七 霧の中
大森パトロール社の事務所は、日曜の夕暮れを迎え、事務室内は明々と電気がついていた。
応接室で波多野に向き合ってソファーに座っている葛城は、まだ雨に濡れた髪が湿り気を帯びていた。
「申し訳ありませんでした。」
葛城はもう一度立ち上がり、頭を下げた。
波多野は部下に座るよう促した。
「考え直してくれて、本当にうれしい。」
「・・・・すみません。」
「後で晶生と崇にも連絡しておけ。」
「はい。」
「茂に会ったのか。」
「はい。叱られました。薄情者・・・って。」
波多野は楽しそうに笑った。
「月ヶ瀬の・・・・透の、ことか。」
「そうです。・・・波多野さん」
「なんだ?」
「大丈夫ですよね?」
「なにがだ?」
葛城が何のことを尋ねているのか、分かっているのに、波多野は意地悪をした。
葛城は懇願するような顔になった。
「本当に反省していますから・・・どうか、教えてください。」
「よしよし、素直でよろしい。大丈夫だ、透は退院してリハビリが終わったらちゃんとうちの仕事に復帰するから。」
ようやく、葛城の表情に血の気と笑顔がよぎった。
「よかった・・・。」
「お前が翻意しなかったら、うちは有能なガーディアンを一度に二人も失うところだった。俺の寿命がどれだけ縮んだか想像してくれよな。」
「はい・・・。申し訳ありません・・・。」
「透は滅多なことでは他人と自分を関連づけないが、同時にあいつは、言ったことは絶対にやる。お前が退職してたら、あいつも本当に、辞めていたよ。」
「はい。茂さんに聞いたとき、心臓が止まるかと思いました。」
「・・・・”今回の警護においては、自分の注意不足のために自分の重大な負傷を招いたため、今回の警護案件の不始末を理由に葛城警護員が退職する場合、連帯責任でわたくし月ヶ瀬透も退職します。”・・・・透のこの意思表示は、透が崇に伝えたものだ。」
「はい。茂さんからそのことも聞きました。」
そのとき、事務所内を走る足音が響き、応接室の扉がノックされた。波多野が答えるまえに山添は扉を開けて入ってきた。
「おう、噂をすれば」
波多野が楽しそうに、そして葛城は申し訳なさそうに、山添を見る。
「崇・・・」
「・・・怜、やっぱり来てたんだね。良い知らせだね?」
「ああ、心配かけてすまなかった。」
「まったくだよ。縮んだ寿命どうしてくれる。」
「まあ崇もそこへ座れ。」
入れ替わりに波多野部長は立ち上がった。
「麦茶でも飲もうか。」
「あ、波多野さん、それなら俺が」
「崇は今回色々お手柄だったから、せめてもの労いだ。」
笑いながら波多野は給湯室へ歩いていった。
山添は葛城の隣に座り、おもむろに言った。
「怜・・・、波多野さんに聞いたかも知れないけど、今回の警護にこっそりついて行ったのは、・・・・晶生に頼まれた。」
「そうか。」
「正確には、晶生に頼まれた波多野さんから命じられた。」
「・・・茂さんが驚いてなかったから、彼も知っていたんだね?」
「ああ。それは俺がついしゃべってしまったからだけど・・・・透に色々言われて河合さんが不安そうだったからね。」
「そうか・・・。」
「お前は色々不満かもしれないけど、晶生に文句を言うなよ。」
「わかってるよ。」
「じゃあ、とりあえず晶生に電話しろ。」
「・・・わかった。」
葛城は携帯電話を取り出して応接室を出て、扉近くに立って電話をかけた。
波多野が麦茶一式を持って、葛城とすれ違い応接室のソファーへ戻ってきた。
「崇、お前さ、あの現場で・・・どのあたりから見ていた?」
「あいつが・・・ヘルメットを棄てたところからです。」
「で、どう思った?」
「河合さんと、まったく同じだと思います。つまり、怜とも、波多野さんとも。」
「でも茂には、違う説明をしたんだろう?無駄な抵抗だったとは思うが。」
「はい。」
「茂や怜が、たぶん、晶生に違う説明をしているのと、同じようにな。そしてそれも・・・たぶん無駄な抵抗なんだろうが。」
「はい。」
「やりきれんな。」
「・・・・はい。」
電話を終えて、葛城が戻ってくる。山添が少しの不安を表情に混ぜ、葛城を見る。
「晶生と話せた?」
