05
(どうしてこんなことに……)
勢いよく壁に倒れ込み、全身で呼吸するように体を上下させる。休む間もなく、さっき曲がった角へ顔を出す。
彼の姿はどこにもない。
どうやら上手くまいたようだ。
ほっとすると途端に息苦しさが増したようだった。胸に穴を開けて直接空気を送り込んでやりたいくらい呼吸がもどかしい。下を向くと膝ががくがくとふるえている。今日一日分の疲れがどっとでたというくらい体の重さを感じ、よりいっそう壁に寄り掛かる。風はうっすらと冷気をまとっているが、壁からそれを感じることはない。これほど無機質な存在なのだからもう少し冷たさを感じてもよさそうなものだが、そうもいかないらしい。
おかしなものだ。
ぼんやりとした思考のなかで弥生は数回、体全体をゆっくりと上下させた。呼吸を整えながら目印になりそうなものを探す。西に高層ビルが見えた。その位置から今いるおおよその場所の見当をつける。どうやら少し北へ行きすぎたようだ。闇雲に走ったからというか、走る前からかなりでたらめな道を選んで進んでいたので今いる場所に見覚えがない。だからといってナビを使う気にはならない。土地勘を養うためにあたりを散策しながら帰ることに決めた。
これは転校を繰り返す弥生のひそかなというか唯一の楽しみだった。
学校の帰りや買い物の行き帰り、休日なんかを利用して町を歩く。そうすると意外な場所に出くわしたりする。にぎやかな通りを影みたいに歩くのも悪くない。いろいろなものが見れて楽しくはあるが、やっぱり疲れる。それよりも見捨てられたようなさびしい場所のほうがいい。誰からも相手にされずにひっそりとたたずむ場所。町の喧騒は少し遠くからかすかに聞こえるくらいがちょうどいい。景色がいいとなおのことよい。そんな場所に出くわすと何時間でもその場にいられる。
たいていの場合は、空を見て過ごす。風になれたらと思う。自分の体がバラバラになって、塵となって空に舞う。空と混じり合うことで自分という存在がどんどん薄れ、まったくわからなくなるくらいになって、そうすることでこの世界と一体化できたらいいのにと。死というものがそういうものであってくれたらどんなにいいだろうかと、そう思う。ぼんやりしていると時間はあっという間に過ぎていく。
そんな場所を探せたらいいのだけれど。この間見つけた公園のあの場所みたいに。あの場所はよかっ――。
弥生ははっとしてまた通りへ顔を出した。彼はいない。ほっと胸をなでおろす。
(あの男、名前をなんて言ったっけ?)
瞬時に「直人!」と親しげに呼ぶ女の顔が浮かんだ。背筋がひやりとする。自分に向けられたあの視線には正直ぞっとした。自分へむけられた敵意のように感じた。あの男の彼女かもしれない。それとも、あの男に好意があるだけだろうか。意識しすぎているだけだろうか。
なんにせよ、かかわりたくない。
かかわれば面倒なことになるのは目に見えている。聡美のときみたいなのはもうごめんだ。本当に……あんなのは二度とごめんだ。
(それにしても、まさか見られていたとは……)
十分気をつけていたのだけれど。自分のミスに腹が立つ。
しかし、あの直人とかいう男はいったいどういうつもりなのだろうか。
脅迫だろうか。たとえ脅迫されたにしても証拠となるものなければ、さほど問題ではない。そうなっても彼のほうがおかしいと思われるだけだから。
それに、もし仮に映像にとられていたとしてもあのときはちょっと手助けをしただけだからさほど不自然にはみえないはずだ。それより恐ろしいのは噂が広まることだ。前にいたところで起こった噂を集め、まとめられる。そうすると自分になにかしらの能力があるんじゃないかと疑いの目を向けられ、それが真実味を帯びてくる。そうなれば、身を隠す場所すらなくなる。それがなにより恐ろしい。
だから絶対に隠さなければいけない。どんなことをしても自分に力があることを知られてはいけないのだ。
(それなのになぜ聡美の名前をだしてしまったのだろうか)
あの場で口にすべきことではなかった。動揺したからといって彼女の名前をだす必要などどこにもなかったはずだ。嘘をつき通すべきだった。それなのになぜ自分は……。
(雰囲気が似ているから?)
確かに人懐っこそうなところは似ている。お人好しで面倒見がよさそうなところもそうだ。似ているといえば似ている。
(だからなのだろうか)
今まで自分が呪われているなんて人に言ったことはない。そんなことを言えば自意識過剰で頭のおかしい奴と思われるに決まっている。だから誰にも言わなかった。なぜあんなことを口にしてしまったのか自分でも理解できない。
でも、よかったのかもしれない。
追いかけてこなかったところをみると彼も頭のおかしな奴だと思ったのかも。それで今後、何もせずにかかわらないでいてくれたら平穏でいられる。それでなにもかも普段と変わらずにいられる。なにもかも元のとおりだ。
(でも……なんだ、これは……)
この胸のむかつきはなんだ?
