冷凍庫3 #『鍵』
冷凍庫3#『鍵』
「あーあー、いいご身分じゃん崖梨ちゃん。私にばっかり働かせといて、自分は受けばっかですかー?」
下劣な言葉。普段は聞く耳すら持たないが、痛みによって、理性という防御を剥奪された今は、心身を削る呪いと化していた。
「お前……その鞄……なにが入ってる?」
「は? 文鎮だって。人の話、ちゃんと聞いてた?」
「そんなことは……分かってる。…………いったい、いくつ入ってる?」
十本、二十本では無いだろう。100本近く入っているのか? ……その折笠の予想を、竹内は吹き飛ばす。
「ん~っとね……400本くらいかな?」
なっ……と、折笠は絶句する。
400本? 一桁間違えていないか? ――痛みで既に思考があやふやな中、さらに混乱が生じて、全うな考えができなくなる。
文鎮を、仮に1センチ×1センチ×20センチの、20立方センチメートルの立方体とする。
竹内が使用している文鎮は、おそらくニッケル製。比重は8.7。その積――重量は174グラム。
それが400本。とするならば鞄の重量は、69キロ600グラム。大方70キロ……46キロの竹内本人の1.5倍、平均よりも少し大きい男子高校生一人分くらいの重量になる……おかしいだろう? 折笠は現実から目を逸らす。
「なに驚いてんの? 人間の腕って、片腕でも250キロは持ち上げられるし。怪力って言われる人たちは、自分の3倍以上の重量物を持ち上げられるわけ。私なんてその半分だよ? 大した事ないって。しかも両腕だし」
この細い腕で――そんな力が出るなんて、いったい誰が想像できようか?
「朱博もだけどさ、私もジムで鍛えてたんだよね。この二年、何もしてなかったなんて……そんなワケないじゃない」
これが、この女の執念――折笠は、見くびっていた。まさか、自分の手で折笠崖梨を潰すために、そんな事までしているなんて――。
「ホントは二人にアソバせるつもりだったんだけどさ、もういいや。なんか飽きた。二人連れてこっから出てくか。あんた殺して……」
折笠は床のアイスバーンに触れると――一気に熱量を放出した。
それは、竹内がすし屋で折笠に掛けた湯から奪ったエネルギーだった。――突如沸き立つ水蒸気。それは煙幕の代わりとなって、折笠の身体を包み隠す。
――今のうちに……。
片足跳びで、どれだけ遠くまで逃げ切れるかは分からないが……少なくとも外に出れば、まだココよりはマシな筈……。
「アソバせるっつったでしょ?」
冷たい女の声が、霧の向こうから突き抜けてくる。
直後、脇腹に何か、冷たい衝撃が突き刺さる。
――……なっ……!
鈍く煌く、本来は草上のボールを打つためのゴルフクラブ……。
――アイアン……
いったい何処に仕込んでいたんだ――棚の後ろ? 荷物の間? 混乱しながら、折笠は再び床に転がる。
「いやさぁ、マワさせようにも、体温奪える紛い者相手じゃ無理じゃん? ならもうさ、直接触るの無理だから、殴るとかしか無いかなと思って、こういうのだけは、色々用意しておいたのよ。金属バットでフルスイングして股割りとかは普通に面白そうじゃない? 捻じ込んでもいいけど」
これでもかというほど下劣な言葉を浴びせかけながら、さらに竹内は二度、三度とアイアンを振り下ろす。そのどれもが、折笠の矮躯に命中した――四肢、腕や足といった、命に関わらない所を、狙って当てている。
「やっぱ、頭から入れるのかな? それともグリップかな? 入れるときはアレだけど、出す時にグリップの方が引っかかって良いと思うんだよね。どう思う? ……あ、先から先まで釘バットにしたら……無理か。物理的に入らないよね」
ダンボールを蹴飛ばしながら、床に落ちたそれから、なにか金属製の紐のような物を取り出した。
