてくれて、とてもいい奴らだと思った。色んな色の花が咲いた花畑を飛び回って、おしゃべりをしたり花の蜜を吸ったりした後、僕はそいつらと別れて、昨日の丘に行った。そこにひとり佇む、彼女に会いに。
彼女はその日も、ひとりで丘の上にいた。花弁は風に乗って絶えず舞い落ちているのに、彼女の腕の中には、前の日と同じくらいの花がほころんでいた。
「こんにちは、桜さん」
すうっ、と息を吸って、吐いて、それからもう一度吸って、僕は彼女にあいさつした。
「あら、また来たのね」――その言葉に、ひやりとした。しつこい奴だと思われた?でも、彼女の言葉にとげとげしい感じは全くなかったし、なにより、彼女は嬉しそうに目を細めていた。僕はほっと胸をなでおろした。
「こんにちは、アゲハ蝶さん・・・他のアゲハ蝶にはもうあった?」
「うん、さっきまで一緒にいたよ。みんな気さくで、いい奴らだった」
そう答えると、彼女は「あら、」と目を丸くして言った。「それなのに、別れてきたの?私の近くには、あなたの好きそうな花も咲いていないのに」
「そうかもしれないけど、でも、君にあいたかったんだ」僕は思い切って答えた。
「まあ、嬉しい」と、本当に嬉しそうに彼女は言った。「夏になれば、日陰を求めていろんな動物が涼みに来るけれど、春だと誰も来ないもの。夏だって、私に話しかけるひとはいないのよ」
「なつ?」また知らない言葉だ。『アゲハ蝶』と同じように、それも僕の知っているものだろうか。「それに、はるって?」
「今の、暖かくて、花がたくさん咲いている季節のことを春というの。夏は春の次に来るとっても暑い季節のことね。私は春にはこの花を抱えているけど、夏にはみんな散ってしまって、今度は緑の葉を抱えるのよ」
彼女は僕の知らないことをたくさん知っていて、話をしていると、僕の知っていることもどんどん増えていくのがとてもおもしろかった。それに、話すたびに彼女が嬉しそうに笑うから、もっとたくさん話したいと思った。夕方が、夜が来てしまうのがもったいないと思った。
「今日は楽しかった。また明日も来てもいい?」
「ええ、いつでもどうぞ。私も、話し相手がいると楽しいわ」
次の日、前の日に仲良くなったアゲハ蝶たちと花畑を飛び回っていると、そいつらのひとりが「なあ、見ろよ」と、ある方向を示した。他の奴らと僕がそっちを見ると、女の子のアゲハ蝶たちがいた。
「あの中で誰が一番かわいいと思う?」
「俺はあの子が好き。あの、黄色い花の前にいるやつ」
「僕はあの子かな、笑ってる顔はあの子が一番かわいいよ」
みんなが女の子たちを見て盛り上がっている中で、ひとりが僕を小突いて尋ねた。
「なあ、お前はあの中で誰が好き?」
「えっ?・・・うーん、別に、好きなひとはいないかな」
もっと綺麗なひとを知っているし、とは、なんとなく口に出さないほうがいい気がした。だけど実際、その時そいつらと一緒に見た女の子たちの中で、桜さんよりも綺麗なひとなんてひとりもいないように見えた。
「なんだよ、お前の理想はもっと上か?」と、そいつはからかうように笑った。
その後、そいつらと別れようとすると、今度は別のひとりが尋ねてきた。
「お前さ、昨日も途中でいなくなったけど、どこで何してたんだ?」
そうするとほかの奴らも乗ってきて、口々にいろんなことを言ってきた。
「どこかにもっとおいしい蜜の花があるとか?」
「いや、もう彼女がいるとかだったりして」
「あ、じゃあ、さっき気のない返事してたのはそのせいか?」
「なんだよ、お前も隅に置けないなあ」
僕が否定しないものだから、みんな僕に恋人がいると決めてかかっているらしい。でも、そういう『好き』なのかはわからなかったけど、好きな人がいるのは確かだし、こいつらはいい奴らだし、言ってもいいかな、と思った。
「ん・・・恋人じゃないけど、好きなひと、ならいる、かな」
なんだか照れくさくて、途切れ途切れになってしまったけど、そいつらは目を輝かせた。誰、とか、いまどこに、とか、また口々に質問された。
「あそこ」
少し遠かったけれど、その場所からも彼女のいる丘は見えていた。でも、アゲハ蝶ではないからか、そいつらにはすぐわからなかったらしい。
「・・・どこだよ?」
「あそこ、あの、丘の上」それから、すぐに続けた。「桜さん」
途端、そいつらははっとした顔で僕を見た。今までに見たことがない表情だった。そいつらの目は、まるで、何か異質なものを見ているような目だった。
「なに、お前・・・、あの木が好きなわけ?」
『き』、また知らない言葉だ。きっと、彼女を表す言葉。なのにどうして、こんなに冷たく聞こえるんだろう?それに今のこいつの声はなんだ?こんな冷たい声、出せるなんて知らなかった。
僕は何も言わなかった。こいつらに言いたいことなんて、なにひとつ浮かんでこなかった。黙って背を向けて、ふらふらと丘を目指した。昼間のはずなのに、なぜだかひどく寒かった。
「こんにちは、アゲハ蝶さん・・・どうしたの?暗い顔をして」その日は彼女から話しかけてくれた。それはとても嬉しいことなのに、頭の中がぐちゃぐちゃで、少し冷静になりたかった。
「こんにちは、桜さん・・・ごめん、今ちょっと、よくわからなくて・・・ねえ、君の肩にとまってもいい?」
多分それは甘えだった。気が動転していることを言い訳にして、甘えたかっただけだ。でも彼女は受け入れてくれた。「ええ、いいわよ」と、それだけ言って微笑んでくれた。
僕は彼女の肩にとまった。足元の草にとまって見上げていた時より、ずっと近くに彼女の顔があった。僕は、それまでずっと考えていたことを、彼女に伝えることにした。
「あのね、」
一度言葉を切って、彼女の顔を見た。彼女は黙っていたけど、その顔は「なあに?」と言っている気がした。
「僕・・・僕ね、桜さんのことが好きなんだ。えっと、昨日は言いそびれたけど、花の中で桜さんが一番好きだよ」
「私は花じゃないわ」彼女はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、『き』?」あいつらが言った言葉だった。あの時はひどく冷たく感じたはずなのに、「そう、木、よ」と彼女が言うと、今度は不思議と温かい言葉に聞こえた。
「じゃあ、花と木を全部合わせたよりずっと好きだよ。僕が今まであったことがある全部の中で、一番好き」まっすぐに言葉を発しているつもりなのに、なぜかもどかしい。何と言ったら、僕が思ってることがうまく伝わるんだろう?
