アナスタシア・ヴィンセントという傑物(ロ)
「そういえば、以前マルセル様がそんなことをおっしゃっていました。シャルクがここまで発展したのはミレイア様のおかげだと」
「その通りです。数多ある社交会の中で、旦那様が奥様を見初めてご婚約されたのですが。ご結婚する前から領地運営について、奥様のダメ出しがすごくって」
「ダメ出し?」
「やれ無駄が多すぎるだの、軍備にお金をかけ過ぎだの、美味しいワインがあるのに販路を広げないのは何故か、など。普段は武器がなければ素手で魔物と対峙するほど勇猛な旦那様も、この時の奥様の剣幕にはタジタジで。メイド仲間といつ婚約破棄するかと噂していたほどでした」
「なんというか、今のミレイア様から容易に想像できる光景です。ですが、ご結婚されたということは、マルセル様はそれを許容されたということですよね? 女性が領地運営に口出しするのを嫌う男性は多いと聞きますが、マルセル様はそうではなかったということですか」
「たぶん、クレマン様とアナスタシア様のご関係を普段から目にしていたからでしょう。べつに領地運営に関して大きく口出しするようなことはありませんでしたが、アナスタシア様はクレマン様の許可なく勝手な行動を取ることが多い方でしたから」
「勝手な行動?」
「この時はまだ私もヴィンセント家のメイドだったのですが。例えば、領主であるクレマン様の許可なく、戦争で行き場を無くした人達を城内に招き入れ、率先して炊き出しを行ったり。自殺しようとしていた少女を屋敷に招き入れ、勝手にメイドとして雇ってしまったり。クレマン様に内緒で離婚の手続きを進めていたり。それはもう、クレマン様が手を焼くほど自由気ままな方でした」
「自由気ままって……どこかの誰か様と同じような匂いがします」
パッと頭に思い浮かんだのは、自由最高、と書かれたプラカードを掲げたアンジェリーク様だった。
「ロゼッタさんも、その方に手を焼いておられるのですね?」
「ええ、それはもう。クレマン様のお気持ちが痛いほどよくわかります」
「あら、まあ」
アンナさんはフフフっと笑う。その後でコーヒーを一口飲んだ。そして、昔を懐かしむような眼差しで窓の外へと視線を移す。
「確かにアナスタシア様は自由気ままで困った人ではありましたが、不思議と誰からも愛されるような方でした。それは、みなアナスタシア様が己のためではなく、誰かのために動く方だと知っていたからだと思います」
「誰かのために、ですか」
「ええ。こんな話を聞いたことはありませんか? 戦時中、フィラーレン国との停戦協議の中で、お互いに身内一人を人質に差し出すことで停戦に合意する、という無茶な案が提示されたと」
「ええ、聞いたことがあります。とても有名な話です。こんな冗談みたいな提案をしてくる時点でお互いに停戦する気はなかった、というのが多くの者の見解らしいですね」
「その通りです。その時は、こんな提案誰も信じていませんでした。ですが、信じがたいことに、それを呑んだクレマン様と向こうの軍の総大将が、お互いの大切な身内を一人ずつ差し出して、本当に停戦を実現させてしまった」
「クレマン様はアナスタシア様を、向こうは生まれたての赤ん坊を、でしたね。これも有名な話です。クレマン様がいかに一途に奥様を愛されていたかは周知の事実でしたから、そこまで大切な方を差し出してまで国を守ろうとしたクレマン様のお姿に、多くの者が感動したとか」
「実はそれ、ちょっと違うんです」
アンナさんが、わざと声を潜めて悪戯っぽく笑う。私は「え?」と首を傾げた。そんな様子がおかしいのか、彼女はまたクスクス笑う。
「違う、とはどういうことですか?」
「実は、クレマン様もこの提案には反対されていたんですよ」
「えっ? そうなのですか」
「ええ。人質になればどんな扱いを受けるかわからないし、向こうが本当に停戦するかもわからない。そんな状態でアナスタシア様を人質として渡せないと」
「ですが、現実にアナスタシア様はフィラーレン国の人質になったのですよね?」
「ええ。実はこれ、アナスタシア様がクレマン様の許可なく勝手に行動を起こしてしまった結果なんです」
「勝手にって……まさかっ」
「クレマン様に相談もせず、片手で数えられるくらいの護衛だけ連れて、勝手にフィラーレン国の総大将のお屋敷まで行ってしまわれたのです」
「そんなっ……無茶です。戦争中ですよ? もし道中に敵国の兵士と遭遇して、カルツィオーネ辺境伯の夫人だとバレれば、人質どころか殺されかねない。そうでなくとも魔物が多いこの土地で危険だというのに。そんな無謀なこと……」
「されたのです、アナスタシア様は。私一人が人質になることで、この戦争が終わるのならと。親しい家臣や領民達が亡くなっていくのを、もうこれ以上黙って見ていられないと。そうおっしゃって。本当に、とてもお優しい方でした」
アンナさんが呼吸を整えるようにコーヒーを口に含む。私はただ、続きの言葉を待っていた。
「アナスタシア様がいないと後で気付いたクレマン様は、顔を真っ青にして動揺されておりました。すぐに助けに行くと飛び出したクレマン様を、家臣達が必死に食い止めたりして。その時は本当に大変でした」
「我が伯母ながら、アナスタシア様は後先考えず行動しすぎですね。先に敵国へ向かったとして、向こうが人質となる赤ん坊をこちらに差し出す保証も無いというのに」
「断ったそうですよ」
「は?」
「アナスタシア様の護衛としてついていった方の話によると、赤ん坊を人質として差し出そうとした向こうの総大将様に、赤ん坊を母親と引き離すとは何事か、恥を知れ、と一喝して断ったそうです。人質は自分一人で十分、あとは総大将たるあなた様の矜持と慈悲深さと人徳に任せると」
