朝日
早朝。鳥達の歌声で目が覚めた。
部屋の中を見渡すと、まだ薄暗い。どうやら日が昇る前だったらしい。
「昨日、寝たの早かったもんなぁ」
クレマン様への挨拶が終わった後、私とロゼッタの部屋のベッドメイクをして、私の荷物の片付けなんかをして、夕食のセッティングも手伝ったりして。
あれよあれよと言う間に夜になり、ベッドに入った瞬間、私は即座に眠りに落ちた。長旅の疲れと緊張の糸が切れたからだと思う。
一度大きく伸びをする。身体が軽くなった気がした。若いって素晴らしい。
ここから日の出が見えるだろうか。そう思い、ベランダに出てみる。すると、そこには幻想的な世界が広がっていた。
朝靄が木々や大地にかかり、辺りを白く染めている。まるで冬に吐く白い息のよう。自然の息遣いが聞こえてくるようだ。
空気はピンと張り詰め、少し肌寒い。きっと太陽が昇るのを緊張しながら待っているんだ。
すごい、すごい、すごい!
こんな景色、レンスでは見ることができなかった。
ここは、人間は自然の一部なんだと教えてくれる。心の汚れを洗い落とし、綺麗になって還っていく場所。そしてまた新しい一日が始まるんだ。
んーっ、どうしよう。今思いっきり叫びたい気分。
コンコン、という何かを叩く音がした気がして、思わず扉の方を向く。しかし、音色が違うし、誰の声も続いてこない。
首を傾げていると、またコンコンと音がした。今度は辺りを見渡してみる。すると、部屋一つ分先のベランダに、クレマン様が立ってこちらを見ていた。
「クレマン様!」
思わず声をあげると、しーっ、とジェスチャーで注意された。その後で、こっちにおいでと手招きされる。私は大きく頷くと、急いでクレマン様のお部屋へ向かった。
「おはようございます、クレマン様。朝お早いのですね」
そう言いつつ、ベランダに出てクレマン様の横に立つ。
「おはよう、アンジェリーク嬢。君も早いね。昨日はよく眠れたかい?」
「はい、それはもうぐっすりと。あまりに早く寝てしまったので、こんなに早く起きてしまいました。いつもはロゼッタに起こされるギリギリまで寝ています」
「ははっ、そうか」
「あと、"嬢"はいりません。どうぞお呼び捨てください。その方が親近感がわきます」
「おや、そうかい? じゃあそうさせてもらうよ」
「是非。もう体調はよろしいのですか?」
「今日は昨日よりも良いようだ。薬が効いてきたかな」
そう言って、私に向かって微笑む。思わず私も嬉しくて笑ってしまった。
ベッドにいる時はわからなかったけれど、横に並ぶとクレマン様はとても身長が高かった。中肉中背で歳の割にがたいも良い。それでこの精悍な顔立ち。若い頃はさぞモテたことだろう。
「この景色は最高ですね。思わず叫びたくなります」
「私もこの景色は好きなんだ。静かで、穏やかで、それでいてこの張り詰めた空気もいい。こうしていると、嫌なことを忘れさせてくれる」
「クレマン様にも、嫌なことがあるのですか?」
「あるさ。特に戦争中は嫌なことばかりだった。味方の兵や戦友の死、敵国の兵の死に際の顔が忘れられなくて、夜眠れない時もあった。自分の指揮一つで、私を慕ってくれる兵とこの国の命運を左右してしまう。そんな重圧に苦しんだ時もあった」
「それは……とてもお辛かったでしょうね」
「ああ。でも、どんなに激しい戦火の後でも、この景色は変わらなかった。静かに、穏やかに、私の心を癒やしてくれた。だから、今でもこの景色が気に入っている」
クレマン様の横顔が憂いを帯びる。
きっと、私には想像もできないような、壮絶な体験をしてきたんだと思う。それこそ、夜眠れなくなるような、消してしまいたくなるような、そんな激しい記憶。
それでも、クレマン様はそれを抱えて生きている。
「クレマン様はお強いのですね。そんなお辛い記憶を抱えながらも、今もこうして生きていらっしゃる」
