パトロール始めました
朝、寮の扉が開くのと同時に、俺は外へと駆け出した。鍵を開けてくれた寮長さんに片手をあげて、行ってきますと伝える。空はもう明るくなり始めていた。
「個別授業、か」
学院の敷地内を走りながら、昨日のシルファの言葉を思い出す。昨日は遅くまでシルファに付き合ってもらったけれど、特に成果は得られなかった。一朝一夕でどうにかなるものじゃないとは分かっているけれど、じいさんがわざわざ俺を寄越したんだし、強くなれるきっかけみたいなものが掴めると思っていたこともあって、少しがっかりした。
「別に謝る必要はないわ。そんな簡単に大きくなるものでもないしね」
シルファはそう言ってくれたけれど、俺としては申し訳ない気持ちもあって、昨日はちょっと気落ちしていた。けれど走っているうちに、だんだんとそんな気分も晴れていく。
そうだな。先生との個別授業なら、もしかしたら何か掴めるかもしれない。
胸に希望を抱きつつ、林の中を駆けていく。
「しかし広い敷地だよな」
走りながらぽつりと呟く。魔法都市グリマールから少し離れた場所にある丘陵地帯、そこがほぼ丸々学院の敷地だというのを聞いたときにはかなり驚いた。敷地の周りには柵が設けられているそうだが、それらしきものも見当たらないまま走ってこれたし、どうやら相当に広いみたいだ。
「ここなら思いっきり運動できそうだな」
誰かが手入れしているのか藪も少ないし、木々は太く枝も立派だ。
「よっし」
学院指定の靴を脱ぐ。黒い靴下も取っ払って、裸足で地面に降り立った。
「お、これこれ」
自分と大地が直接触れ合っている感覚。こればっかりは裸足じゃないと味わえない。背負ってきた鞄に靴と靴下を入れると、改めて駆け出す。裸足になっただけなのに、随分と走りやすくなった。細かな石もなんのその、緑の天井があるにも関わらず、開放感が湧き上がる。
「………………」
もしかして今なら魔法の練習ができるんじゃないか?
いやいや校則で禁じられているだろ、という良心の訴えが上がるも、どうせばれやしないさと悪魔が囁いてくる。日課の練習を満足にできずにいた俺の心は、いとも簡単に悪魔側に傾いた。
早朝、林の中、周りに人の気配は皆無。これなら、ばれないんじゃないか?
開放感からか、多少のことはどうでもいいじゃないかという考えが頭を占める。いつも使っている魔法を失敗することなんてまずありえないし、万が一失敗したところで、元の大きさが小さい分大事には至らない。頭に浮かぶのは、自分を正当化する理由ばかりだった。
うん。なら、いいか。
俺は魔術式を形成しようと魔力を放出して――
「………………」
ハッハッハッハッと息を弾ませた犬が、いつの間にか俺の左を並走していることに気づいた。
つぶらな瞳、茶色くもっさりとした毛並み、丸っこく愛嬌のある顔を持った犬だ。うん、可愛いと思う。
その体の大きさが俺の倍近くなければ。
「………………」
右を向くと、同じような犬がもう一匹並走していた。
「………………」
後ろを向くと、同じような犬がもう一匹追走していた。
「………………」
前を向くと、同じような犬がもう一匹先行していた。
「……ええぇ……」
完全に囲まれている。どうしてこうなったんだ!?
