補習と自己紹介
「こうして五十年前、ノーザ大陸全体を巻き込んだ大討伐戦が終息したの」
いつもとは違う教室、いつもとは違う景色の中で、人魚族のディーネ先生の柔らかな声が響く。青みがかった肌の色や青魚の胸びれを思わせる形の耳が特徴的だけれど、何より目を引くのはその下半身を沈めている、宙に浮かぶ球状の水だ。両脇に教室の色を取り込んだ水の球、その中で揺蕩う長い白のスカートとそこから伸びる尾びれは動くごとに姿を変え、穏やかな波を連想する青色の長髪、水に浸かったその毛先を遊ばせている。
っと、変に文学的な表現をしてしまった。一時限目の国語の授業の影響だろうか。その時もずっとあの水を発現させたままだったけれど……まさか一日中発現させているわけじゃない、よな?
歴史の授業も終わりに差し掛かっている現在、未だにその形を全く崩さない水の球に、ディーネ先生の底知れなさを感じた。
「その後、大討伐戦で実現した種族間の協力を今後も続け、ノーザ大陸から魔物という脅威を退けようという方針の元、ノーザ魔導士協会が設立されたわ。そしてようやく、この世界に魔導士が誕生したの」
ゆったりとしたディーネ先生の言葉に、生徒の何人かが頷くのが見えた。他の生徒たちも俺のように課題の成績が悪かったのだろう。教室にいる少なくない人数を見て、少し安心感を覚える。
「けれど、ほとんどの国がこのノーザ魔導士協会の理念に共感し、自国での活動を許可した中、大国でありながら唯一非協力的だった国があるの。それがどこか、そうね、誰かに答えてもらいましょうか。それじゃあ、最後列の――」
俺か?
「エルナちゃん。答えてちょうだい?」
視線を左に向けると、アズキ色、茶色がかった赤紫色の短い髪を持った女子生徒が机に突っ伏していた。エルナと呼ばれたこの子は、以前ジェンヌ先生のクラスと合同授業をした時に会っていて、かなりの実力者だったことを覚えている。
エルナは声をかけられたにもかかわらず、これといった反応を見せない。
「んひゃう!」
そのうなじに、ディーネ先生が魔法で飛ばした水滴が命中する。エルナは素っ頓狂な声を上げて顔を起こした。
「エルナちゃん、答えてちょうだい?」
おっとりとした印象を抱かせる目尻のやや下がった瞳が、すっと細められた。優しげだった雰囲気が一転、獲物を前にした獣のような圧が生じた、ように感じた。
「あーっと、その、それはですねー……」
俺と同じように何かを感じ取ったのか、エルナは焦ったように教科書を持ち上げ視線を動かし――
「え、エクリプス帝国です!」
「……はい、正解です」
ディーネ先生が微笑み、エルナはほっと息をついた。
「極北の国、エクリプス帝国は当時、優秀な魔法使いを何人も抱えていたから、魔物の被害は一番軽微だったと考えられているわ。だから魔物への対応に各国との協力を必要としなかったということもあってか、ノーザ魔導士協会への協力は得られなかったの。そんなエクリプス帝国は、各国が復興に力を入れる代わりに、未だ調査が進んでいない外海へと進出したのだけれど――」
そこまで話したところで、鐘の音が響いた。
「……少し補習の範囲を超えちゃったかしら。それじゃあ、これで歴史の補習は終わりよ。けれど最後に一つだけ。これは物語の中の話なんかじゃなくて、実際に起きたことなの。どうか他人事だとは思わず、自分なりに歴史について考えを巡らせてほしいわ」
そう言って、ディーネ先生は教室から出て行った。室内の空気が弛み、雑然とした話し声が部屋を満たす。特に話し相手がいない俺は、ディーネ先生の言葉に従って今日の授業で触れた内容について考えを巡らせ――
「やあやあ、さっきは助かったよ! ありがとう!」
――ようと思ったが、隣から声がかけられた。そちらを向くと、エルナが満面の笑みを浮かべている。
「ああ、気にするなよ。それより授業はちゃんと聞いていた方がいいぞ」
エルナが指名された時、答えられそうにないと感じた俺は、ノートに大きく質問の答えを書き、それをさりげなくエルナに見せていたのだった。
「いやぁ、一つ前の国語の授業もだけど、さっきの内容は何日か前の授業でやった範囲だったからね。退屈でつい」
「授業でやった? 授業に出られなかったから課題を提出して、その答えが良くなかったから補習を受けているんじゃないのか?」
尋ねると、エルナは小さく首を傾げた。
「え? あー、ユートくんは転入してきたんだもんね。そりゃ知らないか」
「俺のこと覚えててくれたんだな」
「そりゃああれだけ面白い魔法を使うんだもん。忘れるほうが難しいって」
面白い、か。まあそうとも捉えられるか。
「それに、アランたちからも話を聞いているしね」
「アランって、俺のクラスの代表の?」
「そうそう。あれ? アランたちから私のことを聞いてたわけじゃないんだ」
「ああ。特に聞いてはいないな」
「ふうん。まあ同じクラスってだけであんまり話したりはしないか」
エルナは納得するようにうんうんと頷く。
「それじゃあ改めて、私はエルナ。エルナ・マーゼ。エルナでいいよ。よろしくね」
「俺はユートだ。よろしくな。俺のこともユートでいいぞ、エルナ」
「分かったよ、ユート」
「それで、補習の話なんだが」
「あ、そうだったね。えっとね、依頼を受けて授業に出られなかった時、課題はせずに補習を受けるって選択もできるんだ。あんまり長く依頼を受けていると、課題しか選択肢がないってこともあるけれど」
「へえ、そうなのか」
つまりここにいるのは俺のように課題の出来が悪かった生徒だけじゃないってことか。
