第05話 異世界の街とケンタウロスの少女 (5)
「……っと、案外早く終わったね」
すっかり空っぽになってしまった倉庫を見つめて、俊也はふぅと袖で汗を拭いた。
石造りの壁に土の地面。しかし、しっかりとした強度を思わせる八畳程の空間が目の前に広がる。
「こうして見ると、結構広いですね」
部屋の中を、嬉しそうにハルがきょろきょろと見渡す。確かに、土の床にさえ我慢すれば以前よりも断然広い。俊也は頷きながら、奥の方を指さす。
「ハルさんは、奥の方を使ってよ。真ん中にシーツとかで、仕切りを作ろう」
言いながら、俊也は倉庫から見つけたロープをびんと掴む。これを真ん中に張って、そこにカーテンでも通せばいいだろう。
「え、私が奥ですか?」
俊也の提案に、ハルがきょとんと首を傾げる。私は身体も大きいですし、入り口の方でいいですよという視線だ。自分の身体を指し示すハルに、俊也は天井を見つめながら呟いた。
「女の子の部屋を、毎回通るわけにはいかないでしょ」
よいしょと、俊也は天井の出っ張りにロープを通す。その様子を、ハルはぽかんとした表情で見つめた。
ーー ーー ーー
「なんとか形にはなったなぁ」
日も落ちる頃、倉庫だった場所を見つめて俊也は満足そうに頷いた。
ハルが、わぁと手を叩いてそれに賛同する。
手前には、俊也の部屋。といっても、ベッドの代わりにヴェルメイから貰ったハンモックと、俊也の荷物を纏めた袋が一つだけだ。
奥のハルの部屋も、寝床代わりの巻き藁と、ハルが背負っていた荷物袋が一つあるだけだった。
「……藁の寝床なんかでよかったの?」
「構いませんよ。ベッドとか、また壊しちゃいそうですし」
えへへと、恥ずかしそうにハルが笑う。そのハルの顔を、気づけば俊也はじぃと見つめていた。俊也の視線に気が付いたハルが、きょとんとした目を俊也に向ける。
「どうしました?」
「え、ううんっ。なな、なんでもないよ」
ハルの顔から、俊也は慌てて視線を逸らす。かぁと顔を赤らめる俊也に、ハルは不思議そうに首を傾げた。
どうしようと、俊也は気持ちを落ち着ける。
ケンタウロスの下半身が目立っていたせいで、あまり意識が行っていなかった。しかしよくよく考えてみると、ハルの上半身は紛うことなく女の子である。
ちらりと、俊也の視線がハルの顔。そして、少し下の胸元へと移る。
明るく可愛らしい顔に、特別大きくはないが服の上からでも分かる膨らみ。ブラなんて存在しないこの世界、薄い麻服に身を包んだハルの胸元は、高校を卒業したばかりの俊也には刺激的だった。
そう言えばと、昼間のヴェルメイの言葉を俊也は思い出す。
『ケンタウロス相手でも、子供は作れるから』
それはつまり……。
「そそそそっ! そのっ! ぜ、絶対にハルさんの部屋には入らないからっ! あ、安心してっ!」
よからぬことを想像してしまい、かぁっと俊也の頭に血が上る。何て事を考えてるんだと、俊也はぶんぶんと頭を振った。
「え? は、はい。ありがとうございます」
挙動が不審になる俊也に、ハルはずっと不思議そうに頭にはてなを浮かべていた。
ーー ーー ーー
「へぇ、てことはケンタウロスレースの選手だったのかい」
暖かな夕食をテーブルで囲みながら、ヴェルメイは驚いたようにハルを見つめた。恥ずかしそうに、ハルがヴェルメイの言葉に下を向く。
「と、といっても、一度も……。というか、全部、その」
もごもごと、ハルは夕食のシチューを匙に乗せたまま、口に運ぶこともせずに固まってしまった。そんなハルの様子を、対面で俊也はもぐもぐと眺める。
「……ん? ハルって。……あんた。まさかあの、全試合どんけつのハルかい?」
ハルの顔を見つめていたヴェルメイが、何かに気が付いたように手を叩いた。その声に、うぅううとハルが涙をためる。
「は、はい。その、まさかです……」
ずーんと、ハルの表情が曇った。ヴェルメイは、なるほどねぇとグラスの酒に口を付ける。二人のやりとりを、俊也はきょとんと聞いていた。
「どんけつって、最下位ですよね? それって……」
「ま、まぁ。選手としては駄目だろうね。事実売られそうになってたわけだし」
なるほどと俊也も頷く。確かに戦績的には、ハルは選手としては売られてもしかたない状態だったのだろう。
「うぅ。私が、全然だめだから……仕方ないんです」
どよーんと漂ってきた暗いムードに、ヴェルメイが参ったねと食卓を眺める。ハルの歓迎会なのに、なんだかしょんぼりとした空気になってしまった。
「ま、まぁ。勝負事ってのは、向き不向きがあるもんさ。まだ若いんだし、これからはうちの仕事頑を張って行けばいいさね」
「うぅうう。ヴェルメイさぁん。ありがとうございますぅ」
ヴェルメイが差し出す酒瓶をグラスで受け取りながら、ハルはぐすぐすと声を上げる。そんなハルを、俊也はじぃっと食卓で見つめていた。
ーー ーー ーー
「……すみません。私の歓迎会だったのに」