なぜこうも胸がむかむかするのだ?
自分でもその理由がわからない。
見られたということに腹を立てているのか、彼が聡美を思い出させるということになのか、言わなくてもいいことを口にしたことになのか、こんな状況へ追い込まれたこと、今後起こりうる面倒な出来事の数々についてなのか、ひょっとするとこんな力をもって生まれてきたことを嘆く気持ちが再び爆発しているからかもしれない。自分自身にもわからない。
ただ彼のことを考えると、それらのすべてがひっついてくるのか、その一部だけなのかはしらないが、胸がむかむかする。胸を開いて、そこへ強い風を送り込んで何もかも吹き飛ばしてやりたいくらいだ。どうも変だ。
(いったい自分はどうしてしまったのだろうか……)
弥生は歩きはじめた。体を動かすことでこのむかつきを消費しなければいられない気分だった。素敵なものが見つかればいいと願いながら弥生は足を動かし続けた。
弥生が古ぼけたアパートにたどり着いたのは、もう日が暮れはじめるという頃合いだった。収穫はなく、ただ体を疲れさせたというだけだったが、気分のほうはだいぶましになっていた。
二階に上がり自分の家の戸を開ける。酒とたばこのにおいが鼻につき、弥生は軽く顔をしかめた。呼吸を整え、腹にぐっと力を入れて気持ちを切り替える。
「ただいまぁー」
居間に入ると、だらしない恰好で泥酔する母親の姿が目に入った。絨毯の上に置かれた低いテーブルを抱きかかえるようにして上半身を広げ、片手に持った缶ビールをふらふらさせながら、とろんとした目をこちらに向けている。その姿は、ぼさぼさの髪も相まって、たった今、井戸の底から這い出してきたお化けのようにもみえた。
「ねえ、弥生ぃー、酒買ってきて……」
「お母ちゃん、未成年はお酒買われへんのよ」
「いいじゃない。ねえ、買ってきてよ……お願いだから、ねえ? 弥生ぃ……」
「せやから、お酒は買われへんの。それよりお母ちゃん、今日仕事やないの? そんなに飲んで大丈夫なん?」
「買ってこいって言ってんだよ!」
突然投げつけられた空き缶を弥生はかわしきれなかった。額に当たり、はね返った空き缶は少しだけ中に残った液体をとばして絨毯に小さな染みをつくった。
「……お母ちゃん」
「行けっ、つってんだろ! このグズ! さっさと買ってこい!」
「せやから……」
「あたしの言うことが聞けねぇーつーのか! あん?」
テーブルを激しく叩きつける母親に弥生はすくみあがった。
「あんたみてると、ほんっとにイラつく! そのしゃべり方も、見下すような態度も」
「うちはそんな……」
「うっせー、ボケ! そういうとこが気に入らねぇーってんだよ、ボケが! ほんっとムカつく。あいつとそっくりだ。あの悪魔みたいでほんとムカつんだよ!」
「あんまりお父ちゃんのこと悪く言うたらあかんよ」
「あたしに指図するっていうのか? あ? お前みたいな奴がこのあたしに指図するっていうのか?」
その瞬間、母親が灰皿を手に取るのが目に入った。ガラス製のごてごてした灰皿を。
「お母ちゃん、勘忍して! うちが悪かったから、な? うちが――」
「お前なんか……お前なんか産まなきゃよかった!」
灰皿が空を舞う。弥生はあわてて身を縮めた。灰が床に散らばり、絨毯を汚した。けれども灰皿は空中でぴたりと止まっている。おそるおそる目を開いた弥生は、ゆっくりとそれを手にとった。
「お母ちゃん……」
一歩前へ進む。
「く、来るなァ!」
母はヒステリックな声を発した。顔は蒼ざめ、全身をふるわせている。激しく眼球を動かして怯えるその姿は、人が変わってしまったようだった。
「お母ちゃん……」
また、一歩、二歩と前にでる。
「お願い……お願いだから来ないで……」
頭を抱え、ふるえて泣きそうになっている母親を見ていると、ひどくみじめな気分になった。弥生はただ灰皿をテーブルの上に置こうとしただけだった。たったそれだけのことがこうも母を怯えさせている。それがとても悲しかった。やっぱり自分は呪われているのだと強く思った。
「うち、夕飯つくるね。今日はお母ちゃんの好きなハンバーグよ。仕事行くまでにはつくるから、それまでゆっくりしといてね」
できるだけ明るく振る舞った。くるりと向きを変え、台所へ向かう。短い悲鳴に続いてドタバタと足音。母の部屋のドアがバタンと閉まる音が聞こえた。弥生の肩が下がり、手にしていた灰皿がするりと滑り落ちて絨毯にぶつかり、鈍い音をたてた。少しの間、弥生はそれを拾う気にはなれなかった。
やがてしかたなくそれを拾い上げ、テーブルに戻したあと、散らばった灰を綺麗にしてから夕飯の準備に取り掛かった。母が喜んで食べてくれる姿を想像しながら……。
けれども、そうなることはなかった。母は弥生が夕飯をつくっている間に仕事に出かけてしまった。
