07
(おや? 今日も来ているとは……)
篠山伸治はちょっと驚いて階段に座る少女を見つめた。昨日、あれほど気まずい感じになったので、おそらくもうここへ来ることはないだろうと思っていた。それでも来ている。よほど行くところがないのか、あるいは……。
伸治は肩をすくめた。
ありえないだろ、そんなこと。
伸治は気にせず近づいていく。彼は何事においてもあまり期待しない性質だった。なるようになる、何事もおさまるべきところにおさまるものだと考えている。だから彼は今まで自分から何かを強引につかみ取ろうとしたことはない。
少女は一方におにぎりを、もう一方にはラップに包んだハンバーグを手にしていた。
弁当箱というものを知らないわけはないだろうから、かさばるのがよほど嫌なのだろう。変わってるな、と思った直後に彼は内心で苦笑した。自分も後の処理が面倒なのでコンビニで済ましているのだ。
階段を上がろうとして一瞬足が止まった。
昨日までうっすら積もっていた埃がなくなっていた。彼が昨日座っていたところの一段上までが綺麗になっていた。少女の傍らには、その形跡が残っていた。
(たんに綺麗好きなのか、それとも好意ととるべきか……)
彼はあまり時を移さず階段に足をかけた。あえて少女には何も話しかけずにそのまま上っていく。
ちらりと少女を見た。
少女は彼のことなどまったく気にした様子もなく、手にしているものを口へと運んでいる。彼は綺麗好きなのだろうと判断した。演技をしているようにはどうもみえない。
階段に腰を落としてから伸治はもう一度だけ少女を見た。なんら変わることはなかったので彼はそれきり少女を忘れ、本に熱中した。
それが中断を余儀なくされたのはしばらくたってからのことだった。
「なあ」
はじめはなんのことかわからなかった。もう一度呼びかけられて彼は少女のことを思い出した。顔を向けると視線が合った。少女は不安げな様子だった。
「何?」
若干とげのある言い方に、彼自身ちょっと驚いた。それほどイライラしていたわけではなかった。話しかけられたこと自体が彼を戸惑わせるものだった。
「ちょっと……聞きたいことがあるんやけど」
少女はおずおずと口を開き、様子をうかがうように彼を見つめた。
「何?」
さっきよりは落ち着いたトーンだが、ぶっきらぼうなところが残っている。それに気おされてか少女がためらう様子をみせたので、彼は穏やかさをみせる必要に迫られた。彼は肩をすくめる。
「別に怒っちゃいないよ。ただこういう性格ってだけ。だから、そんなに怖がることはないから。別に読書を中断されたからって、キミの鼻に指を突っ込んでぐるぐる回して池のなかにブチ込んでやりたいとか、キミをサッカーボールみたいに丸めて壁打ちを楽しんでやろうかとか、そんなことはこれっぽっちも思ってないから、安心して話してみなよ」
「そ、それって怒ってるんや……」
「まさか! 俺のことを知らないからそんなことが言えるのさ、俺は正直な男でね、嘘はつけない体質なのさ。ほら、その証拠に鼻は伸びてないだろ? 嘘をつくと鼻が伸びるからね」
冗談めかした口調に、大げさなジェスチャー。あからさまにふざけた態度は、相手を怒らせるか、あきれさせるか、バカと思われて軽んじられるかのいずれかのはずだった。けれども、少女の反応はそのいずれでもなかった。
「それ……ほんまなん?」
少女は、大きな目を不思議そうにして彼の鼻を見つめてきたのだ。その意外に真剣な態度に彼のほうが面食らってしまった。どうにも調子が狂う。彼は、やれやれといった様子でまた口を開いた。
「冗談だよ。鼻は伸びない。自分でもふざけた奴だとは思うけど、これでも正直な人間でありたいと思ってる、ってのは、まあ、ホントだけどね」
「……そっか」
少女はさみしそうに顔を曇らせた。
どういうつもりなのだろうか。不思議な気分が彼を満たしていた。少女を見つめる。繊細なガラス細工のようだ。ちょっとしたことで修復不能なくらいバラバラに壊れてしまいそうにみえるほど何もかもか細かった。純粋そうな瞳も、華奢な腕も、何もかもが微妙なバランスで成り立っているようで、神秘的だとすら感じる。ほうっておいたら消えてなくなりそうで不安になる。
おかしなものだと自分でも不思議に思う。
「……で、聞きたいことっていうのは何?」
彼はできるだけ優しく問いかけた。
少女は少しの間、もじもじとしてから答えた。
「その……仲代くん」
「仲代?」
「うん、仲代くん……知ってたら、その、どういう子か教えてほしいんやけど……」
胸がチクリとした。
そこから熱いものがあふれでた。それは彼を焼き尽くすほどの痛みをともなうものだったが、不思議と笑いが込み上げてきた。どうにもおかしくてたまらない。彼はこらえられずに吹き出した。柄にもなく何かを期待していたらしい。
少女が怪訝そうな顔でこちらを見つめている。
「あれはバカだね」
「バカ?」
少女の顔に猜疑心がみなぎった。
伸治はますますおもしろくてたまらなくなった。
「バカもバカ、大バカだね」
彼の不真面目な態度に少女は怒っているようでもあり、悲しんでいるようでもあった。それで彼の笑いは急速にしぼんでいった。
「真面目すぎるんだよ」
ぼそっとつぶやいた言葉に、少女は居心地の悪い視線を返してきた。その目であまり見られたくなかった伸治はぶっきらぼうに続けた。
「まっすぐで、正義感が強くて、ちょっと向こう見ずなところがあって、バカがつくほどのお人好しで、仲代っていう奴はあきれるほどのバカなのさ、ただ……」
「……ただ?」
少女の顔にほんのわずかだが熱がくわえられたように感じた。瞬間、伸治はその横顔を張り倒し、この場から逃げ出したい衝動にかられた。彼はそれをぐっとのみ込み、なんでもないように息とともに吐き出し、いつもみたいにおどけた調子で肩をすくめてみせた。
「信頼できる男だよ、最高にね」
甘いささやきだった。
彼のこの言葉に嘘も偽りもなかった。仲代という男は、伸治のささやかな交友関係のなかでほとんど唯一と言っていいほど信頼のおける人間だった。この人間ならば、と思ったこともある。ただ、それゆえに相容れないところがあった。だから、彼とは距離をおいている。
一刻も早くこの会話を切り上げたかった伸治の目を引いたのは、少女の表情だった。嬉しい、もしくはほっとした、というものを予期していた。けれども、少女はそのいずれでもなく、顔は複雑にゆがめられていた。彼には苦しんでいるようにみえた。その理由を推し量ることはできなかったし、そのつもりもなかった。
「聞きたいことはそれだけかい?」
返事はない。
「じゃあ、俺は本来の時間に戻らせてもらうよ」
少し間をおいてから小さな声で礼を言うのが聞こえた。目を向けるとすでに少女はこちらを見ていなかった。
それから彼らが再び会話を交わすことはなかった。
やがて昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。