1.診療所の獅子
※作中の医学は全て創作上のものです。
何年も続いた戦争がようやく終わった。
平和な日々が戻り、よく晴れた青空の下――。
「――先生! 怪我したから治療してくださーい!」
穏やかな空気を台無しにするくらい、怪我をしているというわりには無駄に明るい大声が響いた。
眉間にしわを寄せたオリビアに、診察を終えたばかりの目の前の患者はあらまあ、という風に苦笑を零した。
オリビアは一言断ってから、声が聞こえる窓へと向かった。
開いた窓の向こうには、背の高い若者がにこにことした表情で立っている。
「先生! ほら、指先から血が出てる」
窓から身を乗り出してきて示した指先には、ほんの少しの擦り傷にわずかに血が滲んでいる。
彼の腕や体中に残っている傷跡に比べれば痛くもかゆくもないだろう小さな傷と、痛みなんて微塵も感じていないだろう満面の笑みを見て、オリビアは眉間のしわをさらに深くしながら窓枠に手をかけた。
「それくらいは放っといても治ります。診療所では静かに!」
厳しい声音と共に窓を閉め、ついでにカーテンも勢いよく引っ張った。
後ろからくすくすと笑い声が聞こえて、オリビアは患者の前だったことを思い出し恥ずかしさが込み上げた。
「カミラさん、申し訳ありません」
「今日も先生へ熱心なアプローチだねぇ」
その言葉にオリビアは顔を顰めるしかできなかった。
診療所の近くに住んでいて付き合いが長く年長者のカミラは、そんなオリビアを見つめながら、穏やかな表情で語りかけた。
「おまえさんもそろそろ前に進んでいいんじゃないかねぇ。亡くなって、もう五年だよ……?」
優しい声音は心配していることが伝わるが、それでもオリビアは首を横に振る。
「私には、夫がいます……」
今も診療所に残されたままの大きな白衣を見つめて呟いた――……。
***
オリビアが結婚したのは、十九の頃だった。
相手は父の弟子で、十歳年上のクラークという名の医者だった。
元々、オリビアの家は女も医学を学ぶほどの根っからの医者の家系で、オリビア自身も父の元で医学の勉強をしてきた。
そのため昔から知っている医学の先輩でもあり兄弟子のような存在でもあり、病がちになった父が診療所を引き継がせると決めたときに、一人娘であったオリビアが結婚することとなった。
歳は離れていたけれど、真摯に患者に寄り添う姿勢や穏やかな性格を好ましく思っていたので、父が決めた結婚ではあったけれど特に不満はなく、立場が夫婦となっても穏やかな関係は変わらなかった。
けれどそんな新婚生活も長くは続かず、数年前に始まっていた戦争の長期化と共に町医者まで戦場へ駆り出されることとなり、結婚して一月後に夫のクラークは戦場へと向かった。
戦死の訃報が届いたのは、一年後のことだった。
それから五年が過ぎたつい最近、長すぎた戦争は勝利という形で終わりを迎えた。
しかし、町中まで戦場にならずにすんだとはいえ、戦争で失ったものは多かった。
夫に次ぎ、高齢で病を患っていたため戦場に駆り出されることはなかったオリビアの父までも、戦争が終わる少し前に亡くなった。
他の弟子たちも戦死してしまったり、怪我を負ったりして、夫が継ぐはずだった診療所をオリビアは一人で引き継いだ。
思いもよらなかったこととはいえ、幼いころから父に厳しく医学を教え込まれた経験と、父と夫の思いが遺された診療所を守りたい気持ちで必死だった。
これから先の人生は、医者として患者の痛みと心に寄り添い、亡き夫を思い出しながら静かに生きていこう。
そう思っていた。
***
空が橙に染まり始めた頃、オリビアは診療を終えて片づけを始めた。
今この診療所で診ている医者はオリビア一人なので、明日もすぐに診察が始められるように準備をすませ、ようやく帰ることができたときにはもう日がすっかり沈んで、辺りが暗くなっていた。
荷物を持って診療所の扉を開ければ、入り口前の木の下で人影が動いた。
「先生、仕事お疲れさま」
昼間、オリビアが追い出した若者だ。
