前世の記憶と婚約破棄
ゆっくり目を開けると、最初に見えたのは部屋の天井だった。
「変な夢」
この私が子どもを庇って、馬車ではない車というものに轢かれるなんて。
見たこともない服、見たこともない建物、そして街並み。まるで未来へタイムスリップしたみたいだ。
部屋をノックする音が聞こえたので返事をする。入ってきたのは、侍女のロゼッタだった。
「アンジェリーク様、お目覚めになられたのですね」
「ロゼッタ、私どうして……」
起き上がろうとしたら、左肩に鋭い痛みが走った。思わず肩を押さえてうずくまる。
「まだお休みになられていた方がいいですよ。傷口にさわります」
「傷口?」
「ええ。先日、暴走した馬車がアンジェリーク様に激突したのです。その際、左肩を負傷されました」
「そんな……」
「ですが、命に別状がなくてなによりでした。お医者様によれば、これだけで済んだのが奇跡だと」
「そう……」
まるで事務的な声。
一月前から侍女として働き始めたロゼッタ。無表情な顔、無感情な声。まるでロボットみたいだ。
(ん? ロボット?)
なんだろう、ロボットとは。そんなもの、見たこともないはずなのに。どうして自分はそんなことを思ってしまったんだろう。
「アンジェリーク様?」
「あ、ううん、なんでもない。それより、男の子は無事?」
「男の子? なんのことですか」
「何って、確か小さな男の子も轢かれそうになってて……」
その直後だった。
雷に撃たれたかのような衝撃の後、頭の中にものすごい速さで映像が流れていく。そして、車に轢かれる所までいきついた瞬間、私は“私”になった。
「今のは……」
たぶん、前世の記憶というやつだろう。
以前の私は、鈴木昭乃という日本人で、東京で社会人として働いていた。歳はアラサーと呼ばれる年齢。
しかし、脳の中にはもう一つの記憶がある。
そう、アンジェリークの記憶だ。この世界で生きている彼女の、生まれてから今日までの記憶。それが同居している。
「そんな、まさか……っ」
そう、私は転生したのだ。交通事故で死んで、異世界のアンジェリークという女性に。
「アンジェリーク様、大丈夫ですか?」
ただならぬ私の様子に、たまらずロゼッタが声をかける。
大丈夫、と笑顔で応えたいところだが、いかんせん脳が情報を処理しきれなくて気持ち悪い。まるで車に酔った気分だ。
「気分がすぐれないの。少し横になるわ」
「でしたら、医者を呼んで参ります。旦那様にもお知らせしないと」
そう言って、ロゼッタは部屋を出て行こうとする。その後ろ姿に、私は慌てて声をかけた。
「ねえ、馬車が暴走した時、男の子はいなかったのよね? 被害に遭ったのは、私だけなのよね?」
「そうです。その時周りには誰もおりませんでした。ですので、被害に遭われたのはアンジェリーク様だけです」
「そう、なら良かった」
被害に遭ったのが私だけで良かった。もしこれで誰かが巻き込まれてたりしていたら、なんだか後味が悪かったから。
ホッと安堵している私を見て首を傾げつつ、ロゼッタは「失礼します」と言って部屋を出ていった。
「さて、と」
一度、頭の中を整理しよう。
私の転生先は、アンジェリーク・ローレンス。レンス伯爵家の長女、十五歳。家族構成は、父、継母、義妹の四人家族。
実母は三年前に他界。その一年後に今の継母と父親が再婚し、連れ子の義妹と共に共同生活が始まっている。
「アンジェリークは、継母と義妹とあまり仲が良くないのね」
実母への愛情があるから、という理由もあるけれど。継母と義妹の自分に対する態度が冷たいらしい。それであまり良く思っていないようだ。
父親に関しては、少し複雑だった。
