表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

3.射す光

※本日二度目の更新です。





 夫の訃報が届いたときのことを、オリビアはあまりよく覚えていない。

 ただ、あの日も雨だった。

 病で臥せっていた父が、弟子と娘婿を一度に失って泣く声が雨音と共に響き、その泣き声を聞いてオリビアは泣けなかった。

 病で弱っている父を支えなければ。

 夫の遺した診療所を守り抜かなければ。

 必死にそう思い続けて過ぎていった五年。


 いつ泣けばいいか分からないまま、記憶の中の雨は今もまだ止まない――。




***




 崩れた土砂で狭くなった道に多くの人が集まっている中を、オリビアは必死に探した。

 あの眩しいほどの金色の髪を。

 明るい声を。

 どうか、どうかという思いで必死に探し回っていたとき――。


「――先生っ?」


 泥だらけになりながら石を運んでいるレオンが、いつもと変わらない声音でそこにいた。

 顔も服も泥で汚れてはいるが、見える範囲に怪我をしている様子はない。


「先生、こんなところでどうしたのっ? ここにいたら危ないし汚れるから……っ」


 レオンは石を置いてオリビアの元に駆け寄った。


「道が崩れて……あなたが荷物をかばったと……」

「ああ! 大丈夫、ほら荷物は無事だから。山の上が崩れてきたけど間一髪みんな逃げたし、少し道を直そうってことになって――」


 土砂の被害がない一角に集めている荷物を示しながらいつもの表情で笑うレオンに、オリビアは拳を振り上げてその胸を叩いた。

 しかし、震えていた拳は弱々しい音を微かに立てるだけで、レオンはそんなオリビアを驚いた様子で振り返った。


「荷物のために危険を冒すような真似は止めてくださいッ……!」


 叩ききれなかった震える手でレオンの服を握りしめるオリビアは、張り上げた声とは裏腹に、体に力が入らなくてずるずるとしゃがみ込んだ。

 その体をレオンが慌てて手を伸ばして支える。


「ごめん、先生。心配をかけるつもりじゃなかったんだ……」

「っ……」


 レオンの手に支えられ、オリビアはもっと他に言いたいことはあるはずなのに、歯が震えて何も言えなかった。


「……怪我は……?」


 やっとの思いで言葉を絞り出して、怪我がないかを改めて確認する。


「大丈夫。他のみんなも大きな怪我を負ったやつはいない」

「そうですか……」


 崩れた土石を直していたせいか、手や顔に擦りむいたような跡はあったが、目立って大きな怪我は見当たらなかった。

 他の人々も同じ様子だ。

 オリビアは張り詰めていた緊張を少しずつ落ち着かせながら、先ほどからレオンの服を握り続けたままなことに気づいた。

 同時に、自分が彼に抱き着くような恰好だということにも気づき、遅れて恥ずかしさが込み上げ、慌てて離れようとしたとき――動かした手がレオンの服のポケットに当たった。

 その拍子に中から何かが零れ落ちる。


「あっ……」


 ぬかるんだ地面に落ちたそれに、先に声を発したのはオリビアではなくレオンの方だった。

 レオンが慌てた様子で拾い上げたものを見て、オリビアは思わず目を見開いた。


「なぜ、それがここに……?」


 それは、亡き夫が持っていた塗り薬の軟膏入れだった。

 なぜそれがレオンのポケットから出てきたのだろうか。

 レオンの顔を見てみれば、気まずそうな表情を浮かべていた――。








「――俺は、戦場でクラーク先生に治療して貰ったことがあるんだ」


 診療所へ戻り手当てをしながら、レオンの口から出てきた夫の名前にオリビアは小さく震えた。


「当時の俺は兵士になったばかりで、後先考えずに動くからしょっちゅう怪我をして、そのたびに治療してくれたクラーク先生は恩人だった」


 オリビアはこれまで、亡き夫の戦場での様子を聞いたことはなかった。

 治療中に戦闘に巻き込まれて、そのまま戦場で亡くなったという訃報が届いただけだった。

 そんな夫の戦場での様子を、レオンの口から聞く状況にまだ理解が追い付かず、ただ何かに駆られるように身についている仕草で治療を続けていた。

 ときおりレオンの気にかけるような視線を感じる。


「俺が向こう見ずだから、クラーク先生は自分がすぐに駆け付けられないときのためにって言って、この傷薬をくれたんだ。けどクラーク先生が戦死してしまったから家族に返そうと思って、この町に来たんだ」


