08
「弥生ちゃんは何にする? やっぱりメロンソーダよね? おいしいもんね」
「絢香、だからあんたの舌はおこちゃまだっていうのよ。そんな下品なのより、山口さんはオレンジジュースっていう上品なのを選ぶのよ、ね? 山口さん」
「うちは……そのぉ……」
「えー、オレンジジュースだって似たようなもんじゃーん」
「あら、そんなことないわよ。オレンジにはビタミンだって含まれてるから美容にだっていいんじゃない? あんなけばけばしい飲み物のむよりかは断然マシよ、ね? 山口さん」
「あ、うん……」
「百パーセントじゃなきゃ、意味ないような気がするけど、まあ、そうようね、香織はお肌に気を使ってるもんねえ……あっれー、弥生ちゃん! 肌、超綺麗じゃん! ねえ、ねえ、なんか特別なお手入れとかやってんの?」
「えっ、そんなんは特には……」
「えー、そうなんだぁ、羨ましいなぁ、ほら、見てよ、香織ぃ、この肌! なんにもしなくてこれって、マジ羨ましぃーんだけど」
「…………ホント、とっても綺麗ねえ。羨ましいわ……」
「で、飲み物なんにする? 別にいいのよ、何でも、弥生ちゃんの好きなので」
「うち……そ、その……水で」
「えっ、水? マジで? 冗談でしょ、ねえ、香織、水だって、水、あはは」
「ホント、ここで水をチョイスするなんて、山口さんっておもしろいのねえ、うふふ」
楽しげに会話する女の子たちを、少し離れたテーブル席に腰をおろした田沼隆史は、ほほえましい気持ちで眺めていた。
やっぱり人間、思いやりだよ、思いやり、うんうん。
隆史はひとりうなずいて、対面して座る直人へ視線を移した。直人もまた、女の子たちに見とれていた。優しく見守るような、ほほえましい表情だった。彼女たちの慈愛に満ちた精神に、彼もまた心がふるえているに違いない。
「孤立してかわいそうだから仲間に引き込んであげようだなんて、葛西さんもいいとこあるよなあ」
「うん、香織はいいヤツだからね」
女の子らを見つめたまま、直人はつぶやいた。
隆史もまたちらりと女の子のほうへ視線を送った。
「そうだよなあ、ほんっと、いい子だよなあ。あれで彼氏がいないなんて、ちょっと信じられないんだよなあ」
「きっと俺らみたいなのはガキに見えてしょうがないんだろ」
そう言って隆史のほうへ向きなおると、同じように戻していた隆史の視線とぶつかった。
直人がにやりと笑っていたので、彼もまた笑った。
「確かに、そうかもなあ……そういえば、前に付き合ってたってのも年上だって噂だったし、付き合うならやっぱ大人な男性なのかなあ」
「おいおい、どうしたんだよ、香織の話ばかりして、お相手に怒られるぜ」
「別にそういうわけじゃないって、絢香は可愛いし、好きだよ。自分で言うのも変だけど、お似合いだって思ってるさ、ただ……」
「ただ?」
直人のにやりとした顔に隆史はたじろいだ。
別に彼女がどうこうというわけではなかった。年頃の娘らしい絢香の可愛らしさを自分でも気に入っていた。それが自分にはふさわしいものだともわかっていた。ただ、それに反発する気持ちが彼のなかにはあった。それも強く。年上の女性に、しかも美しく、華やかな女性に翻弄されたいという願望が。たとえ、その先に破滅が待っていようとも身を焦がしてみたいという強い欲求が彼のなかにはあった。
これは温厚で善良な彼の性質にはないものだった。彼はこれをもてあましていた。そして、おそれてもいた。このおぞましい感情が世間に露出するのがなによりおそろしかった。だから彼は、直人の返答に笑ってかえした。
「別になんでもないさ。それより、直人はどうなんだい?」
「何が?」
「葛西さんだよ」
「香織?」
「仲がいいじゃないか、けっこうお似合いだと思うんだよ、俺は」
「香織と? まさか、あいつとは幼なじみってだけでなんでもないよ」
「そうか、お似合いだと思うんだけどなあ、俺はお前がフリーっていうのも不思議なんだよ、ひょっとして誰かほかに好きな人がいるのか?」
「べ、別にそういうのは……」
直人がうろたえたので彼はからかってみたくなった。
「……で、誰なんだよ。やっぱり一組の篠山か?」
「篠山?」
「あいつはイケメンだからなあ、きっとお前とはお似合いだろうなあ」
「ちょ、ちょっと待てよ、なんで伸治のやつが出てくるんだよ」