倉庫に戻ったあと、仕切られたカーテンの向こうでハルはぽつりと呟いた。寝る準備をしていた俊也が、カーテンに映る大きな影を見つめる。
「いや、気持ちは分かるよ」
「え?」
声を落とすハルに、俊也は着替えをしながら声を返した。先ほどのハルの話は、俊也には人事だとは思えない。
「俺もさ、故郷でとある競技の選手だったんだよ。子供の時は強かったんだぜ? でもまぁ、この体格だしさ。色々あって、やめちゃったんだ」
「そ、そうだったんですか」
嫌なこと思い出させてしまったと思ったのか、ハルが申し訳なさそうに耳を傾ける。それに笑いながら、俊也はカーテンに背を向けて腰を下ろした。すぐ側までやってきた俊也に、びっくりしたようにハルの鼓動が速くなる。
「ハルさんはさ、なんでケンタウロスレース始めたの?」
「私ですか?」
俊也の影に緊張しながら、ハルは昔を思い出した。そう言われても、ハルが選手になった理由なんて一つしかない。
「……母に、憧れたからですかね」
「お母さん?」
ハルはこくんと頷いて、言葉を続ける。
「私のお母さんは、凄い選手だったんです。……ケンタウロスレースのほとんどの選手が男性なのは、ご存じですか?」
「え? あ、うん」
そう言えばと、俊也はこの前の賭事を思い出した。確かに、男っぽい名前ばかりだったような気がする。
「基本的には、ケンタウロスは雄の方が速いんです。ただときおり、雌でも凄い選手が現れます。……私の母は、その中でも特別でした」
ハルの声が優しさを帯びていく。それは、心から尊敬する人の事を話す際の、誇らしい気持ち。その声に、俊也は少しだけカーテンの方を向いた。
「未だかつて、雌で都のグランプリに入賞したのは母だけです。ケンタウロスレースファンの間では、母は伝説の名馬として今も語り継がれています」
「そ、それは凄いね」
俊也にはケンタウロスレースの事は分からないが、聞いただけでハルの母の凄さは伝わってきた。性差。スポーツの世界でそれを覆すのがどれほど難しいかは、俊也とて分かっている。
「ですが。……いずれ、優勝できるかもしれない。そんな期待を受けながら、母は引退しました」
沈むハルの声。その声色に、俊也はただ黙って先を促した。
「私を産むためです。そして、そのまま母は結局レース場に戻ることなく、不慮の事故でこの世を去りました」
ハルの話を聞いて、俊也の額に汗が流れる。身寄りがないのだ。ある程度は予想していたが、想像以上に踏み込み辛いハルの境遇に、俊也はじっと天井を見つめた。
「生前、母が言ってました。私はレースには向いていないって。……本当に、お母さんの言う通りだった」
ぐすっと、ハルの声が湿る。俊也は、何でハルが選手になったのかを理解した。
「初めは、期待されました。当然です。母の娘です。新人なのにすぐに買い手が見つかり、結果も出してないのに人気がでました」
震えていく声。俊也は、自分が期待されていた時代を思い出す。それでも俊也には実績があったが、ハルにはそれすらなかったのだ。
「……勝て、ませんでした。一回も。だめなんです。出走のときになると、訳が分からなくなるんです。怖いんです。気が付いたら、皆の後ろにいて、そのまま集団の音に震えてレースが終わるんです」
悲痛なハルの叫び。その気持ちを、俊也は想像してみた。
一身に受けた、身に余る期待。心とは裏腹に、動かない身体、どうしようもない精神。
「駆けっこなら、負けたことなかった。お母さんにも、誉められた。……でも、全然違った。甘かったんです。私みたいな意気地なしが、入っていい世界じゃなかった」
ハルの嗚咽が、部屋に響く。自信は、あったのだろう。母の代わりに自分がと、決意を胸に踏み込んだはずだ。
それでも、ときに世界は残酷だ。フィジカルとメンタル。そのどちらも兼ね備えた者は、ほんの一握りしか存在しない。
あの数センチが。そう嘆く者もいれば、あの震えさえなければ。そう涙する者も、それと同じくらい存在する。
「……ハルさんは、後悔していますか?」
ぽつりと、俊也の問いかけがハルに届く。一瞬ハルの時が止まり、それでもこれだけはと、ハルは胸を張った。
「して、ません。怖かったし、だめだめだったけど。……後悔だけは、してません」
ただ、母に泥を塗ってしまった。それだけが悔しいと、ハルは奥歯を噛みしめた。安易な自分の気持ちが、母の幻想に傷を付けたのだ。
「……勝ちたい、ですか?」
「え?」
そんなハルに、俊也はもう一度問いかけた。自分はどうだっただろうかと、俊也は自らの胸に聞いてみる。
「か、勝ちたいっ! ……です。でも、もう」
ハルの声。それを聞いて、俊也は一筋の涙を流す。
気づいてしまったのだ。目を逸らし続けていたことに。
足りなかったのは、きっと身長だけじゃない。
そして、決意する。迷惑かもしれない。我が儘極まりない願いだけど、俊也は一つの決意を胸に宿した。
拒否されれば、それまで。それでも、一縷の望みを俊也は言葉に込める。
「……勝ちましょう」
このとき、世界の小さな何かが、確かに変わった。