「強くはないさ。ただ、世の中には生きたくても生きられなかった者もたくさんいる。ならば、生き残った者はその人生を全うする義務がある。たとえどんなに辛く、苦しくても。だから私は生きているだけなんだよ」
「それって……」
どこかで聞いたことのあるセリフ。そうだ、アンジェリークの幸せを奪ってしまった罪悪感に押し潰されそうになっていた時、ロゼッタが私に言ってくれた言葉だ。
「クレマン様、私の左肩に傷跡があるのはご存知ですか?」
「ああ、確か暴走した馬車に轢かれたんだったかな」
「そうです。この傷のせいで、婚約も破棄され、家族からも見放されて、とても辛かった時に、ロゼッタからまったく同じ言葉をもらいました。そうしたらなんだか吹っ切れてしまって。自分のために自由に生きようと思うことができたのです。だから、私はクレマン様がこうして生きてくださっていることが、とても嬉しいです」
すると、クレマン様の顔に困惑が広がった。
「アンジェリーク……。いや、私はそんな言葉をもらう資格は無いよ。以前ニールから事故による怪我で婚約破棄された令嬢がいると聞いてね。どんなに落ち込んでいることだろうか、一度会って話を聞いてあげたいとニールに呟いたら、本当に君を連れてきてしまった。しかも、花嫁候補としてだ。まさかそこまでするとは思ってもみなかったが、私の不用意な言葉で君を巻き込んでしまった。申し訳ない」
「そんな、謝らないでください! むしろ、私は感謝しているくらいなんです。第二の人生を送る候補地として、ロゼッタからこのカルツィオーネを教えてもらって。でも、父親には反対されていたんです。そんな時にクレマン様から花嫁候補として挙げていただいて、私は念願のここへ来ることができた。これだけはニール様に感謝したいくらいです」
「あんなに失礼なことを言うあいつにか?」
「ええ、そうです。あくまで、これだけ、ですが」
真面目に答えると、クレマン様の顔がくしゃりと歪んだ。
「君は面白いな。話していて飽きない」
「そう言っていただけて光栄です」
これがロゼッタに言われていたら、イラっとくるんだろうけれど。クレマン様だと全然嫌じゃない。むしろ嬉しい。人徳の差だな、これは。
「そういえば、その右手の平はどうした?」
傷の話をしていたからか、クレマン様が私の包帯で巻かれた右手を指さす。
「ああ、これですか? これは、婚約破棄が決まってから少しして、相手のご子息が私を連れて強引に駆け落ちしようとなさったんです。ですが、その途中で魔物に襲われてしまいまして。その時できたものです。こちらにもあるんですよ」
そう言って、私は腕と脇腹を指さした。
「おお、三箇所も。それはさぞ怖かったことだろう。それにしても、駆け落ちとは。なかなか根性のある青年だ」
「ですが、結局失敗してしまいました。私は失敗して正直ホッとしています。ニール様が言っていたように、今まで何不自由なく暮らしてきた貴族の方が、いきなり働いて生計を立てるなど、とても難しいと思っていましたから」
「おや? 君はロゼッタと二人暮らしをする予定ではなかったかな」
「私はいいんです。働くことにそこまで抵抗がないので。現に昨日は使用人さんの仕事も少しやらせてもらいましたし。ですが、お相手のご子息は違いましたから」
「なるほど。女性の方が現実をよく見ている。私の妻と一緒だな」
「奥様と?」
「私達夫婦には子どもができなくてね。妻は、自分と離縁して子どもの産める誰かと結婚するべきだと私を説得していたんだ。私の愛するこの領地は、自身の子にその意志ごと受け継がせるべきだと」
「後継ぎ問題ですか。それで、クレマン様はご納得されたのですか?」
「まさか。私が愛していたのは彼女だけだったからね。到底受け入れられないと突っぱねた。そして、私が頑として譲らないとわかると、諦めて少し譲歩してくれたよ。それならば、いつか養子を取ると約束してくれ、とね」
