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仮面の下に住まう悪魔は這いずりながら静かに笑う  作者: 相馬惣一郎
第一章 それぞれの思惑
2/22

01

「え、えっと……そ、その……う、うちは……」

 彼女だ。

 教壇のうえに立ち、ややうつむいてのぞくようにチラチラと教室内の様子をうかがう少女を、直人は驚きの目でもって見つめた。

「うちは……山口弥生ぃ、いいます。えっと……こ、こっちに来るんは初めてやから、え、えとっ、わ、わからんことも多くて、迷惑かけるかもしれへんけど、そ、その……」

 ひどく緊張していて内容は要領を得ないものだった。おまけに訛りもひどい。その様子がおもしろくて教室のそこら中で押し殺した笑い声がもれた。彼女は小柄で顔立ちも幼く、どこか見るものに妹という印象を与える。その彼女の容姿と、いかにも内気な転校生という様子が初々しく、それが思わず笑ってしまうほど微笑ましいものだった。

 直人もそう感じたうちの一人だった。けれども、彼は別の感情も抱いていた。

(こんな偶然ってあるんだなあ……)

 彼はちょっとほほを緩ませた。


 あれは二日前のことだ。

 その日は夏の暑さも和らぎ、過ごしやすい日だった。絶好の外出日和といってよい日で直人もそのつもりで予定を入れていたのだが、相手の都合でキャンセルとなってしまった。

(ちぇっ、誘ったのはそっちなのに……)

 いったん顔をのぞかせた負の感情はなかなか立ち去ってはくれなかった。遊ぶ相手は他にもいるが、そうすることでまぎらわそうという気にもならなかった。なんとか静めようと家でごろごろしていたのだが、もやもやした気分はかえって深まるようだった。そのうち家にいるのも嫌になり、散歩に出かることにした。

 それが結果としてはよかったのかもしれない。

 散歩は上々だった。

 直人が外へ出たとき、すでに太陽はかなり高くまで昇っていた。照りつける日差しも増している。歩いていると汗ばむほどだ。けれども、真夏のあのゆでるような暑さに比べたらそれは可愛らしいものだった。かいた汗さえ心地よい。そう思えた。

 公園にたどり着くころには気分も落ち着いていた。ここは公園といっても一般的な児童公園のような遊具はない。池をメインに散策できるよう整備された公園で犬の散歩やランニングをする人が多い。併設されたグラウンドからは休日ということもあって少年野球のにぎやかな声が響いている。

 直人はこの公園をぐるりと一周して帰ろうと考えていた。途中どこかのベンチでちょっとの間、何も考えずぼんやりするつもりで。

(もうそろそろベンチがあるはずだ)

 そう思って歩いていたとき、ある女の子の姿が直人の目に入った。

 直人より少し若くそのときは十才くらいだろうと思った。女の子は植え込みのなかにある木を見上げていた。周囲に人は見当たらない。近くのベンチには、おそらくその女の子が購入したであろう近所のスーパーの買い物袋が置かれていた。

(おつかいだろうか)

 その考えは直人の心をちょっと温かくすると同時に不安にもさせた。

 女の子は周囲をうかがう素振りをみせた。とっさに直人は身を隠した。そうしてからこれでは自分が変質者みたいだとちょっとあきれた。

(何か起こってはいけないと見守るつもりでいたのに……)

 落ち込んでいると直人のすぐそばをランニング用のトレーナーに身を包んだ若い女性が軽やかに通り過ぎた。一瞬ドキッとした。気づかれなかったのか、関心をもたなかったのか、その女性が振り返ることはなかった。

 女の子の様子をうかがうと彼女は周囲に人がいないことを確認してからまた木を見上げた。何があるのだろうと少し場所を移動すると木の上に子猫がいることがわかった。登ったのはいいが降りられないといった様子だ。

(なんだ、そういうことか)

 直人は女の子に声をかけることにした。あれくらいの高さの木なら登れないこともないだろう。

 近づこうと足を一歩踏み出したとき、子猫が木からすべり落ちた。その瞬間、直人は自分の目を疑った。驚くことに子猫は空中でふわりと浮かび、ゆっくりと彼女がさしだした腕の中へ沈んでいった。何かの間違いだと思いたかった。今一度思い返してみたが、それはやはり不自然な落ち方のようだった。いや、やはり自分の目がおかしいのでは。そう思うとそんなような気もしてきた。