「ん? 何か分からないって顔してるね。鎖よ、鎖。英語で言うならチェーン。発音的に正確に言うならChainかな?」
アレで折笠を拘束するつもりなのは、容易に想像ができた。金属製の鎖なのは、ビニールや皮製の紐では、折笠相手には通用しない可能性を考えたからだろう。
「どーせならトゲとかつけたかったんだけどねー。有刺鉄線だとさ、どうしても細くて頼りないじゃん?」
棚のダンボールの中から、また何かを取り出して――それを折笠に投げつけた。
自分の身に、何が起こったのか分からなかった。心臓が爆発して停止したのかと思った。筋肉が緊張し、胎児のように蹲った。
「ああ、ただの今の水だよ。舌凍るから、舐めない方が良いよ」
ガラン、とプラスチックの水色の円筒が転がる。それがバケツなのだと理解した。
気化熱か、一気に体温が奪われていく気がした。身体が一気に疲弊する。眠くなるというより、くしゃくしゃの塊になっていくような錯覚がした。
がん、と衝撃が走った。だが鈍い。感覚が鈍磨――いや、麻痺してきていた。
竹内は、食い入るように折笠の顔を見つめていた。――敵対者に向けるとは思えない、うっとりとした表情で。
「唇、紫色……チアノーゼってヤツ? あの時とは逆よね」
竹内が屈む。至近距離に来たチャンスだというのに、折笠はまったく動けなかった。体が、まるで死んだようにいう事を聞かない。
ジョキジョキと、何か布のようなものが切断されていく音が、寒い空気を伝って聞こえてきた。いつの間にか、目は瞑っていた。これ以上の苦痛を見たくないと、拒絶反応を起こしていた。
だばだばと折笠の頭や顔に、しこたま何かが掛けた。――冷たい世界でも、生臭い臭いがした。薄っすら目を明けると、乱雑に切られた服の隙間から除く、青白くなった肌が、白く氷結していた。
「うわくっさ。牛乳臭いんだけど。キモッ」
片腕で、すさまじい勢いでアイアンが振られた。折笠は防ぐことすらできなかった。鳩尾が抉られて、無くなったのかと思った。気がつくと、自分が、まともな呼吸ができていないのを自覚した。聞こえてくる呼吸の音が、短く浅く、不規則だ。
氷の上に、ジャラジャラと金属が降りる音。直後、折笠の身体が蹴り飛ばされて、仰向けからうつ伏せに反転した。剥き出しの肌に、冷たく硬い金属を感じた。
「つーか、自分でやりなよ。ったく」
再び蹴られて、仰向けになった。何かをされる。そう悟った。指を動かそうと力を入れるが、まるで動かなかった。意識も朦朧となってきて、自分が今、何をしているのかすら分からなくなる。
鎖が棚に引っ掛けられる。直後、ふわ、と身体が浮いた。棚に鎖を掛けて、滑車のようにして持ち上げたのだと、おぼろげに感じ取る。
「さぁて。水責めならぬミルク責めのお時間でぇす。崖梨ちゃんは何リットルまで耐え切れるかにゃー?」
何か、プラスチックの硬い円筒が、容赦なく口腔に突っ込まれる――それが2リットルペットボトルだとは、流石に予想がつかなかった。
勢いに乗った生臭い濁流が、口と喉に一瞬にして溢れ返った。あっという間に口の中から空気が無くなり――あろうことか、折笠は酸素を求めて気道を開けてしまう。
「げふっ、ごほっ、がはっ」
唾液と牛乳の混じった液体を吐き出した。仰向けに宙吊りにされ、頭が逆さまになっているので、自分の顔にも掛かった。
「なに勝手に吐き出してんのよ。吐き出す時は、全部飲んでから、こっちから腹パンするんだから。汚いわね。――はい。あと4本ね」
精神すら麻痺しかかっていたのに、折笠は心からぞっとした。言葉の内容にではない。――その、あまりにも事務的な口調に戦慄した。
屈辱の憂さ晴らしを、ただのノルマのように発声する女が、宙吊りの少女の口腔の陵辱を再開した。




