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2.雨




 オリビアの亡き夫は、いつも穏やかで優しく、十歳年上だったこともあり頼もしかった。

 医者としても優秀で、まだ勉強中だったオリビアが質問をすれば丁寧に教えてくれて、一緒に医学の本を読む時間が、恋という気持ちとは関係なく結婚する前から楽しかった。

 夫婦となった後も、共に医学の本を読みながら、診療所の将来を語り合ったりもした。


『もっと賑やかになっても良いかもしれない』

『診療所がですか?』

『笑い声は人の心を癒すし、そうなれば医者嫌いの人も来やすくなるかもしれないからね』


 そんな風に語り合う時間は心地よく、とても幸せだった。

 ずっとそんな日々が続くのだろうと思っていた。

 父の元で医学の勉強ばかりをしてきたオリビアには、恋や愛というものはよく分からなかった。

 ただ、この幸せな気持ちはいつか夫婦の愛となるのだろうと思っていた。

 共に過ごす時間がかけがえのないものとなるように、長く添い続ける中で大切な伴侶になるのだと。

 そう思っていたのに。

 新婚生活はたったの一ヵ月で終わりを告げ、医者としての使命を持って夫は戦場へ向かうこととなった。


『すぐに戻ってくるよ』


 戦場に向かうその日は雨が降っていた。

 いつもと同じ優しい声でそう言った夫を、オリビアは頷いて見送った。

 その言葉を疑わずに。

 雨の中に消えていく背中を見送り続けた。


 けれども、夫が帰ってくる日は二度と来なかった――。




***




「――先生。何を買うの?」


 後ろから聞こえるレオンの声に、オリビアは眉をひそめた。


「なぜついてくるのですか?」

「荷物持ちするって言ったじゃん」


 オリビアが眉をひそめても、レオンは気にすることもなくついてくる。

 今日は診療所が休みなので、買い出しに行こうと朝早くに家を出ようとしたら、レオンがいつもの定位置で待っていた。

 もしも彼に尻尾があれば、勢いよく振っているのではないかと思えるくらい嬉々とした姿だった。


「荷物くらい自分で持てます」


 オリビアは呟いた。

 今までずっと家のことも診療所のことも一人でこなしてきたのだ。

 それが当たり前だった。

 誰かに助けて貰わないと生きていけないわけではない。

 一人でも、亡き夫の遺した思いを継いでいける。


「確かに先生ならどんなに多くても自分で持ちそうだけど、俺体力余ってるんだから、何でも言ってよ」

「……」

「それに先生とデートしたいし」

「買い出しです」


 ぴしゃりとオリビアが言えば、レオンはいつものように笑った。

 こうなればまとめ買いをして持って貰おうとオリビアは思ったが、レオンは本当に軽々と抱えていき、いつになく身軽な買い物は思いのほか早く進んだ。

 昼近くになれば買い物客も多くなっていき、あちらこちらから賑やかな声が響く。

 市場はこんなにも賑やかだっただろうかと思って、いつも一人で来るときには買い物に集中していたことに気づいた。

 両腕が重くないからか余裕のある気持ちで周囲を見回せば、新しいお店や知らなかった品物も目に入ってきた。

 すぐ側にはレオンが購入した物を抱えていて、何だか申し訳なく思ったオリビアが荷物を持とうと手を伸ばすと、レオンが嬉しそうな笑顔を浮かべた。


「え? 手つなぐ?」

「っ違います!」


 レオンの手から荷物を取って、オリビアは先に歩みを進めた。

 後ろから追いかけてきたレオンが再び横に並んだとき、少し離れた場所から語気の荒い話し声が聞こえ、二人は声のする方へと目を向けた。

 若い男性の集団が青果店の前で何やら騒いでおり、今にも喧嘩を始めそうな雰囲気だ。

 店先で騒動を起こされた青果店の店主は困っている様子だが、間に入れば巻き込まれてしまいそうな雰囲気に誰もが遠巻きになっていたとき、レオンが集団に向かって近づき始めた。


