第07話 レースの前に (2)
「うぉお。……結構重そうですね」
「そりゃあねぇ。一つに20人分入ってるわけだし」
床の上にどしんと置かれた八つのミルク缶を眺めて、俊也は圧巻だなと息をのんだ。ヴェルメイも、ミルク缶にシチューなんか詰めたのは初めてだよと首をさする。
「とりあえず、これに人数分のパン。知り合い頼んで、お試しで一週だけ契約して貰ったけどさ。……これ、運べるかい?」
ヴェルメイの視線が、ハルに向かう。俊也も、こうして目の前に出されると心配になってきた。一缶一〇キロ程と見積もっても、合計で一〇〇キロ近い分量だ。
「え? はい。荷積みがきちんとしてれば、大丈夫だと思います」
しかしそんな俊也たちの不安を、ハルはきょとんとした顔で一蹴した。驚いた顔で、俊也とヴェルメイがハルを見つめる。
「それなら、ミルク缶運ぶ用のバックルも買っといたよ」
そういえばと、ヴェルメイがハルに四つのバックルを手渡した。これで八つのミルク缶を全て運べるはずだと、俊也に取り付け方を教える。
「じゃあ、行ってきまーす」
のしりと、ハルと俊也は新たな一歩を踏み出した。
ーー ーー ーー
「……重くない? それ」
「え? そうでもないですよ」
がちゃがちゃと八つのミルク缶を背負いながら、ハルはのしのしと疲れも見せずに街道を歩く。その様子を見て、俊也はほぇえと尊敬の眼差しでハルを見つめた。
「ケンタウロスって、凄いんだね」
「はは、昔から私ってば馬鹿力で。荷馬のほうが向いてるかも知れませんね」
てへへと笑うハルに、俊也はむっと指を立てる。傾いた俊也の眉に、ハルがしまったと目を開いた。
「そうやって、すぐ弱気になる。ハルさんは新人戦優勝するんだよ?」
「す、すみません」
しょんぼりと肩を落とすハルに、俊也も少し言い過ぎたかと反省する。こういうナイーブなところも、本番でテンパってしまう理由の一つだろう。
「大丈夫。安心して。俺が、絶対優勝させてあげるから」
「シュンヤさん……」
にこりと笑う俊也に、ハルはこくりと頷くのだった。
ーー ーー ーー
「おー、ハルちゃんにシュン坊っ! 美味かったぜっ! ヴェルメイさんにも伝えてくれやっ!」
夕方、ミルク缶を返却して貰いに行った俊也とハルは、工場の人たちから喝采と共に迎えられた。
「まさか、工場であったけぇ飯が食えるなんてなっ。しかも、あのヴェルメイさんの手料理ときたもんだっ」
「がははっ、うちの母ちゃんよりも数段美味かったぜっ! おっと、これは内緒だぜっ!」
俊也は屈強な男衆にもみくちゃにされながら、アイデアが成功したのだということを実感する。ヴェルメイの料理の腕ありきだが、やはりみんな美味しいご飯は食べたいものなのだ。
「シチューの内容も変わるっていうし、これからもお願いしようかな。ヴェルメイさんに、ひとまず一月分に延長するよって伝えておいてくれない?」
羊頭の工場長が、眠そうな眼で俊也に話しかける。お試しの一日目だが、こんなにも早く延長してくれるなんてと俊也はありがとうございますと頭を下げた。
「それよりも、そこのケンタウロスの嬢ちゃん。ハルちゃんだっけか? やっぱ凄ぇなぁ。俺らじゃ二つ運べるかも怪しいぜ」
猫髭を生やした虎柄の男が、感心したようにハルに話しかける。勿論、重さだけではなくて大きさ的な問題も大きい。馬と同様にやはり、ケンタウロスは荷物を運ぶのに適した種族らしかった。
「あはは。私ってば、これくらいしか取り柄ありませんから。計算苦手だから、シュンヤさんいないと配達もできないし」
誉められて照れるハルは、そう言いながらも嬉しそうだ。俊也は、自分も頑張らないとなと工場長からの話をしっかりと紙にメモした。
ーー ーー ーー
「……おや、あんたたち何処行くんだい?」
