第09話 レースの前に (4)
「ここが協会かぁ」
俊也は、石造りの巨大な建物を見上げて声を出した。
目の前には、まるでコロッセオのような荘厳な建物が俊也を見下ろしている。
ケンタウロスレース場。街の東部に存在する、ひときわ大きな遊技場である。
「ここで走るの?」
「そうですね。新人戦含めて、レースはほとんどここですね。広いですよ」
きょろきょろと建物を眺める俊也にくすりと微笑みながら、ハルは四つの脚を前に進める。
本日俊也達は、ここにある受付で年末のレースの出走を予約しにきたのだ。
「一月前には参加費払わないといけませんから、頑張りましょうねっ!」
「そうだね。頑張らないと」
あれから半月。順調にデリバリーの仕事は進んでいるが、それでも参加費にはまだ遠い。こつこつとやっていくしかないなと、俊也はふぅとため息をついた。
「おやぁ、これはこれは。どんけつのハルじゃないか? どうしたんだこんな所にぃ」
そんな俊也のため息を吹き飛ばすように、ねっとりとした声が俊也の耳に届く。俊也が声のするほうに振り向き、ハルはその声の主にうげっと顔をしかめた。
「ぐ、グリンくん」
「おいおい、グリン様だろぉ? お前にくん付けされる筋合いはないぞ、どんけつ」
見ると、茶色の髪をさらりと伸ばし、嫌らしそうな笑みを浮かべているケンタウロスが俊也たちに声をかけていた。
「な、なんだこいつ」
「えーと。なんていうか、私と同期の選手の人です」
俊也の疑わしい目に、ハルが困ったように顔を崩す。表情から、ハルも目の前の男が苦手なようだと俊也は理解した。
「ハルと同期ってことは。……君も新人戦に?」
「あぁ? なんだぁお前は」
声をかけられて気が付いたのか、グリンの視線が俊也を見下ろす。流石は雄のケンタウロスと言うべきか、体高は俊也よりも頭一つ大きい。
「え、えと。私の新しいオーナーなの」
「ああ、聞いたぜ。お前、ついに炭坑に売り飛ばされるところだったんだってな。……ふーん、あんたがこいつを買ったのか」
じろじろと、グリンが俊也を覗き込む。俊也は少しむっとしながらも、笑顔でグリンに微笑みかけた。
「あんたも奇特な頭だね。知ってんのかい? このどんけつのハルは、正真正銘の駄馬だぜ? 金の無駄だったな」
はははと腹を抱えて笑うグリンに、俊也はむっと眉をつり上げる。その視線に、ぐりんがにたぁと笑みを浮かべた。
「ハルは、年末の新人戦で優勝してプロになるんだ。駄馬なんかじゃない」
俊也の発言に、場の空気が一瞬止まる。ハルも、びっくりした顔で俊也を見やった。
「……っぷ、くく。あーはっはははっ!! ゆ、優勝っ!? どんけつのハルがっ!? はは、あはははっ。こいつぁ、けっさくだ。ハル、いい飼い主を見つけたなぁ。どうやって取り込んだんだ?」
ひぃひぃと腹をよじるグリンを、俊也は苛立ちの混じった瞳で見つめる。それに、グリンは可笑しそうに口を開けた。
「志は結構だが、そいつは無理だぜ。年末の新人戦には、このグリン様も出るんだ。はは、せいぜいビリにならないようにくらいに目標を変えときな」
グリンの下卑た笑いに、ハルがしゅんと肩を落とす。何か言い返そうと俊也が口を開こうとしたとき、グリンの顔の横にずいっと尖ったものが出現した。
ぎょっとしたグリンが、慌てて後ろを振り返る。突き出された日傘の先は鋭利に尖っていて、危ないじゃないかとグリンは傘の持ち主に声を張り上げた。
「あら失礼。あまりに醜い声が聞こえたもので。ここは、紳士淑女が集うレース場ですわよ。泥くさい駄馬は、立ち去りなさいな」
「だ、駄馬ぁ? ぼ、僕のことを言ってるのかそれはっ!?」