「先生。ちょっと荷物見ていて」

「ケンカは止めてください」

「大丈夫、ケンカなんてしないよ。――おい、周りの迷惑になるだろ」


 レオンはオリビアに笑いかけてから、騒いでいる集団の方へと声を上げた。

 大声というほどではなかったがよく通る声音に、その集団は荒々しい雰囲気のまま振り返ったが、声の主がレオンだということに気づくと瞬く間に表情を変えた。


「げっ、レオンだ!」

「何を騒いでるんだ?」

「な、何でもないって!」


 先ほどまで周りが見えていない様子だった集団は、レオンに声をかけられるなり顔色を青く変えて走り去っていった。

 その途端に遠巻きになっていた周囲の買い物客たちから安堵の声が上がる。

 店先で騒動に巻き込まれそうになっていた青果店の店主も、安心した様子でレオンに声をかけた。


「助かったよ、レオン」

「親父さん、また困ったことがあれば言ってくれよ」

「頼りになるねぇ。これ、お礼に持って行ってくれ」


 店主は店に並んでいた果実を袋に詰めるとレオンに渡した。


「これは美味そうだ。いつもありがとな、親父さん」

「おまえさんのおかげで助かっているからね。あっ、先生もぜひ一緒に食べてください」

「えっ、あ……ありがとうございます」


 急に話をふられたオリビアは、一瞬遅れて慌ててお礼を言った。

 レオンが貰った果実を掲げながら戻ってくる。

 オリビアが一人で買い物に来たときには、こんな風に町の人たちから気さくにされたことはない。

 町の人たちは医者であるオリビアに敬意を払い、少しよそよそしい距離感はあった。

 オリビアも自分から気さくに話しかける性格ではなかったため、それを不満と思ったことはなかったが、隣にいるレオンは違った。

 彼が市場の中を歩けば、あちらこちらから呼びかけられる。

 レオンが何かを言うたびに明るい笑い声が沸き、賑やかだと思っていた市場がさらに賑やかさを増す。

 レオンがときおり町に出ていることは知っていたが、一体いつの間にこんな交友関係を築いていたのか、この町で生まれ育ったオリビアよりも町に馴染んでいた。

 彼の側にいるからか、町の人たちはオリビアにもいつもより気さくに挨拶をしてくれる。

 そのたびにオリビアは少し恐縮しながら、今まで知らなかった町の人たちの一面を見た気分だった。

 買い物を終えて市場から出ても、レオンは人とすれ違うたびに声をかけられていた。

 声をかける人たちの表情はみな明るく、一言二言交わすだけでもますます笑顔になっている。

 その様子を見ながら、平和だと、オリビアは心の奥で呟いた。

 長く続いていた戦争がようやく終わって、戦場へ赴いた兵士たちも傷を負いながらも戻ってきて、少しずつ以前の暮らしを取り戻し始めている。

 もちろん戦争で失ったことも多いが、戦争が終わったことで一区切りをつけ、新しいことに向き合い始めている雰囲気を感じた。


「レオン兄ちゃん、遊ぼう!」

「遊んでー!」


 途中で子どもたちもレオンの周りに集まり始め、賑やかな声を響かせた。

 子どもの笑い声が響くのは、平和な証だ。

 戦争中は暗かった子どもたちの顔に笑顔が戻ってきたことも、とても良いことだった。

 子どもたちはレオンの後をついてきて、その数は一人二人と増え、まるで行進のように連なっていく。


「今は先生の手伝い中だから後でな」

「ぼくも手伝う!」

「私も、私もー!」

「良い子だな。じゃあ、良い子にはこれをやるよ」

「わーい!」

「ありがとー!」


 レオンが先ほど貰った果物を子どもたちに分けると、みんな喜びながら後ろをついてくる。

 必然的にオリビアも子どもたちに囲まれる格好となり、慣れない状況に少し落ち着かない。

 診療所に来る子どもたちは泣いていることが多いので、こんなにも笑顔の子どもたちに囲まれることはめったになかった。

 すれ違う近所の人たちから優しい視線も感じ、診療所に着いた途端に子どもたちは庭を駆け回り始めた。

 レオンは荷物を診療所に置くなり子どもたちと遊び始め、時には子どもたちを肩に乗せたり両脇に器用に抱えたりして、そのたびに笑い声が響いた。

 しばらくすると、道中で出会った近所の人たちも集まりだして、診療所は休みだというのに大賑わいとなった。

 きっと、知らない人が見れば診療所とは思わず、子どもが多いから学校と思われるかもしれない。

 ふと、オリビアは亡き夫との会話を思い出した。

 亡き夫は、診療所を賑やかな場所にしたいと言っていた。

 人の心を癒す笑い声が響き、医者嫌いの人でも来やすい雰囲気にしたいと。

 まるで、それが現実となったような光景が目の前にあった。


「――先生?」