 直人はたちまち混乱のなかへ放り出された。

「よかったなあ、無事におりられて」

 女の子は子猫を持ち上げ、少し訛りの強い言葉で語りかけていた。子猫は「みゃあー」と緊張感のかけらもない、あどけない声でこたえる。

 女の子は幸せそうに笑っていた。

「せや、ちょっとまっとりぃや、ええもんあげるから」

 そう言って子猫を下ろすと、女の子はスーパーの買い物袋が置かれているベンチへ向かった。何かをあげようと買い物袋をゴソゴソしているが、子猫はすでにその場を離れてしまっていた。

「あんまり高いもんやないけど、おいしぃん……よ」

 振り返って子猫がいないことがわかると女の子はその場に立ち尽くしてしまった。ちょっとの間そうしてから手にしていた魚肉ソーセージに視線を落とし、また子猫の去っていったほうを見つめた。

「もう……むちゃなことしたら、あかんよ」

 じっと見つめたままでいて、ふいに女の子は微笑んだ。その様子は妙に大人びてみえ、達観しているというか、神秘的な空気さえまとっているようだった。

 彼は少女から目を離すことができなかった。指一本動かすことすら困難だった。けれども、心は激しく揺れていた。風を感じた。過ごしやすいとはいえ、動けば汗ばむほどの陽気のなかで、彼は風を感じた。とても強く、それでいて包み込むように心地のよい、爽やかな風を。

 どうでもよくなった。

 朝の出来事も、不可解な落ち方も。

(あれはきっと神様のイタズラだったのだ。心の優しいイタズラ好きな神様が子猫を助けるためにちょっと風に細工をしただけ)

 それで充分だと思えた。

 女の子はちょっと重そうに買い物袋を抱えて立ち去っていった。

 その光景を見守ったあとも直人はしばらくその場に立ったままでいた。それからベンチに向かって歩きだした。ベンチの前に立ち、子猫の去っていったほうに目をやってからそこに腰かけた。いい気分だった。嫌なものをすべて拭い去ってくれたように感じた。少女を思い起こし、彼は深呼吸をした。


 ふと我に帰ると彼女はまだ教壇の上に立っていた。

 けれども直人には挨拶が終わっているのか途中なのかわからなかった。というのも山口弥生が黙ったまま棒のように突っ立っていたからだ。顔は真っ赤で目だけが挙動不審に揺らいでいる。妙な間があってから彼女は少し離れた位置で聞いていた担任のほうへチラチラと視線を送りはじめた。どうやら担任はそれで終わったことを悟ったようだった。その光景に教室内で笑いが起こった。

「はい、みんな静かに! 山口さん、どうもありがとう」

 担任の甲高い声が教室内に響き、直人に緊張が走った。空いている席は自分の後ろしかない。当然、彼女はそこへ座ることになる。

(声をかけるべきだろうか。かけるならどうやって?)

 直人は話したいことがいっぱいあった。二日前に偶然見かけたこともそうだし、彼女がどんな人間か、どういうふうに育ってきたのかも知りたかった。彼女に関することは何でも知りたかった。それに向けての気持ちの高まりも感じていた。

「ボクは仲代直人っていうんだ。よろしくね」

「えっ、う……うん」

「えーと、その……何かわからないことがあったら、なんでも聞いてよ」

「……うん」

 それ以上会話は続かなかった。彼はもう少し話したかったが、彼女の態度がそれを拒んでいたため、直人はあきらめざるを得なかった。

 内気な性格のせいだろうかとも考えたが、直人にはどうもそれだけのためとも思えなかった。彼が声をかけたときの彼女の顔は不安や戸惑いというよりもむしろ恐怖だった。自分がそれほど恐ろしい顔をしていたとも思えないし、まして自分のかけた言葉が人を恐怖におとしめる恐ろしい呪いの言葉であるとも思えない。

(考えられることといえば……)