開いた口が塞がらなかった。まさか、アンジェリーク様以上に無謀な人がいたなんて。
「今思えば、この一喝はアナスタシア様の作戦だったのかもしれません」
「というと?」
「これは終戦後、フィラーレン国にいる知り合いのメイドから聞いた話なのですが。アナスタシア様の、人質はいらない、という宣言は、外で聞き耳をたてていた使用人達に聞こえるように、いえ、屋敷中に聞こえるほどの大きな声でされたそうです。すると、たちまちそれが向こうで噂になったとか。カルツィオーネの大将は、赤ん坊のことを考え、自身の妻だけ差し出して停戦を訴えている。なんという英傑だろうか。それに比べて我が国は……と」
「英傑……正確には女傑ですが。しかし、大きな賭けにでたものです。しかも、明らかにこちらが不利。一歩間違えば、アナスタシア様を人質に取られたまま攻められ全滅しかねない」
「ええ、本当に。アナスタシア様も、一か八かの賭けだったのでしょう。しかし、あの方は賭けに勝ちました。この出来事がきっかけで、国民の民意が一気に停戦へと傾いたそうです。特に、向こうの総大将様がこの行為に心打たれたようで、アナスタシア様と赤ん坊を連れてクレマン様の元を訪れ、停戦合意に向けて協力するとお約束されたとか」
「信じられない……。軍の最高司令官を落とすなんて」
「今はもう時効でしょうが、このことはあまり口外しないでくださいね。まさか奥方が主人の話を聞かず勝手に行動した、なんてことが広まればクレマン様の評判に関わります。ですので、これはまずいと考えた家臣達が、今あるような美談にまとめ上げたようですから」
「もちろん、広めるつもりはありません。ただ、そのような重要な話を私が聞いてよろしかったのですか?」
「もちろんです。ロゼッタさんは、アナスタシア様の肉親ですから」
ごく当たり前のようにアンナさんは言う。どうしてだろう、アンナさんは良い人だとわかっているのに。彼女の口から伯母の名前が出てくる度、何故か心が落ち着かない。胸の奥がザワザワする。
「……安心してください。口外するつもりはありません。たとえ口外したとしても、ここまで美談が広まってしまった今、誰も信じないでしょう。まあ、それでもお伝えするとしたら、アンジェリーク様くらいのものでしょうか。あの方はヴィンセント家の養子ですし、知る権利はあるかと」
「それもそうですね。お伝えしてもよろしいかと思います」
そう答えて、アンナさんがコーヒーをすする。私も胸の雑音を振り払うように、カップを掴んでふぅっと何度か息を吹きかけた後口をつけた。
まだちょっと熱い。いや、それよりも。この口の中に広がるコーヒーの苦味に思わず顔を顰める。それを見て、アンナさんは苦笑した。
「苦いでしょう? 私も最初はとても飲めたものじゃありませんでした。味わう余裕もなくて」
「良かった、そう思ったのは私だけじゃなかったんですね。アンジェリーク様は何も入れないこの状態で美味しそうに飲んでいらっしゃいましたから。もしかしたら私の味覚がおかしいのかと」
「いえいえ、私達の反応が普通なのです。紅茶に慣れ親しんだ者からしたら、これは少し刺激が強すぎます。奥様もよく飲めるものだと、最初のうちは感心していました」
「今はどうですか?」
「奥様に美味しいコーヒーをお出しするため、淹れては試飲を繰り返した結果、今では砂糖やミルクを入れれば美味しく感じるようになりました。だんだんこの苦味が癖になってくるというか、味わう余裕が出てきたというか」
「なるほど。数をこなせば慣れてくる、ということですね」
「そういうことです」
数をこなす、か。アンジェリーク様のあの反応だと、たぶん前世でコーヒーを好んで愛飲していたのだと思う。つまり、生半可な淹れ方では満足していただけない。何でもできると豪語した以上、主人が満足するような完璧を求めなければ。
「無理して飲まなくてもいいですよ。代わりに紅茶を淹れてきますから」
「いえ、お気遣いは結構です。アンジェリーク様がコーヒーを好んでいる以上、淹れ方も完璧を目指さないと満足していただけないと思いますので。これしきのことで心を折っているわけにはいきません」
「まあ、ロゼッタさんたら。本当にアンジェリーク様のことがお好きなのですね」
「それもありますが。アンジェリーク様に飲めないことを小バカにされそうで嫌なのです。それに、何でもできると豪語した以上は、コーヒーを淹れる作業も完璧に仕上げたい。でなければ、できないじゃないかとまた小バカにされますから」
人を小バカにしかしていない主人とはいかがなものか。いや、それよりも。小バカにされたくないと思っている自分にいつも驚く。アンジェリーク様に出会う前は、どれだけバカにされても、見下されても、何も感じず受け流せていたのに。
「負けず嫌いなんですね、ロゼッタさんは」
「昔はこうではなかったのですが。アンジェリーク様と一緒にいると、何故かこう心が動いてしまうというか……上手く説明できませんが」
「それだけアンジェリーク様には心を許している、ということでしょう。アナスタシア様が生きておられたら、きっとお喜びになられますわ」
まただ。また胸がザワザワする。耐えきれなくなって、私はついに聞いてしまった。
「あの、わざわざ時間を作ってお茶に誘ってくださったということは、私に何か話したいことがおありだからですよね?」
核心を突く質問に、アンナさんのコーヒーに伸びていた手が止まる。彼女の顔に、僅かばかりの緊張が張り付くのを感じた。




