錆びた志
「はい、ちょっと我慢してくださいね」
そう言って、かかりつけ医のルベン先生は、脇腹と右腕と掌の傷口に消毒液を塗る。かなり染みたので、思わず「いっ」と声を出すと、ロゼッタが大きなため息をついた。
「大げさですね」
「うっさい。痛いもんは痛いの」
「ははは、こればっかりはどうにもなりませんから。でも、これをしないとここからバイ菌が入って感染症を引き起こす可能性があります。必要な処置なので我慢してください」
「それはわかってます。でも、できれば早めに終わらせてくださいっ」
「承知いたしました」
ルベン先生が朗らかに笑いながら、再び傷口に消毒液を塗る。思わず泣きそうになるのを、私は必死に堪えた。
ロゼッタに暗殺されかかってから三日。
私は相変わらずレンス伯爵家の自身の部屋へ引きこもっていた。
そうしたかったから引きこもっているわけではない。傷の具合がある程度落ち着くまでは出歩かない方がいい、とルベン先生に言われたからだ。
「先生にはご迷惑をおかけしました。夜分遅くにも関わらず足を運んでいただいて」
「その節は、本当にありがとうございました」
レオ様に拉致られたあの日、家に帰ってからロゼッタがルベン先生を呼んでくれた。夜分遅くにも関わらず、先生は急いで駆けつけてくれて、必要な処置をしてくれたのだ。もし来てくれなければ、本当に感染症を引き起こしていたかもしれない。
「いやいや、大事が無くて良かったです。馬車の一件があったので何事かと心配しましたが。正直、この程度で安心しました」
「先生にはこの一ヶ月以内で何度も来ていただいて。ご心配おかけてしてすみません」
前世の記憶が蘇った最初の頃は、先生とどこか距離があったけれど。こう何回も看に来てもらっていると、不思議といつの間にか打ち解けていくもので。今では良い話し相手になっている。昨日なんかは一緒にお茶を飲んだくらいだ。
「それにしても不運ですね。暴走した馬車に轢かれるわ、魔物に襲われるわ。貴族のご令嬢で、短期間でこんなにも怪我をされる人を、私は見たことがありませんよ」
「そうですよねー。私もそう思います」
「でも、今回の件、お父上には怒られなかったのでしょう?」
「そうなんですよ。むしろ、ちょっと機嫌が良いくらいです。あのランベール公に貸しができたって。ひどいと思いませんか?」
私がそう言って唇を尖らせると、ルベン先生は「確かに」と頷いて可笑しそうに笑った。
お父様に関しては、ロゼッタや他の使用人達が事情を説明してくれたので、その日は「迷惑かけおって」と不機嫌なだけだった。
しかし、翌日ランベール公が直接謝罪にきてからは表情が一変。
「うちの愚息がご迷惑をおかけして申し訳なかった。しかも、アンジェリーク嬢に怪我まで負わせたとか」
「いえ、お気になさらず。どうせもう傷物でしたから」
「そうは言っても、この責任は極めて重い。どうか償わせてくれ。もし、今後支援が必要になったら、いつでも頼ってほしい」
この言葉を聞いて、ランベール公が帰った後思わず顔をにんまりさせるほど上機嫌になった。
「こんなお前でも、役に立つことはあるんだな」
と、声を弾ませて私に直接言うのだから、自分の親とはいえ最低だと思う。
「正直、私もお父上の態度は理解しかねます。私にも娘がおりますが、もし自分の娘がこのようなことになったら、気が動転して怒鳴り散らすやもしれません」
「普通そうですよね。あの人、ほんと信じらんない!」
思わず握り拳を作る。すると、右手に激痛が走って思わず「いったぁ」と叫んだ。それを見てルベン先生が苦笑する。
「しかし、レオ様も駆け落ちなさろうとするとは。なかなか見上げた根性です。それほどまでに、あなた様を愛していらっしゃったのですね」
「それは……」
「若さとは羨ましいですな。なりふりかまわず、自分の思いのままに動く。歳を取ると無意識に歯止めをかけてしまうからつまらない」
「もしかして、ルベン先生は何かやりたいことがおありなのですか?」
そう聞くと、先生はちょっと口籠もった。
「実は私、戦災孤児だったんです。それで、今の家に引き取られるまでとある孤児院で育ったのですが。そこでは満足に医療が受けられなくて。それで亡くなっていく者達を何人も見てきました」
「そんなことが……」
「ええ。ですから私は、平民、貴族関係なく、誰でも平等に診れる医者になろうと決心したんです」
「素敵なことじゃないですか」
「しかし、結局は義父母の言いなりで、貴族を相手にしてばかり。結婚してからも、子ども達を養うために志に蓋をして生きてきた。今はもう、その蓋の開け方がわからないんですよ」
なんとなくだけど、ルベン先生の気持ちが少しだけわかる気がする。
勢いで東京に出てきて、これから何かすごいことが起こるんじゃないかと期待して。
でも、結局はただ生きるために働く毎日。現実を見過ぎでしまった今となっては、昔のような熱い気持ちを実現させる勇気も行動力もない。
でも。今の私は違う。
「先生、私この家を出て一人暮らしをしようかと思ってるんです。あ、ロゼッタもいるから二人暮らしか。もちろん、親からの援助無しで、自分で働いて生計を立てるつもりです」
「なんと……」
「無謀、ですよね。ロゼッタにも言われました。ですが、諦めるつもりはありません。たとえレオ様の駆け落ちのように失敗したとしても、そこで得られるものはあると今回のことで学べました。この家にしがみついていても、明るい未来はないでしょう。だったらいっそのこと、自分で決められる未来を選ぼうかと思うんです」
「しかし、それは言葉にするよりも大変です。どうしてそこまでするのですか?」
「私には、どうしても叶えたい夢があるからです。それを叶えるためには、この家で引きこもっていてはダメなんです。自分で動き出さなければ、それは叶わないと確信しているから」
この小説を完結させるためには、どうしても主人公のエミリアに会わなければならない。昭乃の介入で物語が変わり始めている今、彼女をハッピーエンドにするためには、作者である私が近くにいて導いてあげなければ。
しかし、この家にいるだけではそれは叶わない。エミリアがこの家に来る可能性は、限りなくゼロに近いのだから。だったら、自分から動き出すしかない。
ふう、と息をつく。ルベン先生を見ると、呆気に取られているようだった。