「ああ、ちゃんと謝った。」
「何て言ってた?」
葛城は微笑した。
「もう晶生が海外出張するときは警護をするなって。」
「ははは・・・。」
時計に目をやり、葛城は二人に向かって言った。
「今から、茂さんのところへ行こうと思います。」
「え?」
波多野と山添は同時に首をかしげる。
「お前、茂とは今日会ったばかりじゃなかったか?」
「はい。」
「それに、お前が退職願を撤回することは、別れ際に伝えたんだろう?」
「はい。」
山添も尋ねた。
「じゃあ、何しに行くんだ?」
葛城は立ち上がった。
「今頃、たぶん茂さんは、大変なことになっているはずです。」
翌日の月曜夕方、葛城の自宅一階の広々とした和室で、茂は氷枕をして布団で寝ていた。
葛城が、処方箋薬局の説明書きがホチキス留めされた袋から、粉薬ひとつと錠剤数種類を取り出し、茂の顔を覗き込む。
「茂さん、また熱が出てきましたね・・・。薬、飲めますか?」
茂は顎までかかった掛布団の中から、力なく答える。
「あ、ありがとうございます・・・・・ほんとにすみません・・・・ご迷惑をかけてしまって・・・・」
「いいんですよ。」
「しかも葛城さんの家で看病していただいてしまって・・・・」
「いえいえ、茂さんの家まで毎日通うより、こっちのほうがラクですから。」
「す、すみません・・・・・」
葛城はピッチャーからグラスに水を注ぎながら優しく笑った。
「崇も来たいと言ってたんですが、仕事があって無理でした。そのかわり、事務所であれを預かってきました。」
葛城が目をやった場所には、健康ドリンクがワンケース、畳の上に置かれていた。茂は山添の気持ちはありがたく受け取った。
そのとき、インターホンが鳴った。
玄関へ出て行った葛城は、訪問してきた二人の長身の青年を見上げ、微笑んだ。
「そこでたまたま会ったんだ。三村さん、そうですよね。」
「はい。俺は親父からの届け物を葛城さんに持ってきただけですから。」
英一と高原が一階の広々とした和室に入ると、高原を認めた茂が慌てて布団から体を起こした。
「寝てろ寝てろ。」
「そうですよ、茂さん。」
茂を止めて再び寝かせてから、葛城は英一と高原に座布団をすすめた。
高原は茂の顔を見て、にやにやしながら言った。
「雨にずぶ濡れになって山から下りてきて、自宅で行き倒れたところを怜に救助されたんだって?」
「・・・・はい・・・・」
高原をたしなめるように見ていた葛城は、しかしすぐに少し楽しげに笑った。
「お前に習ったピッキング技術が役にたったよ、晶生。」
「鍵について学んでおくのは悪くないだろう?」
英一は高原と葛城を見比べ、苦笑した。
「葛城さん・・・・河合の部屋に侵入したんですか。」
「はい、昨日の夜。」
「怜の勘が的中した・・・というより、これは誰が考えても普通に予想できるな。でも怜に発見されてよかったよな、河合。」
「茂さんは高熱を出して動けなくなってましたから。」
「今日会社を休む連絡が、本人以外から入ったと聞いたんで、もしかしてと思いましたが・・・・。先輩たちにこんなに迷惑をかけていたとは。」
「うるさいなー三村・・・・・」
茂の抗議の声はほぼまったく力がなかった。
葛城の自宅を後にした英一と高原は、徒歩で最寄りの私鉄駅まで向かった。
日はすっかり暮れていたが、空にはまだ月も星も見えない。
「高原さん、問題は少しは出口が見えそうですか?」
英一は質問したが、その口調は回答をほぼ期待していないように聞こえた。
「なにひとつ。」
「・・・葛城さんが仕事を続ける決心をされただけでも、よかったんじゃないでしょうか。」
「そうですね。」
「月ヶ瀬さんという警護員さんのことを、あまり心配されないほうが良いと思います。」
「・・・・」
「俺はその人を直接知っているわけではありませんから、単になんとなくですけどね。」
「・・・・」
「高原さんや、葛城さんや、そして河合のような、人間は、きっと、・・・・月ヶ瀬さんのような人のことを、知ると、何かしたくてたまらなくなるでしょう。」
「そうですね。」
「でも、既にご存じのはずですよね。短いつきあいではないはずですし。」