「ありがとう」と彼女は言った。いつもと変わらない、優しい笑顔。
「僕、変なのかな?アゲハ蝶の女の子を好きになるのが普通なの?」本当は、こんな質問をすること自体、変なのかもしれない。だけど、今ならなんだって聞ける、なんだって言える、そんな気がした。
「私は、誰かを好きになることに、『変』なんてないと思うわ」とても穏やかな声で、彼女はそう言った。「それって、きっと、とても自然なことよ」
温かい言葉だった。それは、まるでじんわりと僕の中を満たしていくようだった。いつの間にか、ぐちゃぐちゃだった頭も落ち着いていた。彼女といるとき、僕は一番安心できるのだと思った。それから、肩の震えが止まっていることに気がついて、そもそも自分が震えていたんだということに気がついた。
「ねえ、桜さん・・・僕、ずっとここにいてもいい?」僕は尋ねた。多分彼女はだめとは言わないだろう、となんとなく思った。案の定、「いいわよ」と穏やかな返事が返ってきた。
「ずっとだよ?僕、もうどこにも行かないからね。ずっと、桜さんと一緒にいるからね」まるで駄々っ子みたいな言葉。二回目の甘え。少しむきになっていると自分でも感じたけど、彼女はいつもと同じ優しい笑顔で、「ええ、好きなだけ、ここにいるといいわ」と言った。
そのときから、僕は蜜を吸いに行くことも、他のアゲハ蝶たちに会いに行くことも、それどころか、自分のこの翅を動かすことすらやめて、ただひたすら、彼女の肩にとまったまま、時折彼女と言葉を交わす以外には何もしなくなった。食事をやめたことで、ただでさえ短い僕の命がさらに短くなることは分かっていたけど、もう黄色と黒の翅をひらひらさせる蝶しかいないようなただの花畑に、何の魅力も感じなかった。彼女といられるだけで幸せで、彼女といられる瞬間だけが幸せだった。
ひらり。
また一枚、彼女の手から花弁が零れ落ちるのを見た。彼女の抱える花弁は、それでもまだ結構あるけど、僕が初めて見たときと比べたら、ずっと少なくなっていた。
ひらり。
僕の手足は、もううまく力が入らなくなっていた。彼女の肩にとまるというより、今はもう、しがみついている、と言ったほうが正しいくらいだった。翅にも力が入らないから、一度手を放してしまえば、二度とここまで上がってこられないのだろう。
ひらり。
・・・僕が死んだら、あの花弁のように、風に舞いながら落ちていくのだろうか。それも悪くないと思う。一瞬でも、まるで彼女の一部になれるみたいだ。それから花弁と一緒に、彼女の足元に降り積もるのだろう。
ひらり、と、もう一枚花びらが舞うのを眺めた後、僕は口を開いた。
「僕、多分一目惚れってやつなんだと思う」彼女は何も言わなかったけど、確かに僕の言葉に耳を傾けていると感じた。僕は続ける。
「僕が今の姿――翅のある、蝶の姿になってから、初めて世界を見た日、その日に、桜さんと出会ったんだ。風がざあっと吹いて、目の前を花弁が流れたの。それで、君に気づいたんだ。あのとき、たくさんの花弁を抱えて立っている桜さんを見て、なんて美しいんだろうって思ったんだよ」
「私は、」僕が言い終わるのを待っていたかのように、彼女は口を開いた。「私に話しかけるひとがいないのはね、私が話せることを知らないからなの」
それが僕の話と関係があるのかはわからなかったけど、今度は僕が聞く番だと思った。
「アゲハ蝶さんのように自分で動けるひとたちは、普通、動かないひとたちも話せるなんて知らないし、思いつくこともないのよ」寂しい話だと思ったけど、彼女は目を細めて、とても嬉しそうだった。
「だけど、アゲハ蝶さん、あなたは違ったわね。私が話せること、初めから疑わなかった」なんて幸せそうな顔。彼女にこんな表情をさせているのが僕なんだと思うと、また体がじんわりと温かくなった。
「僕、ずっとここにいるよ」僕はまた口を開いた。「桜さんが寂しくないように、ずっとそばにいる」
「ありがとう」と彼女は笑った。きっと今、僕も彼女と同じような表情をしているんだろうな。温かい時間。大好きな薄い桃色と彼女の笑顔。
「僕、桜さんのこと大好きだよ」
瞼がひどく重たい。微睡に誘われるような感覚。僕は静かに目を閉じる。
弱い風が、動かなくなったアゲハ蝶の翅を軽く押した。ひらり、と宙に舞ったその体が、ゆっくりと積もった花弁の上に落ちるのをを見届けた後、桜は優しく囁いた。
「おやすみなさい、私の愛しいひと」