グリンが、凛とした声の主に怒りを露わにする。その感情をさらりと受け流して、その声の主は傘を懐へと引き戻した。
「あら、他にいるのかしら? ああ、ごめんなさい。駄馬に言葉は通じないかしら?」
「な、なななっ!? か、カリンお前ぇええっ!!」
カリンと呼ばれた少女。長い金髪の髪をカールさせたケンタウロスは、その碧眼をにこりと細めてグリンに微笑んだ。
「一足先にプロになったからって、馬鹿にしやがってぇ。お前なんか、僕の足下にも及ばないんだっ」
「ふふ、その私に負けて残留した駄馬に言われても説得力に欠けますわ。スズカから逃げてずらした大会で、雌馬に敗北。まさに駄馬と呼ぶにふさわしくなくて?」
優雅に笑う縦巻きロールの金髪少女は、そのままグリンを鼻で笑った。それに言い返そうとするが、グリンはカレンの背後に近づく黒い影を見て口をつぐんだ。
「くそっ。ぼ、僕は怪我で調子が悪かったんだ。今年は完璧だ。来年は、プロで吠え面かかせてやるからなっ!」
最後にカレンと影の主をぎらりと睨みつけて、グリンは場を後にする。全くとグリンの背中を見送った後、カレンはじとりとハルを見つめた。
「あ、ありがとカレンちゃん、スズカくん。助けてくれて」
「別に、助けたわけではありませんわ。目障りな雄が居たから、露払いしただけです」
礼を言うハルに、カレンがきっぱりと声を止める。カレンの威圧感に、びくりとハルは身体を縮めた。俊也は、カレンの背後に立っている黒髪のケンタウロスを見つめる。興味なさげにハルを見下ろす顔は、たまたま立ち寄っただけだということを示していた。
「貴女も貴女ですわ。あれほどに馬鹿にされて、頭にはきませんの?」
「そ、それはその。……でも、どんけつってのは本当だし」
カレンの眼光に、ハルがしょんぼりと萎縮する。下を向くハルを、カレンは侮蔑の表情で見下ろした。
「呆れた。レースに戻ってきたかと思えば、その弱気。お母様に泥を塗るような真似は、いい加減にお止めなさいな」
その言葉に、ぴくりとハルの身体が固まる。ふるふると震えるハルを見て、俊也はハルとカレンの間に割って入った。
「すみません。助けて貰ったことはありがたいんですけど、それ以上は止めて貰えますか?」
「あら、貴方は?」
突如目の前に現れた俊也に、カレンが不思議そうな目を向ける。どうやらグリンとの会話を全て聞いていたわけではないようだ。俊也は、カレンに向かって口を開いた。
「ハルの現在のオーナーですよ。ハルは少し臆病な子でね。……ただ、年末のレースはハルが勝ちますよ。そして来年には、貴女も抜き去る」
「ちょ、ちょっとシュンヤさんっ!?」
オーナーの一言に、カレンの眉がぴくりと動いた。なるほどと、カレンは俊也に笑顔を作る。
「これはこれは。知らずとはいえ、とんだご無礼を。わたくし、カレンと申します」
「俊也です。……カレンさんは、ハルとは?」
営業用の笑顔を纏うカレンに俊也は少し気圧されながら、それでも気ななっていたことを質問した。俊也の質問に、そうですねとカレンが応える。
「ハルさんとは同期ですわ。雌馬は珍しいですから、最初は色々と一緒に居ることが多かったんです」
にこにこと笑うカレンは、そのまま笑顔をハルに向けた。びくりとハルが震えるのを見て、それではとカレンはくるりと背を向ける。それを見て、横にいるスズカも脚をカレンの方へ向けた。
「……年末のレース、期待していますわ」
最後に微笑みながら振り返って、カレンは優雅に縦巻きを手で拭う。二人がレース場の奥に消えていくのを、俊也とハルはただ黙って見送った。