いや、それについては後で考えよう。今は今どうすべきかを考えないと。俺は即座に頭を切り替えた。
囲まれてはいるけれど、襲ってくる気配はない。俺と同じ速さで走っているし、逃がさないようにしているってところか。無理矢理突破してもいいけれど、何も仕掛けてこないうちは大人しくしているのが得策だろう。
しばらく囲まれたまま走っていると、先行する犬が方向転換する。
着いて来いってことかな。俺は警戒を解かずに犬の後を追う。
やがて林を抜けて、広い草原に出た。青くなってきた空の下、誰かが横になっているのが見える。あれは……。
「ジェンヌ先生?」
「んぅ? 君かぁ。よく会うなぁ」
草原に横たわっていたのはジェンヌ先生だった。眠そうに片目を開けて上半身を起こす。
「でぇ? 何をしたんだぁ?」
ぎくっ。
「……何を、とは?」
「その子たちが連れてきたってことはぁ、何か悪いことをしようとしたんだろぉ?」
うぐっ。まさかこの犬たちはそれに気づいて連行してきたってことなのか? そういうことか……。
「ええとその、はい。魔法の練習をしようと……」
俺は観念して頭を下げる。ジェンヌ先生はゆっくりと頷いた。
「うむぅ、素直なのはいいことだぞぉ。それでぇ? どうしてそんなことをしようと思ったんだぁ?」
「それは――」
俺は靴を脱いで練習できないことを説明する。
「ふむぅ、靴を履いているとそんなにやりづらいかぁ?」
「そうですね。今まで裸足でいたのが当たり前ってこともありますけど」
「……よし」
俺の言葉を聞き終えたジェンヌ先生が立ち上がる。
「なら一度見せてくれないかぁ? もし私がぁ、君は靴を脱いだほうがいいって思えたらぁ、少しは融通利かしてあげるぞぉ」
「本当ですか!?」
ジェンヌ先生がゆっくりと頷く。
「というわけでぇ、見せてみろぉ」
「はい!」
俺は張り切って自分の魔法を披露して見せた。
「…………ふむ。もういいぞ」
一通り練習して見せると、ジェンヌ先生が遮った。
「……えっと、どうでした?」
ジェンヌ先生の前に立ち、緊張しながら尋ねる。
「うむぅ。見せてくれてありがとうなぁ。では結論を言い渡そぉ」
ごくり、と唾を飲み込む。
「合格だぁ。条件付きで魔法の使用を認めよぉ」
「あ、ありがとうございます!」
やった! これでちゃんとした練習ができる!
「それで、条件ってなんですか?」
「それはだなぁ、パトロールのお手伝いだぁ」
「パトロール、って巡回のことですか?」
「うむぅ。つまりこの子たちのお手伝いってことぉ」
ジェンヌ先生が後ろにいる大きな犬たちを手で示す。
「そういえばその犬たちって……」
「この子たちは私が契約している精霊なんだぁ」
「契約精霊……。ということは、ジェンヌ先生って精霊使いなんですか?」
「そうだぞぉ」
精霊とは、人間を襲わない魔物と言えばいいだろうか。魔物と同様、体のほとんどが魔力そのもので構成されているけれど、自然界の魔力でその存在を保たせている。そんな精霊たちが人間と契約を交わし、魔力を供給してもらう代わりに契約者に付き従うようになったのが契約精霊だ。また、元々は魔物だったものの、人と契約して精霊へと昇華することもある。
精霊と契約した人を契約者、もしくは精霊使いと呼ぶ。まさかジェンヌ先生がそうだったなんて。
「それでぇ、この子たちは学院の見回りをしてくれているんだぁ。不審者がいないかとかぁ、勝手に魔法を使おうとしている生徒はいないかとかぁ」
「うう……」
痛いところを突かれてしまった。つまり俺は、そのパトロールの存在も知らずに校則を破ろうとしていたってことか。我ながらなんと間抜けな。
「けれどこの学院は広くてさぁ、私の精霊だけじゃ回り切れないんだよなぁ」
確かにここの敷地はかなり広そうだし、ジェンヌ先生の精霊だけじゃ回り切れないかもな。
「あれ、それにしては俺への対応はすごかったですけど」
「そりゃあ放したばっかりだったからなぁ。見回りに行かせてすぐに戻ってきたから驚いたぞぉ」
なるほど。つまり俺は、一番警戒されているところで魔法を使おうとしたわけか。我ながらなんと愚かな。
「もちろん私だけじゃなくて他の先生が見回りすることもあるけれどぉ、朝の担当は私だけだしぃ、折角なら全部見回っておきたいんだよなぁ」
「その回り切れない分を手伝えば、靴を脱いで練習してもいいんですね?」
「ちょっと違うなぁ。そのパトロールの間だけは靴を脱いで魔法を使ってもいいってことぉ」
「ああ、そういうことですか」
要は先生のお手伝いのためという名目で、薄膜なしでの魔法の使用を許可するということだろう。
「けれどそれ、自分で言うのもなんですけど、俺なんかに任せちゃっていいんですか?」
昨日編入してきたばかりだから、というのもあるけれど、パトロールなんてかなり重要な仕事を一生徒に任せてしまってもいいものなのだろうか?