 彼がこの町へ来たのは偶然ではなく、目的があって訪れたことを初めて知る。


「奥さんがいるのは知っていたからすぐ渡して去ろうと思ってた。けど診療所を覗いたら……一人で一生懸命に患者を診ている女性が見えた。必死に診療所を守ろうとしているのが伝わってきて、そんなときにいきなり遺品を見たらショックを受けるんじゃないかと、急に不安になったんだ……」


 レオンは軟膏入れを握りしめながら、落ち着かない素振りでなぞっている。

 その様子を見て、オリビアは診療所に戻ってからはじめて口を開いた。


「……夫を亡くした私を哀れに思いましたか? 夫に恩があったから、診療所の用心棒をして、気があるような素振りまで……」

「それは違う!」


 急にレオンが大声を上げて遮り、オリビアは驚いて唇を結んだ。

 その様子に気づいてレオンが慌てて語気を落とす。


「先生を哀れに思ったとか、気がある素振りとかではないんだ。俺、本当に先生に一目惚れしたんだ!」


 レオンはオリビアを見つめながら言った。


「あ、でも一目惚れっていうか、本当は先生に声をかける何日も前から見ていたんだ」

「はあ……」

「渡すタイミングを逃してしまってこっそり見ていたら……先生が患者に優しいところや、でも治そうとしない患者は厳しく叱り飛ばしているところとか、それも優しさからくる厳しさってみんな分かってるから町の人たちからも慕われてるのを知って、すごく惹かれたんだ」