「なんでって、いっとき仲良かっただろ?」
「そりゃーよかったけど、だからって……」
「だってお前、そっちだろ? あっ! ひょっとしてもう別れた? 残念だなあ、お前と篠山のツーショットは女子のみんなを喜ばしたのになあ」
「バカ言えって、俺は女の子が好きだよ」
「へー、そうなのか。そりゃ知らなかった。悪かったな……で、その子は可愛いのかい?」
「そりゃ、もちろん可愛いさ」
「どんな子なんだい?」
「どんな子って、お前……」
にやりとした彼を見て、直人は顔をしかめて大きなため息をついた。
「人が悪いな、お前も……」
「まあ、いいじゃないか。で、誰なんだよ。お前の意中の人は?」
「言わないったら」
「おっ、黙秘権を行使するってか?」
「ああ、するね、完全黙秘だ」
「そんなこと言わずに吐いちまいなよ、楽になるぜ」
「なに、なに? なんの話?」
話に割って入った絢香に視線が飛び、その直後に一瞬、何事かの合図を交わすように二人の男の目があわさった。
「別になんでもないんだ」
「そう、なんでもないんだよ。ただ、ちょっと取り調べごっこをしてただけさ」
「取り調べごっこ?」
「そうだよ。警察と容疑者にわかれて、それぞれ即興で演技するんだ」
「なにそれ? おもしろいの?」
「これがなかなかおもしろいのさ。どういう証拠品をだすのか、いつ出すのかっていうのがポイントでね、それによって展開が大きく変わってくるんだよ」
絢香はクスクス笑いだした。冗談と知っていておもしろがっているといった笑い方だった。そうなんでしょ? と同意を求めるように、恋人に向けられていた視線を直人のほうへ投げかけたが、彼はそれに対して肩をすくめることで返答した。
「それよりさっさと座りましょうよ、疲れちゃったわ。はい、直人」
香織が手にしていたオレンジジュースを差し出す。それを受け取って奥へ座りなおした直人の横へ弥生を押し込み、彼女はその隣に座った。同じように隆史はメロンソーダを受け取り、絢香を隣へと招き入れた。そうしながら彼はふと疑問に思った。
「なあ、なんで三人とも水なの?」
「なんでって、そりゃ、美容のためよ。ねえ、弥生ちゃん!」
「そうよねえ、山口さん」
二人の女は互いに顔を合わせて笑いあい、もう一人に同意を求める。彼女はぎこちないながらも笑みをみせ、それにこたえていた。
隆史は内心で何度もうなずいた。
どうやら打ち解けるきっかけにはなったみたいだ。
ああ……よかった、よかった。
彼女みたいな控えめな子は、こういうところからゆっくりと距離を縮めていけばいいんだよ、うんうん。
女の子たちの話の内容は彼にはさっぱりわからなかったが、この状況は好ましいものと感じていた。
やっぱり人間、思いやりだ。
その気持ちがあらためて彼の胸をうち、この集まりが意味のあるものであり、また、それがうまく運んでいることを心から嬉しく思った。
その後も彼が望むように万事順調だった。
軽食をつまんではおしゃべりをし、冷たい飲み物でのどを潤してはまたおしゃべりをする。絶えず誰かの口からにぎやかな声が飛び出ていた。
彼が子どものころに体が縮んだ話を披露すると、山口弥生は目を丸くさせて驚きをあらわにした。実際は、たまたまサイズの大きい同じデザインの靴があり、それを自分がとり違えて縮んだと勘違いしただけだと話すと、彼女は一瞬ぽかんとしてからおかしそうに笑った。
すかさず香織が幼稚園のとき直人が夢中になりすぎて画用紙からはみ出して床にまで絵をかいて保育士を困らせていたことを暴露した。すると今度は直人がアイドルの真似をして踊っていた香織が手を振り上げた瞬間に男性保育士の股間を強打した話で応酬する。
左右から冗談めいた非難の言葉が矢のように飛び交い、間に挟まれている山口弥生の首をせわしなく動く。仲間に引き入れようと双方が援護を求めるので、彼女はただおろおろするばかりだった。
左右の二人はそれを楽しんでいるようだった。
そこへ絢香が、
「ホント、子どものころってバカなことするよねえ、あたしも家、燃やしかけたし」
と言って隆史を含む、その場のみんなを凍りつかせた。
その空気を察して必死に、
