トワイライトホテル屋上 #『塵芥』
トワイライトホテル屋上 #『塵芥』
ヘリが一瞬で真下へと移動したカラクリ、それは海野が『紛い者』の力を使って、乗っていたヘリコプターの位置エネルギーを吸収した、という至極単純な理屈に他ならない。
建物の高さは30メートル。位置エネルギーを吸収する前のヘリの高度は5790メートル。なので、ヘリから建物の屋上までの距離は、5760メートルだ。
ヘリの重さは約7トン……7000キログラム。重力加速度は、9.8メートル毎秒毎秒。これから求められる位置エネルギーの総量――つまり、いま海野が吸収したエネルギーは、7000×9.8×5650=3億3875万9千ジュール
海野はビルの屋上の端――長方形の角の部分に歩み寄ると、そこにしゃがみ込んで、コンクリートの床に触れる。
このトワイライトホテルの重量は、5760トンだ。
3億3875万9千ジュールで、5760トン……576万キログラムの物体をどれだけ持ち上げられるかというと、3億3875万9千ジュール÷(576万キログラム×9.8)=6・8メートル。
つまり今の海野は、垂直にビルを持ち上げる時、6・8メートル持ち上げられる。
しかし海野はあえて垂直には持ち上げなかった。倒壊させる事が目的なら、垂直に持ち上げる必要性がないからだ。倒壊させるつもりなら、できるだけ場所によって高さを不均一にした方が良い。鉛筆を一定の高さから落とす時、垂直に落とすのと、鉛筆を傾けて落とすのでは、着地した時にどちらが倒れやすいかは明白だ。
ホテルが傾く。海野の居た場所が、13・6メートルも高くなる。
コンクリートの重厚な建築物に、一体なにが起こっているのかは、鉄筋とコンクリートの断末魔が全てを物語っていた。空き地の方向へと倒れていく建物……解体という言葉は全く当てはまらず、それは紛れもなく倒壊だった。
大地が斜面へと進化してる――そんな疑似体験をする海野に、時速50キロで迫り来る影があった。法華津穂高だ。彼は事前に、走行する軽ワゴンに触れて運動エネルギーを吸収している。そのエネルギーを使い、50メートルほど離れたビルから、倒壊する建物にいる海野の救出に来たのだ。
「海野さん!」
「いちいち叫ばないの」
後輩を窘めながら、海野は彼の手を握る。筋張った手だな――暢気な感想が脳裏に浮かぶ。
「少し余ったから、高度上げるようか?」
「お願いします」
ビルを持ち上げた高さは、13・6メートルではなく13・59メートルだったのか――手を繋いだ海野と法華津は屋上から消えて、その上空に姿を現した。
法華津の運動は継続し、そのまま緩い弧を描きながら、近くにあったビルの屋上へと落下していく。
このままの衝撃で落下すれば投身自殺と変わらない。法華津は運動エネルギーを出すのを止めて、代わりに上方向へ、弱く運動エネルギーを開放する。
これも紛い者のエネルギー使用の利点。それは放出するエネルギーの量と、そのベクトルを自在に操ることができる、という点だ。無論それには個人差があるが、法華津は量とベクトル、どちらの操作も比較的器用な方だった。法華津は落下する自分の身に前進する運動エネルギーを加えて、着地点へと移動させていく。
着地点にくると、今度は海野が、自分たちの位置エネルギーを吸収する。コンビプレーによる複雑な操作は、アクロバット並みの曲芸だった。
緩やかな着地は、優雅でありながら儚げで、秋の落葉を思わせる。
直後、後ろで莫大な重量が地面へと吸い込まれ、大量の砂塵と粉塵が巻き上がる。それを見て、海野は『上』の連中を罵った。なにが『塵芥』だ。ネーミングセンスもクソもありゃしない。勿論『塵芥』なんて名前が、コレが由来ではないことは分かっている。二十六の席と『合わせた』名前というだけだ。
「海野さん、怪我、ないですか?」
男子の後輩が、恐る恐るそんな事を訊いてくる。海野は苦笑いした。
「誰に向かって言ってんのよ。そっちこそ大丈夫?」
自然に問いかけたつもりだったのだが――意に反して、法華津は頬を桜色に染める。
「はい、大丈夫です……」
消えてしまいそうな語尾。こんな問答で一々照れないで欲しい。法華津は自分の役割はちゃんとこなしてくれるし、ほとんど不満はないのだが、唯一、不平不満があるとすれば、こういうところだろう。一々照れすぎなのだ。褒めてはいるが、いい加減なれて欲しい。
「凄いわね、よくやったわ二人とも、おかえり」
見事に作戦を終えた二人に歩み寄ってきたのは、この作戦を立案した友人、明智美智子だった。手には情報端末を持っている。どうせ自分達の『活躍』を記録でもしていたのだろう。まるで、夏休みの自由研究で観察されている、カブトムシの気分だ。
「どうも。ってかさ美智子、これさ、わざわざヘリ使って、こんなに大量のエネルギー使う必要あったの? わざわざあんな高いトコまで飛ばして……」
「だって計算しやすかったんだもん。っていうか、もう趣味の範囲かな。ビジュアル的にそっちの方がかっこ良いから」
親指を立てて軽々しく言う友人に、海野は軽く殺意を抱いた。そっと友人に触れる。今なら、さっき自分たちがいた高度まで、明智を舞い上げられる気がした。
「ご、ごめんなさい許してください!」
女子高生の甲高い断末魔が、街中に響き渡った。




