魔物が産まれ落ちた日
-魔物side-
大の人間よりも背の高い雑草類が鬱蒼と生い茂り、周囲には天をつくほどの大木が競い合うようにして生えていた。
殆どの光は葉に遮られており、辺りはとても薄暗い。
時折り何かが通ったように木々が揺れたり、遠くで生き物の咆哮のような音が聞こえてくるその場所は、暗鬱とした雰囲気を醸し出していた。
そこは、人間から『大樹海』と呼ばれる場所であった。
延々とどこまでも続くその樹海は、浅層では確かに豊かな恵みを人間たちにもたらす一方で、深層に入る人間たちを決して許しはしなかった。そのためにこの樹海は、古くから人間たちに神々の住む場所として信仰されており、畏れと敬意を持って受け止められていた。
そしてここは、その樹海の深層にあたる部分であった。
奇跡的に光の差すその場所で、地面から10cmほど離れた高さに黒い瘴気が集まり始めたかと思うと、やがてそれは魔物の小さな体躯を形作っていった。
幾度となく日が登っては沈みを繰り返し、遂に魔物はその発生を終えた。そしてその瞬間に魔物は地面にぺたりと落ちた。
生まれたばかりの彼は、人間がよく相棒とする犬のような容姿をしていた。その全身は艶のある柔らかな茶毛に覆われており、背中には申し訳程度の1体の羽が生えていた。愛らしく稀有な容姿を持つその魔物は、人間に見つかれば即刻愛玩用として王室への献上されることが目に見えて分かる程であった。
ただ、生まれ落ちてからと言うものの、魔物はぴくりとも動かなかった。そうしてそのまま、また暫くの時が過ぎ去っていった。
そして魔物は、遂にふと意識を覚醒させた。
この樹海で意識を失ったまま生き残ったのは、殆ど奇跡に近かった。
それは、魔物が他種の魔物と比べて類を見ないほどに小柄であったことに起因していた。おおよその全長は5cm。魔物の最弱と名高い、ケサラン(綿毛のように風に運ばれる20cm-80cmまで成長する魔物で無害。)よりも一段と小さい程であったが、この場ではそれが幸いしたようで、上手く雑草の陰に入り込むことが出来ていたのだった。
自分がどこから来たのか、自分は何者なのか、そう言った思考を魔物は微塵も持ち合わせてはいなかった。
さも当然のようにしてそのまま四本の短い足を動かし、本能のままに歩き始めた。
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数刻も歩くと(といっても、人間からすれば数分も歩けば到達出来る程の距離しか進んでいないが)、魔物の目の前には巨大な赤くぶつぶつとした見た目の実が現れた。
既に何匹か、先に誘われた虫等が集まって来ていた。中には自身より大きな虫も居たが、実を貪ることに夢中で魔物は危険性を感じなかった。
どうやら、どこかの植物から落ちてきた実のようだ。甘い香りが鼻腔をくすぐり、食欲を刺激した。
魔物はふさふさな尻尾をちぎれんばかりに振り、一心不乱に実に向かって走り出した。この際、魔物にとっては食べられれば何でも良かった。
とその瞬間、実が大きく裂け、中から触手のようなものが飛び出した。そして、先に実を貪っていた甲虫らを一瞬で絡め取ったかと思うと、一瞬で実の中に引き摺り込んでいってしまった。
魔物は慌てて、急ブレーキをかけた。あと少しでも近付いていたらどうなっていたのか、知能の乏しいこの魔物にもそれは十分に理解出来ることであった。
と、そこで右脚に強い違和感を感じた。動悸が激しくなる。見るとそこには、先程みたような粘着質の触手が絡み付いてた。魔物は大いに戦慄した。
刺激しないよう、恐る恐る触手の先を辿ると、案の定赤い実があった。どうやら、先程までは草の影に隠れて気付いていなかっただけでもう一つあったらしかった。
今はまだ先客等のお相手に忙しいようであるが、既にもう虫の外殻を吐き出す作業に入っていることからも、自分の番が目前に迫っていることは想像に難くなかった。
魔物は、初めて恐怖という概念を知った。
パニックになって噛み付くも、生まれたばかりで少しばかりギザギザしている程度の彼の牙では、弾力と粘着性のある触手に全く通じていなかった。
必死の抵抗も虚しく、徐々に魔物は引きずられ始める。
そして、赤い実が目前と迫り死を覚悟したその時、突如轟音と衝撃が小さき魔物の身を襲った。
生まれたばかりの魔物にとって、そのショックは到底受容し切れるものではなく、魔物は呆然とへたり込んでしまった。
赤い実のあった場所には、想像も絶する程巨大な脚と鉤爪があったのであった。
5cm程度の体躯しか持たない魔物にとって、その鉤爪の持ち主はあまりにも大きく、捉えられる体躯の限界を容易に超えていた。
理解の範疇を超えた存在に、魔物は生を完全に諦めた。
ただ鉤爪の持ち主は、何をすることもなかった。
再度轟音を響かせ、そのまま何処かに消えていった。どうやら彼の存在にとって、実を踏んでしまったことは些事のようであった。
ふと魔物が正気に戻ると、そこには弾け飛んだ実の残骸が取り残されていた。
食欲を唆る香りは実のような生物の死後も変わらず漂っていた。魔物の腹はきゅう、と鳴いた。
少しだけ残骸の周りをうろうろしたり、すんすんと近くで嗅いでみたりしたが、結局魔物は食欲に勝てず、その実にかぷりと噛み付いた。