「なるほど……」
私の周りにいる男性が特殊なのかもしれないけれど。
この世界の貴族男性って、平気な顔で「愛してる」って口にできるのよね。前世ではそんなことまったくと言っていいほど言われたことなかったから、聞いてると何故かこっちがだんだん恥ずかしくなってくる。
「どうした?」
「い、いえ何でも。それで、養子は取ったのですか? まさか、ニール様ではありませんよねっ」
「いや、彼は違うよ。私も妻も彼ならと打診したんだが、当の本人が断ってきたんだ。自分には荷が重すぎると」
「あの人、何様のつもりなんですか。自分には荷が重すぎるから、再婚して子どもを作れって。完全に逃げてるだけじゃないですか」
「彼は彼なりに思うところがあるのだろう。彼の家庭は少し複雑でね。実際、私も妻もその時は同情で養子を提案した節もあった。それを彼は見抜いていたのだろう。それでも、こうしてここへ残って私の代わりに仕事をしてくれているのだから、嫌われてはいないようだ」
「嫌われてるどころか、あの様子はその真逆だと思いますけど。あれ? じゃあ、クレマン様の養子は……」
「残念だが、まだ養子は取っていない。私も妻も納得できる相手がなかなか見つからなくてね。そうこうしているうちに、妻は先に逝ってしまった」
クレマン様が目尻のシワを深くして、遠く彼方を見つめる。その横顔が寂しそうに見えて、私の胸も苦しくなった。
「変な話をしてしまったね」
「いいえ。とても素敵なお話でした。奥様もきっと、クレマン様のことを深く愛していらっしゃったのでしょう」
「そうだといいが。妻にはずいぶんと苦労をかけてきたからね。子どもが産めないことで、周りから色々言われていたようだし。私があんなわがままを言わなければ、彼女は別の誰かと幸せに暮らせていたかもしれないのに」
「いいえ、それはあり得ませんね」
私がきっぱりそう言い切ると、クレマン様はわずかに目を見開いた。
「どうしてそう言い切れる?」
「未だに養子を取っていないのがいい証拠です。後継ぎのことを考えて身を引こうとするぐらいの方です。もしクレマン様のことだけを考えていたのなら、ある程度信頼のおける相手を適当に見繕って養子にすればいい。でもそれをしなかったのは、クレマン様と、そして奥様と、二人の子として相応しい相手を選びたかったからだと思うんです。言い換えれば、奥様なりの精一杯のわがまま、でしょうか」
「精一杯の、わがまま……」
「愛した人の子どもが欲しい。形だけの子どもではなく、自分とクレマン様が本当に我が子のように胸を張って愛せるような。そんな人を養子に迎えたい。だから、養子選びは慎重だったのではないでしょうか」
だからこそ、周りから何を言われても、安易に養子を取らなかった。愛していたからこそ、その気持ちをずっとクレマン様には黙っていた。
さすが、軍神の妻。その芯の強さと深い愛情は、この先きっと誰も敵わない。
「クレマン様?」
固まったまま動かないクレマン様に声をかける。すると、その目尻から透明な雫が一粒流れ落ちていった。
「ど、どうされたのですかっ? もしかして私、何か失礼なことを言いました?」
「え? あ、ああ、違うんだ。これは……なんでもないよ」
そうだろうか、と首を傾げてみる。しかし、クレマン様はただ微笑むだけでそれ以上は何も言わなかった。
そのうちに、遠く向こうの山から朝日が昇り、カルツィオーネの大地と私達二人を明るく照らしていく。
「日の出だ!」
それまで肌寒かった空気が徐々に暖められ、ここにいる生き物すべてに命を与えていく。
空を飛ぶ鳥達が叫んでいる。「さあ、新しい一日の始まりだ」と。
「君は、朝日みたいな子だね」
「朝日? それはどういう意味ですか」
「さあね」
「えー、教えてくださいよ」
食い下がってみたが、クレマン様はただ笑って誤魔化すだけだった。




