番外編:ひとつの傘
本編より少し後の、短い後日談です。
「――大丈夫ですよ、カミラさん。ゆっくり休んだら元気になりますからね」
オリビアは診察器具を片付けながら、ベッドに横になっているカミラに声をかけた。
老齢のカミラは季節の変わり目に風邪を引いてしまったらしく、オリビアは診療所まで来ることの難しい患者には訪問診療もおこなっているので、彼女の家に診察へと訪れていた。
幸い症状は軽く、同居する彼女の息子夫婦に薬の説明をして渡す。
「では、私はこれで失礼します」
「先生、ありがとうねえ……おや、雨が降ってきたようだ」
オリビアが帰ろうとしたとき、ぽつぽつと窓を打つ小さな音が聞こえてきた。
カミラの言葉で振り返ったオリビアは、雨が降り始めたことに気づく。
雨音は弱いから、きっと激しくは降らないだろう。
空も少し灰色の雲がかかっているくらいだ。
けれど、オリビアは落ちる雨を見ながらため息を零した。
雨はまだ少し苦手だ。
雨は辛い記憶と重なってしまう。
しかし、だからといって忘れたいわけでない。
忘れてしまえば、確かにあった大切な日々までもなくなってしまうようだから。
そんな相反する思いが、雨に対してより苦手意識を持ってしまう。
それにこのさき雨の降る日を避けるわけにもいかない。
天候はどうしようもないし、雨は恵みでもある、オリビアはそう心の中で思うしかなかった。
「先生。傘を貸すから、使ってお帰り」
「いえ、幸い雨は小降りですし、診療所までも近いですから……」
「しかし濡れてしまうよ。待っていなさい」
傘を取りにベッドから出ようとするカミラを、オリビアが慌てて止めようとしたとき、外から覚えのある声が聞こえてきた。
「先生ー、迎えに来たよー!」
明るくよく響く声は、レオンのものだ。
オリビアが窓を開けてみれば、傘を差しながら歩いてくる姿が見えた。
「先生、傘持って出なかったでしょ? 雨降ってきたから迎えに来たよ」
「迎え……けど、私の傘は……?」
レオンの手には、彼が今差している傘しかない。
もう片方の手は手ぶらだ。
オリビアの疑問に、レオンは白い歯をのぞかせて笑うと、差している傘を示した
「一本で充分」
数秒遅れて言葉の意味を理解したオリビアは、思わず耳元まで赤くなった。
そんなオリビアに、レオンは太陽のような笑顔を向ける。
「先生、一緒に帰ろ?」
小雨の落ちる薄暗い空が広がるのに、レオンの金色の髪はキラキラと輝いていて、まるで傘の中だけは陽が射しているようだ。
オリビアはしばらく黙ったままレオンと傘を交互に見ていたが、しばらくして部屋の中のカミラを振り返った。
「……カミラさん。迎えが来たので、大丈夫です。また明日来ますので、お大事にされてください」
そう伝えると、深くしわの刻まれた顔で優しく微笑まれて、オリビアは気恥ずかしくなって急ぎ足で後にした。
外に出ると、レオンが差していた傘を傾ける。
遠慮気味に傘の中に入ると、嬉しそうに笑う顔が見えて、オリビアは思わず視線を反らした。
雨でぬかるむ道をゆっくりと歩き出す。
雨が降ってきたからか、道に人影はなかった。
いつもお喋りなくらいのレオンが何も喋らないので、傘に落ちる雨の音だけが聞こえて、オリビアは少し落ち着かなかった。
自分の胸の音がいつもより大きく響いている気がして、それがレオンに聞こえてしまわないか心配になる。
ひとつの傘の中に二人で入るのはやっぱり狭く、肩が触れてしまいそうになって、オリビアは少し体を離そうとした。
「先生、もっとこっちに寄らないと濡れるよ?」
その瞬間、レオンは傘を持つ手を変えてオリビアの肩を引き寄せた。
「へ、平気です……っ。あなたこそ、肩が濡れています」
「俺は風邪引かないから大丈夫だよ。あ、でも風邪引いたら先生に看病して貰えるか!」
「自分から風邪を引くような人の看病なんてしません」
いつもの調子で笑うレオンに、オリビアは肩を抱き寄せていた手を軽く叩き返した。
レオンが大げさなくらいに痛がってみせるのを呆れた目で見上げる。
彼の声に合わせるように、傘に雨粒が落ちる音が聞こえた。
それは悲しい音ではない。
傘の下で、金色の髪がキラキラと輝いている。
雨はいつか止む。
降っているときは、こうして傘を差せばいい。
オリビアは、傘の持つ大きな手に自分の手を添えた――。
一年半ぶりの番外編更新でしたが、読んで頂きありがとうございました。