濃厚トマトジュースが飲みたいな
強さ、とは何かと考える。
目の前に人が血を流して倒れているときの強さ、それは吐いてしまいそうな気持ちをこらえることだった。多分死んでいるだろう。でも念のため声をかける。
「あのー」
反応はない。勇気を出してもう一度声をかける。
「あの、生きてますか!」
体をゆすってみる。冷たい。これはやっぱりそうなのだろう。私は携帯電話を取り出して119番にかけた。
「あのー、人が倒れてます。口から血を流して」
「意識はありますか。息はありますか。脈はありますか」
「あの、体は冷たかったです。ゆすっても動きませんでした」
「場所はどちらですか」
「えっと、ここは、ええと」
「落ち着いてください。近くに何がありますか」
ええと、ええと、なんだっけな。昔よくここで遊んだっけな。リスのばねの遊具がある。
「ここは、まるやま、おえ」
「そう、円山、円山公園です。円山公園で人が死んでます」
「生きてる、失敬な」
遺体がしゃべった。
「ひい、ゾンビ」
「そうだよ、僕は企業ゾンビだよ、上司しかいない飲み会なんか二度と出るか」
ゾンビにキレられた。青白い顔のゾンビは手に持っていた缶をあおって、また吐き出した。
「おえ」
缶のラベルがちらっと見えた。健康トマトなんたら。
「こんな古典的なものに引っかかるとは、深く反省いたします。」
「救急車はよろしいようですね。」
携帯電話の向こうから聞こえる事務的な声。
「ごめんなさい、大丈夫なようです」
私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。私はゾンビに言った。
「私もう帰りますんでさようなら」
「まあ、まちなさい。これも縁だと思って僕の話を聞いていきなさい。お嬢ちゃん、学生かい、まだ若いね」
なんで、バイトから疲れて帰ってきて、死体のようなおっさんを見つけて、さらに話を聞かないといけないのか。ふざけてんのか。寒い夜空に私のため息が白くなる。
「お断りいたします。それでは」
「この赤い液体ね。血なんだよ」
「トマトジュースじゃないですか」
「そう、これはトマトジュース。でもね、よくみてごらん。」
と、少し公園に入った地面を指さす。
「そこに飛び散っているのは血だよ。この量はここでだれか死んでるね。」
公園の奥の地面にはスポットライトのように街灯に照らされて、茶色いしみのようなものが畳のように広がっていた。
心臓がばくりとなる。ゾンビがトマトジュースをたくさんここで捨てたんだろう。私はそう思うことにした。
「それでね、気なるんだけど、血がトイレのほうに続いていてね、これはきっとひょっとすると、そこに、いらっしゃるのではないか」
「全部トマトジュースなので帰ります」
「いやいや、ちょっと」
肩をがしっとつかまれる。
「これは見つけてあげないわけにはいかないよね」
「見たくないものにはふたをしましょう」
「それも、あるよね。じゃあ、後ろからついてきて、犯人だと思われたくないから」
「そこに“ある”ことは確定なんですね」
ふたをしたい気持ちでいっぱいだったが、やはり、人が死んでいるのだとしたら見ないふりをするわけにはいかなかった。
あとから思えば、私はここで逃げ出すべきだったのかもしれない。
「いやあ、お化け屋敷を思い出すねえ。若い子とこんなことになるなんて」
彼はそう言ったが、すこし声が震えていた。
無機質な色の街灯にてらしだされた公園のトイレは、夜だというのに黄色やピンクの目につく色で、用を足す人たちを迎えている。中が見えないよう、コの字型に作られた入口は光の侵入を拒み、内部に孕む闇をよけい暗くしている。
「スイッチはどこだろう」
夜ならば当然ついているはずの電気のスイッチがついてなかった。ただただ何かを引きずった血の跡が道しるべのように、男子トイレの奥に続き、暗闇に消えている。。
恐れるものは何もないかのように彼は闇の中に手を入れ、壁を探っている。
「あった」
ぱちっと何かをはじいた音がする。少しするとカランカランカランという音がして、次第にその間隔が狭くなり、風を切るような音に変わっていった。彼はそのスイッチをもう一度はじいて、換気扇を止める。
「これか」
電気がついた、と思ったら、彼がひっ、と小さな悲鳴を上げた。
「どうしたの」
とは言ってみたが、もうわかっている。そこには見たくないものがあったのだろう。おおよそ普通に生活している限り、目にしないものが。
「もうここで帰ろうか」
彼の返事に私はこんな状況でまだ、彼はふざけているのかと怒りを覚えた。私は学校の帰り道に駄菓子を買いに行くような気持ちでここまで来たんじゃない。
私は彼の後ろに走り寄りトイレの奥を覗いてみた。
トイレの中は血だらけだった。いや、血だらけではない。血だまり、というのだろうか、それが、一番奥の個室の前の床に大量にこぼれていた。その黒っぽい赤が目に焼き付いて、他のものが見えない。どうやら、その個室の奥から流れてきているようだった。
「あけるしかないか」
私が来て逃げるわけにもいかなくなったらしい。彼は血を踏まないようにして個室の前まで行き、しまっているドアを叩いた。
「あけますよ、生きてますか」
こんなところにいる人間が生きているわけがない。
個室のドアはカギがかかっておらず、少し押しただけで中の惨状を眺めることができた。私は目をそらしたい気持ちを抑えてゆっくりと開いていくドアの奥を見ていた。
便器の白と、血の赤と、タイルの青。私が予想していたものはそこにはなかった。血の量も外よりは多くはなかったので、少し安心した。ここで何かが起きたわけではなく、この個室の前で何かが起こり、その血が中に流れてきたのだと予測できた。
「何もないですね」
私は便座についた血を見ながら彼に確認する。そう、誰も死んではいなかった。うれしいことだが、それはそれで疑問が残る。この血はいったいどこから来たのだろう。
「誰もいないですね」
私はもう一度彼に問いかけた。しかし、返事はなかった。不審に思って彼のほうに振り返ろうとしたそのとき、両の肩をがっしりと冷たい手に掴まれた。冷たい。こんなに冷たい人の手があったろうか、冷え症にしても冷たすぎる。氷のように冷たい!
「や、やめて」
私のか細い声と、首筋に走る激痛。私は推測した。彼の手が私の両肩にあって、その間の首が痛い。そうか、奇妙な彼の様子とトイレの様子、そして、痛みを訴える首筋。私の頭には一つの解が生まれていた。まさか、いやしかし。そうだとすればすべて符合する。こんなテレビゲームのようなことがあっていいのか?
私の予想が正しければ、私はこの後、彼と同じ行動をするだろう。獲物を求めて、罠を作り、人知れず仲間を増やす。私は朦朧とした意識の中で思った。トマトジュースが飲みたいなあ。
この小説はフィクションです。