名前をレオンという彼は、その名に合うたてがみのような金色の髪を持ち、診療所の入り口で守るように構える姿から、診療所の獅子――ではなくなぜか番犬と呼ばれている。
オリビアがそれを知ったのはつい最近のことだ。
勝手にひとの診療所を使って二つ名をつけないで欲しいと思った。
当の本人はその名を嬉々として受け入れているらしく、日々診療所の入り口近くで番犬のごとく患者を出迎えている。
しかし彼はこの診療所で働いているわけではない。
彼は最近この町にやってきた人物だ。
そして、オリビアの静かな生活に変化をもたらした存在だった。
レオンがこの町にやってきた日のことを、オリビアは今でも覚えている。
体中に傷跡のある姿で戦争帰りの兵士であることはすぐに分かり、診療所を尋ねてきたので治療を希望かと思って駆け寄ったオリビアに、レオンは突然「一目惚れした」と言ったのだ。
もしも戦争で物資が滞ってなく、消毒液が余るほどにあったのならば、彼に頭からかけていたかもしれないとオリビアは思った。
消毒液をかけることはできなかったが、オリビアは突然の不審者を診療所から追い出した。
それにも関わらず、彼は毎日オリビアの診療所へやってくるようになった。
オリビアより年下のまだ若い青年だが、先の戦争では活躍を見せたらしい腕は確かで、気づけばオリビアの診療所で用心棒のようなことを始め、いつのまにか町に馴染んで周囲からも用心棒として認識されていた。
その上、レオンのオリビアに対する気持ちは町中に知れ渡っている。
いくら追い出してもめげないレオンにオリビアは眉をひそめながら、彼の手元に目を向けた。
「……指の怪我はいかがですか?」
「指? ああ、先生が言ったとおり放っておいたら治ったみたいだ。さすが先生」
「それくらいは医者でなくても分かります」
レオンはオリビアに言われるまですっかり指先の小さな怪我のことを忘れていたらしく、すっかり血も止まっている指を持ち上げて笑った。
彼はよく笑うとオリビアは思った。
獅子という名のわりに、甘え癖のある大型犬のようだ。
「指よりも、こちらの怪我の治療が必要です」
オリビアは手を伸ばして、レオンの金色の前髪をよけると、現れた切り傷に目を細めた。
「ああ、さっき取っ組み合いになったときに切ったのかな?」
指先の小さな傷には気づいたのに、オリビアに指摘されるまで額の怪我には気づいていなかったらしく、レオンはまるで他人事のようにあっけらかんと言った。
取っ組み合いというのは、この診療所にくる迷惑な人たちとのことだろう。
診療所といえば病人や怪我人など弱った人が来ると思われがちだが、ならず者や女の医師を侮る人も少なからずいて、診療にいちゃもんをつけられることも少なくはなかった。
そういったことも含めて今まで一人でこなしてきたオリビアだったが、今はレオンがそういう相手の対応をしている。
女だと舐めてかかる人たちも、男相手には無茶苦茶なことは言わないらしい。
用心棒とも番犬とも呼ばれているが、実際に彼のおかげで診察がしやすくなったのは事実だ。
腕前を見込まれて自警団からの誘いもあるようだが、オリビアの診療所の用心棒をしたいと言って断っているらしい。
なぜこんな小さな診療所にそこまでするのかオリビアには理由が分からなかった。
「手当をします。診療所は片付けてしまっているので、後ろに回ってください。あと、もうすぐ夕食の時間なので、一人分も二人分も同じですから用意します」
オリビアが診療所の裏にある自宅へと足を向けると、レオンがその顔に満面の笑みを浮かべてついてきた。
本当に、獅子というより大型犬のようだと思う。
オリビアが診療所の用心棒を頼んだわけではないが助かっているのは事実であり、しかし報酬を払えるほどの余裕はないので、せめてものお礼にとこうして食事を用意している。
レオンは他で力仕事を手伝って稼いだりもしているらしく町中に部屋を借りて生活をしているようだが、彼が食事に気を使っているとは思えないので、これは医者としての責任感でもあると、オリビアは自分に言い聞かせていた。