「そうそう。だからユートみたいに、課題をしたけどその答えが悪くて補習にまで出るって生徒はすごく珍しいよ」
「そ、そうなのか……」
つまりここにいる生徒はほぼ全員課題の代わりに補習を受けている生徒ってことか。安心感が一転、魔法の実力だけでなく勉学でも敵わないという劣等感に変わる。
っと、弱気になるな、俺。大事なのは実学だってじいさんも言ってたじゃないか! 勉強も大事だけれど、俺は強くなるためにここに来たんだ。本質は見失っちゃいけない。
「あれ? けどそれじゃあ結局、エルナが補習を受ける理由はないんじゃないか?」
「ふっふっふ、私が補習を受けている理由は、別にあるのさ」
腕を組み、重々しく話すエルナ。それを受けた俺の声も低くなる。
「別にある理由って、なんなんだ?」
「授業中寝てたんだ」
「おい」
勿体ぶっておいてそんな理由かよ。しかも今も寝てたし、反省してないじゃないか。
「ていうか、寝てたんなら授業の内容なんか覚えてないんじゃないか?」
「いや違うんだよ。こういう補習は期末テストの成績が悪くても受けなくちゃいけないんだけどさ、そんなことにならないよう張り切って予習をしたんだ。偉いでしょ?」
「予習っていうと、先に教科書の内容を読んでおくことだっけか。偉いかどうかは分からないけど、まあ悪いことじゃないな」
シルファは予習よりも復習をしろって言ってたけれど。
「でしょ? それでいざ授業を受けてみたら、予習でやってたことをそのままなぞるわけ」
「まあ、そうなるか」
「だからさ、私からしてみたらもう知っていることの繰り返しなわけだよ。だからその授業も今日の補習と同じで退屈でさ、つい、すやぁ、と」
「そういうことか……」
眠ってしまったことを表現しているのか、合わせた両手の右手の甲に頬を押し当てて目を閉じるエルナの言い分に、小さく頷いて見せる。予習してきたせいで新しい刺激が得られなくて、緊張感が薄くなったってところか。そう考えるとチンプンカンプンな教科以外は予習をしないほうがいいのかもしれない。シルファの助言にはそういう意味もあったのかもな。
「それでも、寝ている間に知らない範囲を触れるかもしれないだろ? 授業自体が復習にもなるし、退屈でも起きていた方がいいと思うぞ」
「おー、ユートは真面目だねぇ。いや私も分かってるよ? わざわざ先生方が授業してくれているのに寝ちゃうのはいけないって。でもやっぱりつまらないものはつまらなくて、どうしても睡魔に負けちゃうんだよね」
「だったら、前日にちゃんと寝ておけばいいんじゃないか?」
何の気もなしに放った俺の言葉に、エルナは驚いたような表情になる。
「え、あ、悪い。何か気に障るようなこと言ったか?」
「……あー、いや、あはは、大丈夫大丈夫。なるほどなるほど。アランが言ってたのはこういうことか」
最後の方は天井を向いて呟くように言うエルナ。アランから何を聞かされたんだろう? そう不思議に思っていると、エルナは俺に向き直る。
「うん、ユート、キミは何も間違ったことは言ってないよ。まさに正論その通り。ぐうの音も出ないとはこのことだよ」
「え、ああ、それなら――」
「ただ、正しいことが何か分かっていても、それができない人もいるんだ。面倒だったり他の用事にかまけていたりしてね」
この私のように、とエルナは胸を張ってそこに手をやった。それって自慢の意味がなかったか? と思いつつ黙って先を促す。
「でね、そういう人たちに今みたいに正論をぶつけられると、結構応えるわけだよ。分かっててできなかったっていう負い目を突かれちゃうとさ」
「負い目、か……」
それを聞いて思い出したのは、以前の依頼で竜に攫われたアイの救出に積極的じゃなかった竜人族のゴラさんだった。あの後援軍として来てくれたし、ゴラさんも本心では見捨てたくなんてなかったのは間違いない。そんなゴラさんや他の魔導士に対し、俺は自分の理想を押しつけた。
さっきの俺の言葉も、それと同じだったのかもな。
「ごめん、無神経なこと言っちゃったみたいだ」
「いやいや、ユートは間違ってないんだって! 謝る必要なんてないよ! ユートに謝られると、私の立場がなくなっちゃう!」
「そうなのか?」
「そうだよ! 極論言っちゃうとさ、痛いところ突かれて不機嫌になるとかただの逆ギレだし。あ、でもあまりいじられるのは嫌だし、少しは優しくしてほしかったりもするけど……」
とにかく、とエルナは一息置いて続けた。
「ユートが言ってることは正しい。けれどその伝え方には少し気を遣った方がいいよ」
まあ今のままでも全然いいと思うけど、とエルナは笑う。
「うん、分かった。教えてくれてありがとな」
「いや、お礼を言われるようなことじゃないよ。ユートに悪気はないんだし、気遣い過ぎて言いたいことも言えないよりかはよっぽどマシだと思うからさ」
「……難しいんだな」
「そうだね、こういうのは文化によるし。とりあえずは、正論をぶつけられるとブチ切れる人も居るんだってくらいの認識でいいと思う」
「ん、分かった」
ちゃんと覚えておこう。
「ところで、アランとは仲が良かったりするのか?」
「ありゃ、やっぱり私たちのこと知ってたわけじゃないんだ。まあ合同授業の時はチームを組んでなかったし、知らなくても仕方ないのかな」
エルナは苦笑いすると、椅子から立ち上がって手を差し出した。
「それじゃ改めて、チーム対抗戦本戦参加予定、チーム・アランのメンバー、エルナ・マーゼだよ。よろしくね、チーム・シルファのユート」