「任せっきりにするわけじゃないさぁ。この子を連れて行ってくれればいいんだぁ」
ジェンヌ先生が両手を前に出すと、そこに子犬の精霊が現れた。こうして見せられると、本当に精霊使いなんだと実感する。しかしこれで五体目か? どれだけ契約しているんだろう。
「この子が顔を向けた先に向かってくれるだけでいいんだぁ。それだけなら問題ないだろぉ?」
アン! と子犬の精霊が元気な声を上げる。
「えっと、それだけでいいんですか?」
「うむぅ。警戒や道案内はこの子がしてくれるからなぁ」
ふむ、俺はこの精霊の足代わりになればいいってことか。確かにそれならやれそうだ。
「分かりました。引き受けます」
「よろしくぅ」
ジェンヌ先生から子犬の精霊を預かる。柔らかくてふさふさしていた。本当の犬だと言われても信じてしまいそうなくらい存在が安定している。ジェンヌ先生の後ろに控えた四体の犬の精霊も同様だろう。契約者であるジェンヌ先生が相当魔力を供給しているという証拠だ。さすがはここの教師といったところか。
子犬の精霊は俺の右肩へと上り、首の後ろを回ると左肩におなかを乗せて、四肢でしがみついてきた。首のあたりに体が当たってその柔らかさと温かさが伝わってくる。
反射的に左手で支えようとする俺をジェンヌ先生が止める。
「よほどのことをしなければ落ちないから心配はしなくていいぞぉ。それじゃあいってらっしゃぁい」
「はい!」
俺は少し気にかけつつも、早速子犬を連れて駆け出した。それと同時に四体の犬も走り出し、俺と並ぶ。
かなり揺れているはずだけど、肩の子犬は黙って前を向いている。普通に走っている分には問題なさそうだな。
「少し速くするぞ」
アン! と子犬が吠えた。それを了承と受け取った俺は、円形の魔術式から強化魔法を発現させる。
グン、と景色が加速し、並走していた犬たちが後方へと見えなくなった。顔に当たる風も強くなり、疾走感が高まる。それでも子犬は大きな反応も見せず、黙ったまま動かないでいた。
これなら、いけるか?
「もっと速くなるぞ」
アン! と子犬が鳴く。向かい風が強いせいで声を出しづらそうにも見えたけれど、ちゃんと鳴いてくれた。
「ありがとう」
応えてくれた子犬に感謝して、俺は念願の、日課の練習を始めた。楕円形魔術式による、効果偏重の強化魔法を発現させる。
グオッと風景が迫ってきた。体が空気を突き抜けていく感覚が一層高まる。慣れている俺は問題ないが、子犬にはかなりの負担だろう。
それでも子犬は、薄く目を開けて、進行方向へと向けた顔を背けようとはしなかった。
「無理そうだったらちゃんと言ってくれよ」
アン、と小さいながらも子犬が答える。俺は軽く子犬を撫でて感謝を伝えた。
「よし、このままいくぞ」
足を振り上げるごとに、楕円形魔術式の形成と強化魔法の発現を行う。大地を踏みしめ、体を前へと進ませる間だけ効果が維持されればいい。あとはそれを一歩ずつ繰り返す。そうすることによって疑似的に、高い効果の魔法を長時間維持しているようになる。これが俺の魔法の使い方だった。
あっという間に林の中に入るも、やることは変わらない。魔法の発現と進む方向、その両方へと意識を向けて、木々をすり抜けるようにして駆けていく。
ああ、やっぱり気持ちいいな。この爽快感を味わっちゃうと、普通に走るのがばかばかしくなる。
久しぶりに味わった感動に浸っているうちに、早くも林を抜けた。まばらに木が生えた草原が視界に広がる中で、子犬の顔は一際大きな木の生えた小高い丘へと向いている。あそこからならもっといい景色が見れそうだ。俺は足を止めないまま丘の上を目指す。