それに、昔は父や夫、そして弟子たちが下宿していた家はいつも賑やかだったけれど、一人となった今では静かすぎた。
そんな静かな自宅だが、今は後ろからお腹の鳴る音が聞こえる。
空腹を主張するレオンに、まずは傷の手当が先だと言って椅子に座らせる。
まだ滲んでいる血を拭きとれば、少し深い傷跡が現れた。
「痛くなかったのですか?」
「戦争のときの怪我に比べれば、これくらいかすり傷だから」
だったら指先の小さな擦り傷は怪我にも入らないだろうにと、オリビアは呆れた。
戦地から帰ってきた人々に共通することだが、レオンはその腕や顔にも大小の傷跡が残っている。
オリビアは医者として招集されることはなかったので戦地を見たことはないが、彼はきっと厳しい中を潜り抜けてきたのだろうと感じ取れた。
そんな戦地に医者として出向いた亡き夫は、どんな思いで来る日も来る日も傷ついた兵士を治療したのだろうと考えていると、レオンがじっと見つめてきた。
「先生がキスでもしてくれたらすぐに治るんだけどなぁ」
「っふざけないでください!」
「いたっ! 先生、その消毒液めちゃくちゃ染みるっ……!」
レオンがこうしたからかいをするのは、もはや日常と化している。
初めて会った日に診療所から追い出したときから、オリビアの対応も変わらない。
昼間、カミラに言ったように、夫を亡くしたオリビアにはもう結婚も恋愛の意志もない。
医者としての役目を夫の分まで全うするつもりだ。
「終わりです。今後は怪我をしないよう気を付けてください」
染みる消毒液を塗り込んで手当てを終える。
次は夕食の支度にとりかかろうと台所へ向かえば、レオンも後ろをついてきた。
「何を手伝ったら良い?」
「座って待っていてかまいません」
「先生と台所に並んで新婚さんごっこしたいんだよ」
「鍋に水を入れて沸かしてください」
「えっ、無視!?」
早くに母親を亡くしたオリビアは、昔から父やその弟子たちの分も食事を作ってきたので手伝いは必要としないが、レオンは大型犬のようにじゃれついてくる。
亡き夫は手先は器用だったはずなのに料理の才能はからっきしで、台所で並んだ記憶は短い新婚生活の間でもなかった。
それが、見ず知らずの青年と並んで食事を作っていることは、少し不思議な気分だった。
オリビアはレオンのことを詳しくは知らない。
彼は明るくお喋りなわりに自分のことは話さないので、きっと町の人々も彼のことについて知っているのはレオンという名前と戦地帰りの兵士ということくらいだ。
一度だけ、どうしてこの町に来たのか聞いたことはある。
しかし、「先生と出会うために引き寄せられた」といつものふざけた調子で言われただけだ。
それからはオリビアも聞こうとしていない。
横目で隣を伺えば、鼻歌交じりに鍋をかき回している。
少し音程の外れたその歌が何とも平穏だった。
食事ができあがり、一緒にテーブルについて食べながらも、レオンは明るく喋り続ける。
「やっぱり先生の料理は美味いなー!」
「半分はあなたが作ったじゃないですか」
「半分は先生が作ったってことが重要なんだよ」
まだ父が元気だったころには多くの弟子たちが集まって食事を囲んでいたテーブルは大きく、オリビアとレオンの二人では場所を余らせるくらいだ。
それでも、一人で食べていたころに比べれば、父も夫もいた頃ほどとはいえないが賑やかに感じた。
「そういえば先生、今週末買い出しに行くんだって? 俺が荷物持ちするよ」
「どこで聞いたんですか?」
「先生の言葉だったらよく聞こえるんだ」
多めに盛ったスープを食べながら、レオンが笑顔を向ける。
「週末、迎えに行くから」
一緒に行くなんて一言も言っていないのに、いつの間にかそうなっている。
相変わらずマイペースなところに呆れながらも、一人ではない食卓は明るく賑やかで、一人で食べるときと味が違う気がした。