自分のことを政略結婚の道具としてしか見ていない父親に、悲観的な感情を持っている。それでも愛情はあるようで、もっと私を見てほしい、娘として愛してほしいという気持ちがある。そのために良い子を演じて、父親の気を引こうとしていたらしい。
実母は一心に愛してくれていた分、亡くなってからはその傾向がとみに激しい、か。
「うーん、同情しなくもないわね」
自分の中にもう一人の自分がいる。それを客観的に見ている私。なんだか不思議な気分だ。
「あとは、この世界のことがわかると助かるんだけど」
そう思い、再びアンジェリークの記憶を辿り始める。
その時、部屋の扉が開いて、ゾロゾロと人が入ってきた。
「やっと目を覚ましたか」
そう声をかけてきたのは、父親だった。娘が馬車に轢かれたというのに、取り乱すどころか冷静過ぎて怖い。その冷めた瞳が私の身体をジロリと見つめる。
その後ろには、継母と義妹が控えていた。ロゼッタは、さらにその後ろにひっそりと立っている。
「少し見せてください」
医者らしい中年の男性が、私の目や脈、そして傷付いた左肩を確認する。
「意識もはっきりしているようですし、もう大丈夫でしょう」
「肩の傷はどうだ」
「一、ニ週間ほどで傷口は塞がるとは思いますが……」
医者が言いにくそうに言い淀む。そして、チラリと私を一暼した。
「が、何だ」
「……おそらく、跡は残るでしょう」
「そうか、わかった」
父親の表情に何かを感じ取ったのか、医者は「では、私はこれで」とそそくさと部屋を出て行ってしまった。その後で、義妹がクスリと笑う。
「まあ、お姉様お可哀想に。傷跡が残ってしまうなんて」
「これでは、殿方も愛想を尽かしてしまいますわねぇ」
継母まで一緒に嫌な笑みを浮かべる。
傷跡? 残る? 愛想を尽かす? いったい何が言いたいんだろう。
その疑問に答えてくれたのは、冷めた目をした父親だった。
「傷など作りおって。このバカ者が。そのせいで、ランベール公爵家との縁談話も破談になってしまった」
「破談っ? どうしてですか」
「どうしてって。そりゃあ、女性は綺麗で清らかな方が、殿方はお好きだからじゃないですか。ねえ、お母様」
「ええ、そうですとも。こんな傷物の女など、変な噂も立ちますし、わざわざ選ぶ方はいらっしゃらないでしょうね」
「そんな……」
正直、昭乃の私に関しては、破談しようが傷物になろうが、ふーん、くらいにしか思ってはいないんだけど。アンジェリークの心がざわざわして落ち着かない。
「お父様、お考えください! 私は好きで傷物になったわけではありません。ですからどうか、もう一度公爵家と話し合いを……」
「くどい!」
部屋を震わすような父親の怒声に、アンジェリークだけでなく、この場にいた全員の動きが止まった。
「このランベール公爵家との縁談にこぎつけるまでに、私がどれだけ苦労したと思っている。心を砕いてきたと思ってる。それをお前は、身体に傷を残して恩を仇で返すようなことをしよって。この親不孝者めが!」
「お、父様……」
「傷物になったお前に用はない。二度と口答えするな」
「お父様、待って! お父様!」
必死に呼びかけるが、父親は一度も振り返ることなく部屋を出て行ってしまった。それにならって、継母と義妹も部屋を後にする。残ったのは、私とロゼッタだけだった。
「そんな……どうして……っ」
悲しくて、苦しくて、胸が押しつぶされそうになる。気付いた時には、涙が頬を伝っていた。
この涙は、アンジェリークのものだ。愛していた父親に見捨てられ、公爵家との縁談が破談になって。
たぶん、アンジェリークは政略結婚とはいえ、そのお相手の公爵家の子息のことが好きだったんだと思う。だからこそ余計に悲しくて、絶望感に打ちひしがれている。
それを象徴するかのように、私は声を上げて泣いた。
ロゼッタは、何も言わずただその場に立ち尽くしていた。