 呼ぶ声に、オリビアはハッとした。

 顔を上げれば、すぐ目の前にレオンが覗き込むようにして立っていた。


「ぼんやりしていたけど、どうかした?」

「いえ……」


 緩く首を横に振ると、レオンはいつもの笑顔を向けた。

 背後から彼を呼ぶ子どもの声が聞こえ、再び子どもたちの輪に戻っていくのを、オリビアは見つめ続けた。

 レオンは明るくお喋りで、まるで少年のような雰囲気をまとい、ときには呆れるほどの楽観的な部分がある。

 それでも、彼はいつの間にか人を惹きつける才能があった。

 この町に来てまだわずかだというのに、町の人たちから気さくに話しかけられ、子どもたちが取り囲むような、まるで太陽のような雰囲気を持っている。

 亡き夫は、そんなレオンとは正反対だった。

 いつだって穏やかで、勉強熱心で頼りになり、側にいると常に安心感があった。

 優しく微笑むことはあっても、大声を上げて笑うところなんて見たこともない。

 それなのに……。

 重なるところなんて一つもないはずなのに。

 亡き夫が思い描いていた診療所の光景が、レオンの周りで繰り広げられていることが不思議に思えた。


「――あ」


 オリビアのすぐ側で遊んでいた少女が、空を見上げながら声を上げた。

 少女の視線の先にオリビアも目を向ける。


「向こうのお空が真っ暗だよ」


 小さな指の先には、この明るい光景を覆ってしまうような黒い雨雲が広がっていた。







 雨が窓ガラスを打ち付ける音が響く。

 降り始めて数日がたっているが、まだ止む気配はない。

 雨なので診療所へ来る人も少なく、オリビアは先ほどから外を眺めていた。


「先生、どうかしたの?」


 いつもなら診療所前で用心棒をしているレオンも、雨が降っているため部屋の中におり、外を見ているオリビアに声をかけた。

 オリビアは見通しの悪い外を見つめながら呟いた。


「雨が続いているからか、包帯や薬の到着が遅れているんです……」


 この町は小さな町なので、大きな都市から生活用品などが運ばれてくる。

 診療所で使う医療品なども同じだ。

 今は雨が降っているために人々も家にこもっているが、晴れればまた診療所に訪れる人も増えるので、そのときに薬が足りなくなっては困る。

 しかし天候まではどうしようもないので、オリビアが無意識にため息を零したとき。


「じゃあ、俺が様子を見てこようか」

「え?」

「雨のせいで足止めされているだろうから、先回りして受け取ってくるよ」


 そう言うや否や、オリビアが何か言うよりも早く、レオンは外套を素早く羽織って言った。


「すぐに戻ってくるよ!」


 雨をものともせず飛び出したレオンの後ろ姿に、オリビアは思わず息を止めた。


『すぐに戻ってくるよ』


 それは、夫と最後の会話。

 あの日と同じ言葉に、オリビアは不安に駆られたが、足はまるで縫い付けられたかのように動かすことさえできなかった。

 雨の向こうに消えていくレオンの背中が、遠い日の記憶と重なった――。







 降り続いた雨がようやく止んだ。

 しかし、雨が止んで一日たっても、二日たっても、荷物を届ける行商人は町に着いていない。

 レオンも、いまだに戻ってこない。

 天候や荷を運ぶ馬に何かあったりして、行商人の到着が遅れることは決して珍しいことではない。

 薬はまだ残っており、もうしばらくは大丈夫だ。

 それでも、オリビアは落ち着かなかった。

 外で物音がするたびに急いで出入り口を開けてみたが、あの明るい声はまだ聞こえない。

 一体どうしたのだろうか。

 何か、あったのだろうか。

 もしかすると……。


「っ……」


 悪い不安ばかりが込み上げてしまう。

 オリビアは冷静さを失っていることを自覚し、新鮮な空気を吸って気持ちを切り替えようと外に出た。

 数日前まで続いていた雨で少し湿り気を帯びた風が頬を撫でる。

 そんな風と共に、焦る様子の声が耳に届いた。


「先生、大変だよ……っ!」

「カミラさん、どうしたのですか? そんなに急いでは体に……」


 よく診療所を訪れるカミラが弱った足で走ってくるのが見え、オリビアは慌てて駆け寄った。

 カミラの後ろから近所の人たちも青い顔で走ってくる。

 一体どうしたのだろうと思ったオリビアの耳に、息も止まりそうになる言葉が届いた。


「この間の大雨で少し先の道が崩れたらしく、先生のところの用心棒の彼が荷物を庇おうとして――」


 オリビアは話を最後まで聞く前に、診療所を飛び出した――。




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