弥生は黙々と夕飯をつくり続ける。
憂鬱な朝を迎える。
(毎日毎日、そう律儀に来なくっても、一日くらいとばしてくれたっていいじゃないか)
掛け布団をがばっとはねのけたものの、そのまま起きる気にはなれなかった。よくあることだとはいえ、昨日のようなことはやっぱりこたえる。
父がいてくれたらと思う。そうだったなら母もあんなふうに酒におぼれることはなかったのかもしれない。もっとも、酔っぱらう母を嫌っているわけではない。母は陽気に酔っぱらうときもある。陽気な母は子どもみたいで可愛い。そんな母を介抱するのは弥生の楽しみの一つだ。
でもやっぱり父がいてくれたら自分の人生はもっと違ったものになったんじゃないかと思ってしまう。母もあんなふうなかたちで弥生にあたり散らすこともないんじゃないかと、もっと穏やかになるんじゃないかと思う。本当はとても優しい人なのだから……。
父がいなくなる数日前、幼い弥生に父は「お母ちゃんを頼む」と言った。それから大きな手で頭をちょっと乱暴なくらいなでられたのは覚えている。母は父の写真をすべて捨ててしまったので顔もおぼろげにしか覚えていない。
なぜ、父がそんなことを言ったのか、弥生にもよくわからない。
あまりはっきりとしないが、その時の父の顔はどうも何か決意を秘めていたようだった気がする。何かやらなければならないことがあると言っていたようにも思う。
(ひょっとすると、父がいなくなったあの日、弥生があんなことをしでかすのを見越していたのだろうか。だから父は、そんな態度をとったのだろうか)
よくわからない。
すべてが夢のようで判然としない。
けれども、母を頼む、と言われたことだけは確かだ。
(だから頑張らなくては……)
母の気に入るような子になって、母を助けなくては。
弥生は起き上がると軽く伸びをした。洗面所へ行くついでに玄関をのぞく。母が帰ってきた形跡はなかった。朝食を済ましても母は帰ってはこなかった。
学校へ行く準備をして家を出る。振り返ってドアを閉める間際、誰もいなくなって薄暗くひっそりとした玄関の闇のなかを切り裂くようにドアの隙間から朝日がさし込んでいるのが目に入った。弥生が手を離すと、ゆっくりとドアは甲高い悲鳴のようなきしんだ音を立て、光を追い出していった。
学校に着き、靴を履き替え終えたところで腕をひかれた。
例の男だった。
「少しだけ……いいかな?」
彼はまわりを気にするそぶりをみせながら言った。そのあと弥生の正面に向きなおり、しっかりとしたまなざしを向けてきた。
それは弥生がはっとするほど真剣なものだった。
「ひとつだけ言っておきたいことがあるんだ。時間はとらせない」
彼のあまりの真剣さが切迫した空気を生みだしている。切り取ったような場違いな空気に弥生はしかたなく、うなずいて同意を示した。
(時間はかからないと言っている。変に拒否してまわりの注目を集めるよりはいいだろう)
こっちだというように彼は弥生の腕を引いて歩きだした。弥生が大人しく従う気配を察してなのか、すぐに手は離された。彼は少し前を歩く。解放されて弥生はほっとした。けれども、ゆるんだところをうめるように不安が広がっていく。
彼は振り返らない。
そのままずんずん進んでいく。いったい何を言うつもりなのだろうか。なぜ振り返らない。自分がこのまま逃げだすとは考えないのか。いったい何を考えているのだ、この男は……。やけに鼓動が耳につく。なんだかむかむかする。
彼は下級生の教室が連なる廊下を突っ切って進み、奥にある階段の踊り場でとまった。朝のこの時間、あまり通る人がいないせいか、急にがらんとする。
「呪われてるとか、キミに特別な力があるとか……」
そう言いながら彼はゆっくりと振り返った。まっすぐ弥生を見つめる。ドキッとするほど熱っぽく、くもりのない綺麗な目だった。まるで自分は髪の毛一本に至るまで嘘偽ることはないと叫んでいるようだった。
「そんなことはボクにはどうだっていい。ただ、これだけは覚えておいてほしい。ボクはキミの味方だ。たとえ、どんなことがあろうとも。ボクはキミの友人でありたいと思ってる。キミが助けを求めるならすぐにでもかけつける、ボクはそんな存在でありたいんだ。そしてキミが望むなら、じゃなくて……ボクが、いや……ボクは、その……」
彼は急に口ごもった。
「……と、とにかく、ボクはキミの味方だから。ボクはキミと友だちになりたいんだ。ボクを信じてほしい。キミを欺くようなことは決してしないと誓うよ。だからボクを信じてほしい。その……言いたかったのはそれだけだから、よく考えてみてくれ!」
彼はそう言うなり階段を駆け上がっていった。
弥生はじっとしてその後ろ姿を見つめる。
(いったい何を信じろというのだ、彼の何を……)
体中がざわつき、胸が締めつけられるようで弥生は苦しくってたまらなかった。