「――いい眺めだな」
木の下まで辿り着いたところで足を止める。下に広がる草原の緑と上に広がる空の青が対照的な、とてもきれいな光景がそこにあった。その境、遠く見える山々の頂にはうっすらと雪の白が覗く。
アン! と子犬も嬉しそうな鳴き声を上げると、俺の肩から降りた。
「ここまででいいのか?」
尋ねるとまた、アン! と返事をする。よく見ると、草原には木でできた柵のようなものが見える。あれが敷地を囲むものなのだろう。横に伸びた柵を目で追っていく。
「ん?」
柵の近くに何かが見えた。草の緑と似たような色のせいで判別しづらいけれど、横に長いものがある。
もしかして、と考える前に俺は動き出していた。子犬を置いていくことに若干の抵抗を覚えつつも、強化した脚力で一気に距離を縮める。そしてその考えは間違ってなかったようだ。
「大丈夫ですか?」
「んん?」
それは大きな外套だった。頭から足首まで覆う緑の外套に身を包んでいたその人物は、俺が声をかけると驚いたような声を上げた。同じく緑色の大きな鞄を手に立ち上がる。胸あたりまである柵越しに向かい合う相手は、服と一体化した帽子を深く被っているせいで口元しか見えない。けれどどうやら俺と同年代くらいの男のようだ。なら敬語じゃなくていいかな。
「お前は?」
「俺はユート。ここの、グリマール魔法学院の生徒だ。そっちは?」
「俺は、そうだな、しがない旅人ってところかな」
「へえ、旅人か」
旅行も含め、そこそこの頻度で見知らぬ土地を訪れることがあった俺にとって、旅人という相手には親近感が湧く。おまけに一人旅のようなので、尚更かつての俺と重なって見えた。
「てことは、ここで野宿でもしていたのか?」
柵の近くであれば警戒する方向を絞れる。近くに虫の巣なども見当たらないし、野宿にはそこそこ適した場所といえた。
「まあな。そろそろ起きようって時に声をかけられたってところだ」
「そうか。驚かせてごめん」
「別に構わない。ところでそういうお前こそ、ここで何をしているんだ?」
「俺は学院の敷地の見回りをしているんだ。それであの丘の上から人影を見つけたから、どうしたのかと思って」
「……あそこからか?」
男は驚いたように口を開く。
「随分と良い目を持っているんだな」
「そうか? ありがとう」
俺にとってはこれが普通なんだが、どうやら世間一般では良いほうに入るみたいだ。そう言えば面接試験の時も驚かれたっけ。
「それにしても、グリマール魔法学院だったか? 近くにあるようには見えないが、そんな遠くからわざわざ見回りに?」
「ああ。随分と敷地が広いみたいでさ。俺も手伝うことになったんだ」
「生徒のお前が? グリマール魔法学院とやらは、随分と人手が足りていないようだな」
「それは違うよ。これは俺のわがままみたいなものだからさ。始めたのも今日からだし」
「ふ、なるほどな」
男は何かを納得したように頷く。
「引き留めて悪かったな。まだ見回りがあるんだろう?」
「あ、そうだな」
帰り道はあらかた見当がついているとはいえ、子犬の精霊を置き去りにしたままというのは良くないだろう。
「それじゃあ、一人旅、気を付けて」
「ああ。じゃあな」
「あっと、その前にさ」
「なんだ?」
背を向けた男が、首だけを動かす。
「折角だし、名前を教えてくれないか?」
顔も見えない男が、けれど、小さく笑ったのが分かった。
「俺はケージだ。じゃあな、ユート」
「ありがとう。またな、ケージ」
俺はそう言って、去っていくケージに手を振った。