「はい。」
「何も、できないってことを。」
高原は歩きながら、光のない夜空を見上げた。
「おっしゃるとおりです。」
「そして、高原さんは特に、今、それどころではない状況のはずです。」
「そうですね・・・・。」
英一が隣を歩きながら高原の横顔に目をやる。
「初めてお会いしたとき、貴方がおっしゃったことを、よく覚えています。大森パトロール社は、ただ、クライアントを違法な攻撃から守る。それ以外の判断はしない、と。」
「はい。」
「それは、簡単なようで、非常に・・・・」
「ええ・・・行き詰っています。」
夜空から正面へ視線を戻して、高原は苦しそうに、笑った。
「それはあまり昔からのことではないですね。」
「そうですね・・・やはり、奴らと関わるようになってから、ですね。でも、奴らは原因じゃなく、きっかけに過ぎなかったと、今回のことで改めてわかりました。」
「・・・高原さん」
「・・?」
「慌てることは、ないと思います。いずれにせよ、ご自身を大切に、なさってください。」
高原は少し驚いた様子で、改めて英一の顔を見た。
そして、メガネの奥の知的な目を伏せ、ため息交じりに微笑んだ。
「ありがとうございます、三村さん。悔しいですが、どうして河合が貴方にいつも反発しているのか、少しだけですがわかる気がします。」
「え?」
「素直になるには、貴方はあまりにも頼りがいがありすぎる相手です。甘えないように自分を律するのはほぼ無理になる。本能がそれを教えるんじゃないでしょうかね。」
数秒おいて、二人はほぼ同時に、笑った。
翌火曜日の午後、波多野は月ヶ瀬の病室にいた。
「お前の言葉が切り札になった。感謝してるよ。」
月ヶ瀬はベッドの上で窓のほうを見ていたが、顔を上司のほうへ向け、美しい切れ長の両目で波多野を見上げる。
「でもそれだけじゃ無理だったんじゃないですか。大方、河合さんが捨て身で止めたんでしょう。波多野さんが見込んだだけのことはありそうですから。あの新人警護員の意外性は、いつも。」
「はっはっは。とにかく、助かった。ありがとう。」
「僕が怪我したことで、色々葛城たちに面倒をかけましたから。」
「借りをつくるのが嫌いだからな、お前は。」
「これでチャラだと嬉しいです。」
「そうだな。・・・ただ・・・」
「波多野さんのご指示ですから、後輩指導はできることはやります。」
「頼む。」
「でも、あいつらと警護で組むのはもう厭です。」
「まあ、希望はなるべく尊重するよ。」
波多野はその数分後、見舞いを終えて病棟を後にした。
一人残された病室で、月ヶ瀬は天井を見つめていた。
窓の外の曇り空からときおり細い光が垣間見え、しかし日差しは夕暮れに向かってゆっくりと褪せつつあった。
月ヶ瀬の、美しさよりも冷たさが勝っている、そして黒いというより暗い蒼みを感じる、両目は、長い間静かにただ天井を見つめ続ける。
やがて、目を閉じたその表情には、水のような空虚さが、ただ満ちていた。
病院出口を出たとき、波多野は病院へ到着した目の前の人物を見て、呼び止めた。
「怜。今から見舞いか?」
「はい。」
葛城は手に車のキーだけを持ち、穏やかさの中に微かな執念がよぎるような目をして、建物へと入ろうとしていた。
「会うのか。」
「はい。」
「無駄なのに、か。」
「はい。」
「お前に、透は・・・月ヶ瀬は、救えないぞ。」
葛城は波多野の顔を見た。
「そうですね。」
「あいつは、体こそあの世には行かなかったが、昨日も、今日も、いつも・・・誰の手も届かないところにいる。」
「・・・・・そうですね。」
「たったひとりで、な。」
「わかっています。」
波多野の、慈しみと憔悴が混在する顔を、葛城はもう一度まっすぐに見つめた。
「でも、会います。仕事も、やります。それしかできないです。私には。」
一礼し、葛城は病院の建物へ足早に入っていった。
空には、昼と夜の狭間の、ためらうような光が漂っていた。
「ガーディアン」第十話、いかがでしたでしょうか。
次回は、もう少し明るさの多い話にしたいなと思っております。これからもよろしくお願いします。