「ちょ、ちょっと、たいしたことないのよ、ボヤよ、ボヤ。ただ、ちょっと花火をするのが待ちきれなくって、こっそり火をつけたら、たまたまそれが小さめの打ち上げ花火で壁とか床が黒くなったってくらいで他には燃えうつんなかったし……あれ、やんない? こういうこと、あのあと、めちゃくちゃ怒られたんだけど」
と弁明するのだが、誰一人としてそれに共感するものはいなかった。ただ、絢香の話し方がどこか滑稽で、それにたえきれなくなった山口弥生がくすりと笑った。それをきっかけにみんなも笑った。それでまたもとの和やかな雰囲気に戻った。
話はとりとめもなく流れて、しだいに学園祭のことへと移っていった。
「香織のとこは順調なの?」
「まあ、なんとかね。でも、演劇がこんなに大変だなんて思わなかったわ。台詞は覚えなきゃなんないし、衣装はつくんなきゃ、だし、背景はマッピングだからいいけど……ねえ、ねえ、田辺くんのとこは、それでいろんな演出、するんでしょ?」
「隆史のとこはすごいのよ、ね? 誰だかって、そういうのに詳しい子がいるから、あれ、誰だっけ?」
「ああ、大村だよ」
「ねえ、その子に頼めないかしら、衣装もマッピングで映し出すようにできないかって」
「うーん、難しいんじゃないかなあ、時間的にね。こっちもいそがしいし、立ってるだけならできるだろうけど、動きに合わせてとなると、ちょっとね」
「やっぱ、そうかあー」
「ざーんねん」
「あんたらのとこはいいわよね、コスプレすればいいだけだし」
「あー、またバカにしてー、ちゃんと飲み物だってこだわってんのよ」
「そうそう、モモーンが頑張ってるからね」
「そうよ、直人くん、もっと言ってやんなさい! 幼い頃の口癖が『……だもん!』で、名前はもちろんのこと、愛嬌のある猿顔ってことで、モモーンとあだ名をつけられた、モモーンのこだわりは底なしよ! 捕まったが最後、蟻地獄みたいに引きずり込まれて、うんちく聞かされるんだから、ほんと、すごいんだってば、これが」
「そうそう、植田のやつなんて一時間も聞かされてたえきれなくて寝ちゃったから後日マンツーマンで指導を受けてたら知らないうちに付き合うことになってたんだぞ」
「えっ、あいつら付き合ってんの?」
「そうよ、植ポンもビックリしてたわ、いつの間にか付き合うことになってたって。まあ、植ポンのことだから適当にうなずいてたんでしょ、それで付き合うどうこうの話になってたからそのままって感じじゃない?」
「ははは、たしかに。でも、そうなのか、あいつがねえ、そりゃー知らなかったなあ……まあ、植田らしいっていえば、そうだけど」
「いったいなんの話なのよ」
くだらない雑談がしばらく続き、ふと間が空いたときに絢香が、
「あたしトイレ」
「じゃ、あたしも」
と、香織と連れたって席を立った。
二人が席をはずして雑談の標的はもっぱら転校生の山口弥生へむけられた。彼女はあまり話そうとはしなかったが、母子家庭で家のことはたいてい彼女がするということだけはわかった。それを聞いて、隆史は微笑ましい気持ちになった。
いい子なんだなあ。
つくづくそう思った。葛西さんも絢香も直人も、ここに集まったやつはみんないいやつだと、そして彼らを友人にもった自分は幸せだと、彼はとてもいい気分にひたった。
だが、トイレから帰ってきた絢香の顔を見てその気分も吹っ飛んでしまった。
「ど、どうしたんだよ、ひどい顔だぞ」
「この子、なんか気分が悪くなったみたいで」
香織が肩に手をおくと、絢香は一瞬ビクンと硬直したが、すぐに、
「う、うん……ちょっと、はしゃぎすぎちゃったのかな、は、はは」
と、蒼ざめたままのぎこちない笑みをみせた。
「だから今日はこれでお開きってことで、絢香もゆっくり休んで美味しいものでも食べれば、頭もすっきりして、まともになるでしょうから、ね、ふふふ」
「まあ、そうだな、ゆっくり休んだほうがいい。隆史、お前、送ってってや――」
「いい!」
はじかれたように叫んだ絢香に、一同の視線が集まった。彼女はハッとして、
「ごめんなさい、一人になりたいから送ってくれなくていい」
それだけいうと、さっと身をひるがえした。
「お、おい、絢香!」
隆史はあわてて、そのあとを追っていった。
「どうしたんだ?」
「さあ、どうしちゃったのかしらね」
香織は肩をすくめた。
山口弥生は不安そうに彼らを見つめた。