その夜、快調な滑り出しに気をよくして上機嫌なヴェルメイは、夕食の後に店を出て行く俊也とハルに声をかけた。いつもならこの時間は、俊也はヴェルメイと食卓で話し込んでいる。
「食べてから少し時間も開きましたし、トレーニングをと思いまして。ちょっと街の外に行ってきますよ」
ランタンをぶら下げた俊也が、ヴェルメイへと振り返った。ぺこりとハルも頭を下げて、二人して店を後にする。一人取り残されたヴェルメイは、寂しそうに目を細めて二人を見送った。
「……まさか、また一人が寂しいとか思うなんてねぇ」
歳とったねぇと、ヴェルメイはばさりと新聞を広げる。その顔は、何か懐かしさを噛みしめるように優しかった。
ーー ーー ーー
「じゃあ、ここからあの旗までをダッシュして、着いたらまたダッシュして戻ってきてください」
遠くに見える旗を指さして、俊也はハルに指示を出した。街の外の平原。まだ街の明かりが届く街の隅で、ハルはむむっと暗闇の先の旗を見つめる。
「あそこまででいいんですか? レースはもっと長いですよ?」
ハルが、首を傾げて俊也に聞いてきた。不満があるわけではないが、間違いを訂正するような口調だ。それに、俊也は大丈夫ですと胸を張る。
「ハルさんの話聞いてたら、皆さんけっこう闇雲に走ってるみたいなんで」
当たり前の話だが、練習というものはただ量をこなせばいいというものではない。しかし効率的なトレーニングが取り入れられ出したのは、割とここ最近の話だ。この世界も例外ではなく、ハルの練習方法はトラックをただ走り続けるというものだった。
これはハルやハルの飼い主が悪いわけではなく、この世界のこの時代では、その練習が最も成果を出しているというだけの話。実際のレースと同じ長さのトラックで練習しているだけ、ハルのトレーニングは理にかなっている方だとも言える。
「……近代スポーツというものを、見せてあげましょう」
にこりと微笑む俊也の顔に、ハルは何か得体の知れないものを感じて、ぞっと背筋を震わせた。
ーー ーー ーー
「ぜはぁっ! ぜはぁっ! ちょ、ちょっと休憩をっ!」
「はい休まないー。そこからですよー。あと一往復ぅ」
ひぃと、俊也の声にハルが涙目で顔を上げる。ほら行った行ったと俊也はにっこりとハルに微笑む。その冷酷な笑顔に、こんちくしょーとハルは再び遠くの旗まで全速力で駆けだした。
ヴォーミングアップをしてからの、短距離トレーニング。アップのときは楽勝ですとにこやかだったハルの顔は、もはや涙でぐちゃぐちゃだ。初めてだしここら辺で構わないかと、俊也はふむと腕を組んだ。
「……っぶ、はぁ!! や、やったっ!! お、終わったぁっ!!」
どかかかと、蹄を鳴らしてハルが向こうの旗から戻ってくる。もうだめと息を荒げるハルに、俊也はよく頑張りましたと声をかけた。
「へ、へへ。どんなもんです。わ、私だってケンタウロスレースの選手ですよ」
よしよしと誉められて気をよくしたハルが、にこっと笑う。俊也はそれにうんうんと頷いて、爽やかな笑顔で口を開いた。
「じゃあ次は、ゆっくり目で構わないので旗まで走って戻って来てください。それを四往復。はい、行って」
「ふぇ!? 今からですか!?」
「当たり前です。休んだら意味ないでしょう。ほら早く」
俊也の笑顔に、ハルの顔が固まる。しかし俊也の得体の知れない凄みに、ハルは泣き出しながら走り出した。ダッシュを始めるハルに、俊也が大声で注意する。
「ゆっくりって言ったでしょうっ! 本気で走るなっ!」
「ふぇええ!? なんで怒られてるのぉっ!?」
誉めて貰おうとダッシュしたハルが、突然怒られてびくりと身体を跳ねさせる。訳が分からないまま、それでもハルは俊也の言うとおりにフラッグに向けてとことこと走っていく。
素直なハルに、俊也はうんうんと頷いた。
「あ、それ終わったら、もう一回ダッシュ練習ですからね」
「ふぇええええっ!?」
こうして、ハルと俊也の大会に向けての練習が始まった。