 直人は悶々として一時限目の授業を過ごした。

 彼女が自分にみせた態度の理由。それは子猫の不可解な落ち方に関係があるのではないか。もし仮に彼女に何らかの能力があるとする。そして、それを見られたことに気がついた、というのが一番納得のいく答えだった。

 けれども、どう考えてみても彼女が自分に気がついているとは思えなかった。誰か別の人間が見られていたと知らせたのだろうか。では、誰が? 転校してきたばかりでそんな人間がいるだろうか。

 直人の頭は意味もなくまわり続けるだけで授業の内容などまるで頭に入らなかった。最終的に自分の妄想がひどく馬鹿げていることに苦笑してしまった。


 休み時間となった。

 直人は少し様子をみることにした。

 山口弥生はクラスの女子たちから質問攻めにあっている。直人はそれを友人の男子らと少し離れた位置でうかがっていた。彼らの評価はおおむね可愛いというものだった。誰が声をかけて遊びに誘うかということでちょっとだけ盛り上がった。

 彼女はあからさまに困った様子だった。返答も曖昧だった。ただ、直人にみせたような恐怖というのは表情に現れなかった。

「う、うち……そ、その……トイレ」

 弥生はそう言うなり逃げるように教室から飛び出ていった。

「何、あれ」

 一人の女子生徒がつぶやくのを聞いて直人はあまりいい兆候ではないと思った。

 次の休み時間に入ると控えめな女子生徒三人組がおそるおそるといった様子で彼女に声をかけた。それでも山口弥生の態度は頑なで、まるで自ら嫌われようとしているかのようだった。女子生徒三人組はあきらめた様子で彼女から離れていった。彼女の態度は直人の胸のうちに広がるもやもやとしたものを強めた。

(彼女は優しい子のはずなのに、なぜあんな態度を……)

 彼には理解できなかった。悶々として授業を受けながら直人は彼女をお昼に誘おうと決めた。自分の友人と仲のいい女子グループを含めて楽しく食事をすればきっと彼女の態度も崩れるのではないか。彼はその考えに熱中した。

「ねえ、お昼一緒に食べない?」

 休み時間に入り、直人が声をかけると一瞬、彼女の顔つきが変わった。

「別に二人きりってわけじゃないんだ、みんなと一緒に、ってことなんだけど……どうかな?」

「うちは、その……用事、あるから――」

「直人! こないだは、ごめんね」

 振り返るとドアから一人の女子生徒が顔を出していた。

 葛西香織だった。

 壁に手をかけ、頭をちょっとかしげている。そのせいで顔の下に、ゆるくウェーブした髪のカーテンができあがっている。彼女が軽く手を振ると、ゆるゆるとそれが動き、なにか独立した別の生き物みたいにみえた。

「お詫びに今日お昼おごるよ」

 瞬間的にこれはいい機会だと直人は思った。

「それは気にしなくてもいいんだけど……ねえ、彼女もお昼を一緒にしてもいいかな?」

「誰?」

 香織の表情が一瞬変わり、射るような鋭い視線が直人の後ろにいる少女に向けられたが、彼はそれには気づかず彼女の紹介を始めた。

「転校生の山口弥生さん、不慣れなことも多いだろうから食事でもしながらいろいろ話そうと思って……別にかまわないよね?」

「あ、あの……うちは別に……その、迷惑やろうから」

「迷惑なんてことはないよ」

「で、でも……」

「あたしは別にかまわな――」

「香織! 準備あるからそろそろ行かないと」

「ごめん、次、実習だからそろそろ行くわ、じゃ、お昼になったらまた連絡して」

 友人に呼ばれて香織はあわただしく行ってしまった。

「香織もいいヤツだし、他のみんなもそうだから、きっとキミも――」

 振り返ると彼女は席にいなかった。後ろのドアのロックを外し、そこから出ていこうとしていた。声をかけたが間に合わなかった。

「何、あれ?」

 近くで見ていた女子生徒が不満げに声をかけてきた。

「きっと……何か事情があるんだよ」

 その声にも言葉にも何ら説得力はなく、ただ自分を慰めるものでしかなかった。

「仲代くんは優しいから」

 女子生徒のそのつぶやきに直人は泥水をかけられたような嫌な気分になった。

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