 息をする暇もないくらい矢継ぎ早に語るレオンに、オリビアは思わず呆気にとられた。

 確かに治そうという気がない患者に厳しく言うこともあったが、いつの間にそんなところを見られていたのか、全く気付かなかった。

 人の口から聞く自分の印象に、何だか気恥ずかしさが込み上げてくる。


「だから、哀れに思ったとか、そういうのじゃないんだ。むしろ、恩人の遺品を返しに来たはずなのに、その奥さんに惚れちゃうって自分でもどうかしてるって思った……」


 レオンは短い金色の髪を無造作にかき回してから、遠慮がちにオリビアの手を取って軟膏入れを渡した。


「返すのが遅くなってごめん」


 オリビアは手の平に乗る軟膏入れを見つめた。

 最後に見たときよりも汚れて傷だらけになっている。

 これは、夫の戦地での記憶なのだろう。

 怪我をした人や病気で苦しんでいる人を見たら放っとけない優しい人だったから、きっと傷ついた多くの兵士たちの傷を治してきたのだろう。

 そして、戦場で戦ってきたレオンの手に渡り、彼の傷を治してきた記憶でもある。


「……これはあなたの物です」


 オリビアは軟膏入れ一度だけ握りしめてから、レオンの手に戻した。


「あの人があなたに渡したのなら、もうあなたの物です」

「けど……」

「この傷薬は、あなたの役に立ちましたか?」

「ああ、すごく助かった」

「でしたら、あの人も満足していると思います。どうか持っていてください」


 駆け付けられないときに使うようにと渡した傷薬が、夫が亡くなった後もレオンを助けていたのなら、きっと満足だっただろうと思った。


「……あの人の最期を知っていますか?」

「自力で動けない負傷兵たちを捨て置く命令に反発して、最後まで治療所を離れず……俺たちが駆け付けたときにはその場はもう全滅していた」

「そうだったんですね……」


 夫らしいと、オリビアは心の中で思った。

 詳細も知らないまま戦死の訃報だけが届き、オリビアの中ではたった一か月の結婚生活だけで戦地へ向かった背中しか残っていなかった。

 だから、夫が死んだといわれても、どこか現実的でなかった。

 けれど夫なら動けない負傷兵たちを見捨てることなんてできなかったはずだ。

 医者として、最期まで患者に寄り添い続けた姿が想像できて、ようやく夫の死が形となった気がする。

 きっと使命を全うしたはずだ。

 もっと多くの命を救いたいという心残りはあったはずだし、平和だったらやりたいこともあったはずだけど、それでも夫は自分の判断に後悔はしなかったはずだと、そう思った。

 傷のついた軟膏入れの上に、一つ二つと雫が落ちる。


「先生、ごめん……悲しい思いをさせてしまって、ごめん……」


 謝るレオンに、オリビアは声を詰まらせながら頭を横に振った。


「どうやっても亡くなった人は戻ってきません。……でも、あなたのおかげで、あの人が医者としての使命を全うできたのだと知ることができました……。あの人のことを教えてくださって、ありがとうございます……」


 言葉を発するたびに零れ落ちる涙が、思い出の遺品を濡らす。

 もしも、レオンが町を訪れたその日にこの軟膏入れを返していたとしても、オリビアはその場で取り乱すことも、泣くこともなかったと思う。

 訃報が届いたときのように、戦死したという実感も湧かず、きっとそうして永遠に泣きそびれたかもしれない。

 こうして夫の最期を聞かなければ、いつまでも泣けずに悲しみに蓋をし続けていたはずだと、オリビアは思った。

 今まで泣けずにいた涙が五年を経てようやく溢れ出た。


「……先生。俺、先生のことが好きなのは本当だよ」


 そんなオリビアを、レオンの腕が静かに抱きしめた。


「先生のことを哀れに思っているとか、同情とかじゃない。一生懸命な先生が好きなんだ」

「私は……」

「俺は見てのとおりクラーク先生とは正反対だし、先生がクラーク先生のことを忘れられないことも分かってる。俺のことを好きになってくれなくても良いから、先生の側にいたい。用心棒でも番犬でも、先生の側にいれるだけで良いから」


 いつもと変わらない声音で言うレオンに、オリビアの胸の奥が締め付けられる。

 変わらない明るい声が、余計に強く締め付けた。


「だめ、です……」

「先生……」

「私は、もう嫌なんです……。私より先に、大切な人が亡くなることが……」


 亡き夫が遠い地で亡くなったように、もしも預かりの知らないところでレオンになにかあればと考えると、恐ろしくてたまらない。

 今回みたいなことがあれば、そのときこそオリビアは自分を保てる自信がなかった。

 そう思うほどに、オリビアの中でレオンの存在はいつの間にか大きくなっていた。

 彼の明るい声や、一緒に食事をする時間が、一人きりだったオリビアの日々に形を残し、その形を失うことが恐かった。


「俺は、先生より先に死なないなんて約束はできない」

「っ……」

「戦場では、昨日まで一緒に飯を食っていた仲間や、さっきまで隣に立っていた奴が次の瞬間死ぬことなんて数えきれないくらいあった……。だから、死なないなんて不確かな約束はできないけど、生きてる間は先生の側にいるよ」


 レオンは口先だけの生半可な言葉は言わなかった。

 彼も戦場で多くを失い、たくさん傷ついてきたのだろう。

 失う辛さを知っているから、口先だけの優しさで誤魔化すような真似はしなかった。


「俺は喋りすぎだって言われるくらいだから、もう聞き飽きたって先生が思うまで好きだって言い続けるよ。うるさかったらそう言っていいから、気持ちを我慢しないで欲しい」


 そう言って、レオンは抱きしめている腕に力を込めた。

 強い力に包まれて、人がこんなにも温かいことをオリビアは久しぶりに感じた。


「……足りません」

「ん?」

「……まだ、足りませんから……もう一度言ってください……」


 オリビアの小さな呟きを、レオンは聞き逃さなかった。

 一瞬目を見開き、それからいつものように満面の笑顔を浮かべる。


「好きだよ、先生。毎日朝から晩まで言うから覚悟して」


 それがあまりに想像できて、オリビアは思わず笑った。

 口の中に入る涙の味を感じながらゆっくりと顔を上げると、金の髪色といつもの笑顔が眩しく視界に映る。


 降り続いて雨がようやく止み、光が射し込んだ――。





読んで頂きありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